赤ん坊のオモチャ「マクロ経済学」で経済は政治階級のオモチャに


2013年8月14日、ロバート・ヒッグズ、「マクロ経済学は本当に経済学なのか?」

 Robert Higgs

もしも、マクロ経済学が、決して考案されていなければ、
おそらく、世界は、もっと良かったであろう。
私は、頭にあるのは、何をおいても、ケインズ主義のマクロ経済学であるが、
他の型式のマクロ・モデルたちも含める。
デイヴィッド・ヒュームからフリードマン主義者たちまでの系統を引いている、
マネタリズムとして今知られている、数量理論の接近法全体も、
私は、幾分しぶしぶではあるが、含める。

私が(まがりなりの)オーストリア派になるずっと前、
私を悩ませたマネタリズムの見地の一つが、その総経済活動の単純化である。
マネタリストたちは、(多かれ少なかれ精巧版の)フィッシャーの交換方程式に、
自分たちの分析を基づかせて、こう主張する。
名目総需要の変化(それゆえに実質生産量あるいは価格水準の動き)は、
(貨幣需要量の相殺変化が無ければ)貨幣量(マネー・ストック)の変化に応じて起こると。
この考えは、貨幣量の尻尾が総経済の犬を振ることが出来るし、振るのだと、
すなわち、より具体的には、能力以下の実質生産量という状況(「景気後退」や「不景気」)では、
貨幣量の増大が、そして、そのような増大のみが、実質生産量と雇用の増大を推進するのだと、
という主張に私には思われる。

総生産量と雇用の変化は、他の変数(たとえば、自分たちの私有財産権の将来の安全についての、
投資家たちの認識[体制の不確実性])の変化の結果としても起こるかもしれないと、
私は信じていたし、いまも信じているので、
マネタリズムは、信じられないほど高い度合いの説明能力を主張していると私には常に思われた。
そのいくらかは、フリードマンとシュワルツ流の、
貨幣と総生産量の間の偽の経験的相関関係によって隠されていたのかもしれない。

ミーゼスと彼の学徒たちによって詳述された、その多くの他の不備の中でも、
要するに、マネタリズムの最も基本的な欠陥は、
過去70年や80年の間にマクロ経済学者たちが進めた、
ケインズ派、ポスト・ケインズ派、新しい古典派、
他の理論の最も基本的な欠陥と全く同じである。
その理論が、重要な変数を除外しているだけでなく、
経済秩序の中で起こっている実際の経済活動を隠す、
すべてを包含する巨大な集計量で表現されていて、単純すぎるのだ。





2013年8月17日、ポール・クルーグマン、「保守主義者たちは(ほとんど)リバタリアンにあらず」

 Paul Krugman

さて、世の中には、何人かの本当のリバタリアンたちがいる。
とりわけ、経済ブロガーたちの領域に。
しかし、彼らは、何も本当の権力基盤を持っていない。
政治家たちが、リバタリアンだと主張する時ですら、露呈してしまうものがあるのだ。
二人のR. ポール、父と息子は、安全保障国家を問題視することでは異例であるかもしれないが、
彼らは、両者とも、白人至上主義者たちに迎合する、
およびもしくは用いる、注目すべき傾向を持っている。

そして、私が思うに、ケインズ経済学に対する憎しみすらも、
失業が適切な政策対象ではないという考えに関係しているというより、
経済の運命に対する力を大企業から選出公職者たち移すという考えに関してなのだ。
それが、カレツキの主張点だった。
そして、私は、それについて、Mike Konczalから学んだ!


2013年8月17日、ウィリアム・アンダーソン、「ケインズ"経済学"は国家に権限を与えることだと」

 William L. Anderson

言い換えると、経済は、実際に政治階級のオモチャになるべきであると。
まるで、彼らが、物事を良くする光り輝く才能や専門知識を持っているかのように。
そのうえ、リバタリアンたちが、市場過程のようなものについて語る時には、
クルーグマンのような人たちは、いつでも、「大企業」という言葉を投げる。
それは、おそらく、その二つが同じものであるという意味である。
というわけで、クルーグマンは、我々が市場、価格システム、
起業家精神によって意味するものについて無知であるか、
もしくは、明らかに不正直であるかだ。
もしくは、その両方だ。





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2008年5月21日、ロン・ポール、CounterPunch

 Ron Paul

この多くを引き起こす手段が、メディアによる巧妙なものというか。
そして、それが、私を非常に苛立たせます。
なぜなら、彼らが、選挙の前や直後に、選挙や運動を分析する時、
いつも、すぐに出てきて言うからです。
個人たちは、どのように投票したでしょうか?とは決して言いません。
イスラム教徒たちは、どうしましたか?
ユダヤ人たちは、どうしましたか?
女性たちは、どうしましたか?
彼らは、どうしましたか?と言います。
そして、誰もが、延々と、あるカテゴリーに入れられます。
それで、私たちは、個人だから重要なのではなく、
あるグループに属しているから初めて重要なのだと、
考えるよう条件付けされています。





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2012年2月28日、トマス・ソウェル、「“公平”詐欺」

 Thomas Sowell

政治家たちが、さらに大量の国の資金を浪費できた国々は、
世界をより公平にすることに失敗しただけでなく、
そういう政治家たちの手にさらに資金と権力を集中したことが、
しばしば、良くて逆効果、最悪血まみれの大惨事という結果に至ったのだ。

より根本的に、生活が公平かどうかの問いは、
ある社会の規則が公平かどうかの問いとは、全然異なるのである。
社会の規則は、誰に対しても同じ基準の賞罰を用いるという意味で、公平になれる。

「公平」についての、つかみどころのない話が、
さらに国の資金を浪費しようとする政治家たちによる詐欺の核心にあるのだ。


2010年冬、ロバート・ヒッグズ、「景気後退と回復: 現在の正統教義の六つの基本的誤り」

 Robert Higgs

過去一年半の間に景気後退が深まり、
金融の大失敗が、一つの炎上からまた別の炎上とへ走り、
経済の困難についての解説が、ものすごく膨らんでいる。
識者たちは、もったいぶって話し、
ジャーナリストたちと編集者たちは、報道し意見を述べ、
トークラジオのジョッキーたちは、騒ぎ立て、
公職者たちは、いつもよりさらに煙に巻いた話を吐き出し、
不器用な大学の専門家たちは、ヘッドライトの中の鹿のように、
カメラの眩しい光に遭い、テレビに大写しで目をぱちくりし、
つかえながら束の間の仕事を片付けた。
我々は、診断、予後、処方の莫大な流出に浸されたが、
その少なくとも95%は、ぞっとするほど悪かった。

その大部分が悪かったのは、同じ理由による。
経済についての専門知識を持っていると主張するほとんどの人々が、
共通する思考の前提および方法の一式に頼っているのだ。
私は、このエセ知識の寄せ集めを「俗流ケインズ主義」と呼ぶ。
五十年以上の間、この国で経済知識として通用してきた、そして、
ポール・サミュエルソンの「経済学」の初版に始まっているように思われるのが、
その同じ戯言(たわごと)である。
これまでで最も売れた経済学の教科書であり、数世代の多数の大学生たちが、
経済分析について知っていることは何でもそれから獲得した。
ずっと昔に、その見解が、教養ある対話、ニュース・メディアでの執筆、政治に浸透し、
自らを正統学説として確立したのである。

経済の働き特にその全体的変動についてのその考え方は、
残念ながら、作為と不作為の両方の間違いだらけである。
最も残念なのは、その思考方法から導き出された、政策への影響だった。
中でも、マクロ経済を管理し、その変動を安定させるために、
政府が財政政策と金融政策を用いることが出来て用いるべきであるという考えである。
半世紀以上前に始まったにもかかわらず、
この見解が、1949年同様に2009年も元気なように思われる。

経済の好況と不況を理解し取り扱うその残念な接近法の、
最も酷い六つの面について、手短に考察しよう。





集計

総所得もしくは総生産量、総消費支出、総投資支出、総純輸出、
ほんの一握りの経済全体の集計の観点で経済について考えることが意味を成しているのだと、
ジョン・メイナード・ケインズが、彼の同僚の経済学者たちを説得し、
それから、彼らが、公衆を説得した。
もしも、人々が、経済学の入門課程から何か覚えているすれば、
この等式を覚えている可能性が最も高い。
Y=C+I+G+(X-M)

Q・Pが、この方程式の右辺の変数に等しくされることもある。
そこで、この考えは、総供給(物的生産量×価格水準)が、総需要に等しく、
新しく生産された最終の財とサービスに対する四種類の貨幣支出の総額に等しいというもの。

多様な経済全体の取引をたった一つの変数に圧縮するこの方法は、
その集計それぞれの内部の複雑な関係と相違の認識を隠蔽する効果を持つ。
従って、この枠組みでは、テディーベアの在庫に百万ドルの投資支出を加える効果は、
新しい銅山を掘ることに百万ドルの投資支出を加えることと同じである。
同様に、映画チケットに百万ドルの消費支出を加える効果は、
ガソリンに百万ドルの消費支出を加える効果と同じである。
同様に、子供のポリオ予防接種に百万ドルの政府支出を加える効果は、
7.62ミリの弾薬に百万ドルの政府支出を加える効果と同じである。
集計量それぞれの内部の違いの隠蔽が、経済についての我々の考えを、
酷く邪道に陥れるかもしれないという有り様を思い付くのに、そんなに思考は要さない。

実際、「経済」は、我々が「生産量」と呼ぶ一様な塊を生産するのではない。
それどころか、「総供給」を生み出す何百万の生産者たちは、
無数の方法で異なるほとんど無限の種類の特定の財とサービスを供給するのである。
そのうえ、現代の市場志向型経済において起こっている莫大量のものは、
「最終」の財とサービスを全く供給せずに、
原材料、構成部品、中間生産物、サービスを、
お互いに供給する生産者たちの間の取引から成っている。
それらの生産者たちは、複雑な関係パターンで繋がっていて、
それは、その取り合わせ全体が、有効に働くのなら、
一定の割合を引き受けなければならないのだから、
重大な結果は、特定において、いつ、どこで、どのようにして、
何が生産されるのかに依存しているのである。

それら非常に複雑なミクロ関係が、我々が「経済」を語る時に実際に言及しているものである。
それが、均一な集計のしろものを生産するためのたった一つの単純な過程でないことは、確かである。
そのうえ、我々は、「経済行為」を語る時には、
何百万の多様な参加者たちが行動方針を選び出して、
他に取り得る選択肢を退ける際に行っている選択に言及しているのである。
不足によって制約された選択なしには、真の経済行為は、何も起こらないのだ。
したがって、俗流ケインズ主義は、経済モデルであると、
少なくとも、筋の通った経済分析の枠組みであると、主張しているが、
実際には、まさしく本物の経済行為の可能性を除外しているのである。
その代わりに用いているのが、単純な機械的概念、
すなわち、知において、赤ん坊のオモチャに相当するものである。


相対価格たち

俗流ケインズ主義は、相対価格たちを、もしくは、そのような価格たちの変化を無視する。
その枠組みでは、一つだけの価格が存在し、それは、「価格水準」と呼ばれ、
その経済の無数の実際の財とサービスが売られている貨幣価格すべての加重平均を表している。
(金利もあり、限られた誤らせるやり方で価格として扱われているが、それについては、後述する。)
もしも、相対価格たちが変化すると、それは、もちろん、最も安定している期間でさえ、
ある程度は、常に変化しているのだが、それらの変化は、「平均」されて、
たとえあったとしても、覆い隠されて分析上では重要でない形でのみ、
計算された総価格水準の変化に影響を及ぼすのだ。

そこで、もしも、経済が、特定のラインに沿って拡大し、他のラインに沿っては拡大せず、
相対価格たちの形状が変化すると、俗流ケインズ主義者たちは、
「総需要」と「総供給」が上昇したことは分かるが、
なぜ、もしくは、どのようにして、それらが上昇したのかは、さっぱり分からないのだ。
彼らは、気にも掛けないのである。
彼らの見方では、経済の総生産量、その彼らが注目に値するとして扱う生産量のみが、
総需要に動かされ、それに対して、総供給が、多かれ少なかれ自動的に反応する。
そして、キュウリの需要のみが上昇したのか、それとも、
ケインズ自身が用いた例を挙げると、ピラミッドの需要のみが上昇したのかは、
重要なことではないのだ。
総需要は、総需要であり、総需要なのだ。

俗流ケインズ主義者は、経済の生産の構造という概念を持っていないので、
特定のラインに沿い、他のラインに沿ってない、需要の拡大が、
どのように問題となるのか、考えることが出来ないのである。
彼の見方では、たとえば、多すぎる住宅とアパートを持つことは、あり得ないのだ。
住宅とアパートに対する支出が増えることは、経済が遊休資源を持っている時には、
どれだけの住宅とアパートが空いていようが、どの特定種類の資源が遊休なのであろうが、
それらがこの広大な土地のどこに位置していようが、常に良いと思っているのだ。
その失業労働者たちは、アイダホの銀山の熟練坑夫たちであるかもしれなくても、
とにかくコンドミニアムの需要がパームビーチで増えたら、おそらく、やはり良いことなのだ。
なぜなら、俗流ケインズ主義者にとっては、
労働者たちの個々の部類や別々の労働市場は、存在しないのだから。
労働は、労働であり、労働なのだ。
もしも、誰かが、失業していたら、彼の技術、選好、位置が、どうであろうと、
その思考枠組みの中では、我々は、そのお金を何に支出することになろうと、
それが、化粧品であろうと、コンピューターであろうと、彼を仕事に戻すと期待していいのだ。

この厳然たる単純が存在している。
なぜなら、総生産量は、用いられる総労働の単純な増加関数なのだから。
Q=f(L), where dQ/dL>0

留意すべきは、この「総生産関数」が、総労働、一つしか入力を持っていないことである。
労働者たちは、見たところ、資本の援助無しで生産している!
俗流ケインズ主義者は、もしも問い詰められると、労働者たちが資本を用いることは認めるが、
資本ストックは、「所与」と受け取ってよく、短期では固定されているのだと主張する。
そして、非常に重要な点だが、彼の思考装置全体は、もっぱら、
彼がその短期を理解するのを助けることを目的としているのである。
長期では、彼は、ケインズが言ったように、我々は「皆、死んでいる」と主張するかもしれない。
もしくは、長期が、我々が一連の短期を連続して置く時に得るものであることを、
あっさり否定するかもしれない。
俗流ケインズ主義者は、事実上、当座を生きることを扱い、
主要な徳として、当座のみなのだ。
いつでも、未来は、何とかなるので大丈夫、放っておいてよいのだ。


金利

俗流ケインズ主義者は、金利に関心があるかもしれないが、狭い意味においてのみだ。
彼にとっては、金利は、「お金の価格」、すなわち、借入金に払うレンタル料である。
そのような借入は、常に良いのだ。
そして、さらなる借入は、常にさらに良いのだ。
なぜなら、個人たちが、借入金を用いて消費財を買い、それによって「雇用を創出」するからだ。
そして、雇用は、既知の宇宙で最も素晴らしいものなのだ。
従って、金利が低いほど、さらに人々が借りて使い、より良く経済が機能するのだ。
やはり、この国のどこかに失業がある限り。
いくらかの失業は、常に存在するので、
俗流ケインズ主義者は、常に、金利を実際よりも下げたがる。
もしも、中央銀行の行動によって人為的に下げることが出来るなら、
彼は、そのような行動に強く賛成する。
連邦準備制度が、最近、「フェデラル・ファンド」
(銀行たちがお互いに借りるオーバーナイト残高)の金利目標をゼロで始まる範囲へと押し下げた。
そして、尊重されている経済学者たちが、
マイナス金利を目指すというキチガイじみた考えをもてあそんだ。

俗流ケインズ主義者は、金利が実際に何であるのかを理解していない。
それが、極めて重要な「相対価格」、すなわち、
将来の利用可能財に対する今の利用可能財の価格であることが、理解できないのだ。
まったく彼が相対価格たちの観点で考えていないことを、思い出してほしい。
だから、現在の消費と貯蓄すなわち、現在の所得を消費しないことによって、
より多い将来の消費を可能にするために行動すること、
その間の選択に、どのように金利が影響を及ぼすのか、
彼が理解できないことは、まったく当然なのだ。
自由市場では、金利の低下は、現在から将来に、より多くの消費を移したい願望を反映する。

自由市場ならば、貸出可能資金の民間の供給者たちおよび需要者たちから成り、
実勢市場金利は、需要者たちが借りたがる総額が、
供給者たちが貸したがる総額に等しいものであろう。
しかし、借り手たちと貸し手たちは、自分たちの「時間選好」に照らして、
自分たちの選択を行っている。
つまり、自分たちが進んで現在財を将来財と交換する率である。
「高い率の時間選好」を持っている人たちは、後でよりも今、消費したがっている。
そして、彼らに現在の消費をやめさせるには、借り手たちは、
彼らの資金を使用するために、高い金利を払うことによって、彼らに報いなければならない。

俗流ケインズ主義者たちは、より低い金利が、ビジネス会社たちに、
さらにお金を借りてそれを投資するよう拍車をかけることは理解しているが、
ビジネス投資計画は、ケインズが言ったように、
起業家たちの「アニマル・スピリッツ」に駆り立てられていて、
本来的に不安定で、本質的に不合理であると想像している。
従って、投資が金利の変化に反応する度合いは小さくて、
多かれ少なかれ無視していいのだと。
俗流ケインズ主義者たちにとって、金利の重要性は、
それが、個人たちが消費財の購入に資金供給するために借りる総額を規制することである。
彼らの見方では、それらの購入が、どれだけ会社たちが生産したがるか、
どれだけ彼らが自分たちの生産能力の拡大に投資したがるか、の決定で重要な要素なのだ。
しかし、その枠組みでは、やはり、重要なのは、
どんな種類の投資が行われるのかではないのである。


資本とその構造

すでに述べたように、俗流ケインズ主義者は、資本ストックを「所与」として見る。
彼は、たとえ、それについて考えたとしても、
それを過去からの大規模な遺産のようなものと考え、
短期では、加えられたり減じられたりするかもしれない、
配慮を正当化するのに十分な、それを変化させるものは何もないと想定しているのだ。
しかし、資本は、あまり考慮しないとしても、その構造は、まったく考慮しないのである。
過去の貯蓄と投資が具体化している資本財の無数の特定の形態の間の、
専門化と相互関係のきめ細かいパターンである。
彼の分析枠組みでは、重要なのは、会社たちが投資しているのが、
新しい電話なのか水力発電ダムなのかではないのだ。
資本は、資本であり、資本なのだ。

その枠組みでは、資本ストックの構造は、無視されているので、
(フランク・ナイトのような洗練された経済学者たちでさえ、
資本ストックは、本質的に、貨幣価値の一様な塊であり、
そのどの部分も、等しい貨幣価値の他のどの部分と完全に取り替えられてもよいと主張した。)
金利の変化が、どのように資本ストックの構造の変化をもたらすのかに、全く注意が払われていない。
結局のところ、そのような変化は、どのような違いをもたらし得る可能性があるのか?
その故意の盲目が、最も最近のノーベル賞受賞者ポール・クルーグマンを含めて、
多くの経済学者たちにオーストリア派の景気循環理論を「過剰投資」理論と誤解させてきた。
断じて、そうではない。

20世紀前半にルートヴィヒ・フォン・ミーゼスとF. A. ハイエクによって開拓されたこの理論
(マクロ経済学でのケインズ革命の後に、ほとんど忘れ去られた理論)は、
そうではなく、「誤投資」の理論である。
つまり、人為的に下げられた金利が、どのようにして、間違った種類の資本、とりわけ、
たとえば、比較的短命である在庫品、設備、ソフトウェアとは対照的なものとしての、
住宅用および産業用の建築物のような、最も長寿命の資本財に投資するよう、
ビジネス会社たちを導くのかの理論である。
従って、オーストリア派の見方では、2002年と2005年の間のもののような、
連邦準備制度が誘発した低金利が、より長期の資本計画を過大評価するよう、
そして、自分たちの投資支出をその方向に移転するよう、会社たちを導いたのである。
数ある中でも建築物の建設で好況を創り出した。
その移転は、もしも、自由市場で金利が下落し、それによって、
人々が自分たちの現在の所得のうち、より多くを貯蓄することによって、
さらに多くの消費を延期したいと望んでいることを合図しているのならば、
経済的に意味を成す。
しかし、もしも、人々が、そのように自分たちの選好を変えたのではなく、
以前同様に比較的に現在の消費を好み続けているのであれば、
ビジネス企業たちは、それらの種類の投資計画を選択することによって、
間違いを犯すのである。
それは、事実上、最終的に決して生じることのない未来の需要を予想しようとする試みなのだ。
その計画が、ついに失敗し始める時、人為的な低金利が発動した好況は、
破産と失業労働者たちを伴って不況へと崩壊する。
維持できない計画が清算され、資源が、多くの場合で痛々しく、より実行可能な使用へと移転されて。

俗流ケインズ主義者は、これらのミクロの歪みに、そして、
人為的に誘発された好況の後には、それらの修正が必要であるということに、盲目であるため、
必然的に相当な経済再構築を伴う破産と失業が必要であるということが何も分からない。
彼は、こう考える。
政府が介入して、減じた民間の投資と消費支出を埋め合わせるために、
自らの赤字支出を用いてくれさえすれば、いかなる経済再構築も無しで、
ビジネスは、利益性へと回復され、労働者たちは、再雇用されるのにと。

それなら、そのような線に沿って考える人たちが、
2002年-2006年の維持できない好況を作り出すことに大きく貢献した、
すなわち、そのような貸付を受け取る通常の商業上の資格に満たない、
自宅所有志望者たちに貸し出すことを助成した、
政策を継続しようと現在働いていることは、驚くには当たらない。
多すぎる資源が、住宅とコンドミニアムの建設へと向けられたということ、
そして、助成されない限り住宅を購入する余裕のない自宅所有者たちに貸し出すことが、
それらの補助金を直接に間接に資金供給する納税者たちの負担で、
資源の不経済な使用を合図するということが、俗流ケインズ主義者たちには、思い付かないのだ。


誤投資と貨幣注入

俗流ケインズ主義者たちは、マクロ経済の弾み車としての政府支出の効能に対する、
大きく単純な信念を持っていて、過去および現在の誤投資を無視し、
政府の歳入を超えた政府支出を支持する。
その差は、借入によって賄われる。
もちろん、彼らは、そのような借入を政府にとって、
より安くするために、中央銀行の行動に賛成する。
実際、彼らは、より制限的な中央銀行政策よりも、
「金融緩和」政策を慢性的に好む。
彼らが金融緩和を好むのは、前記のように、それが、政府の赤字支出に資金供給する、
見える費用を下げるからだけでなく、それが、個人たちに、
お金をさらに借りて、それを消費財に支出するよう促すからである。
そのように増えた消費支出は、常に、良いものとして見られている。
近年、合衆国では、個人たちによる貯蓄率が、ゼロ近くであるにもかかわらず。
連邦準備制度の政策に対する俗流ケインズ主義者の態度を考えると、
私は、歌詞の繰り返しが、「それは、より古いウィスキー、より速い馬、
より若い女、より多い金」という古いカントリー・ソングを思い出し続ける。

俗流ケインズ主義者たちは、可能性のあるインフレについて心配することには、
あまり時間を費やさず、逆に、僅かでもデフレの兆候には、不合理な恐怖で頭がいっぱいになる。
もしも、インフレが、否定できない問題になれば、
我々は、彼らが価格統制を支持するものと期待してよい。
第二次世界大戦中の、そのような統制についての、うわべの知識に基づいて、
彼らは、うまく働かせることが出来ると確信しているのだ。


体制の不確実性

俗流ケインズ主義者たちは、政策活動家たちでないなら無である。
彼らは、フランクリン・ルーズベルトのように、
政府が「何かを試みる」べきであると信じている。
そして、それが、うまく働かなければ、他のことを試せと。
政府が、直ちに、一連のことを試すのが、さらに良いのだと。
そして、それらが、うまく行かなければ、
とにかく、それらに、さらにお金を注ぎ続け、おまけに、他のものも試せと。
彼らが合衆国の政治経済史における最も輝かしいものと考える時代が、
ルーズベルトの大統領としての最初の任期と、
リンドン・ジョンソンの大統領職の最初の数年間である。
それらの期間に、我々は、支出し、課税し、規制し、補助金を出し、
そして、概して並外れた規模で経済的損害を創り出す、新しい政府施策の噴出を目撃した。
多くの面でのオバマ政権の野心的な政府行動計画は、俗流ケインズ主義者たちを、
そのような三度目の「大躍進」が今始まったという希望で満たしている。

俗流ケインズ主義者は、極度の政策活動主義が、
私が「体制の不確実性」と呼ぶものを創り出すことによって、
経済繁栄に反する働きをするかもしれないことを理解していない。
近い将来の経済秩序の本質そのものについての普及する不確実性である。
特に、政府が、将来、どのように私有財産権を扱うのかについての。
そのような不確実性は、特に、長期計画にお金を投入することを、
投資家たちに思いとどまらせる。
そのような投資は、1929年の後にほとんど消え、
第二次世界大戦の後まで完全には回復しなかった。
一年に満たない期間に詰め込まれた、政府による熱狂的な一連の、
救済措置、資本注入、緊急貸出、買収、刺激策、他の臨時措置から、
体制の不確実性が生じたと複数の観察者たちが最近に述べている。
オバマ政権が、権力を握っていて、
この種の半狂乱な政策活動主義が続く見通しが高いと思われる。
それは、助けにはなり得ず、それが、大いに害するかもしれない。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-705.html

2011年5月17日、ロン・ポール、ラスベガス、クラーク郡・共和党会議

 

ワシントンの状況は、あまり良くありません。
状況は、ここ、ワシントンの外側のほうが、ずっと良いです。
情熱が、大きくなっています、理解が、大きくなっています。
何がこの混乱を私たちにもたらしたのか、
何を私たちは行う必要があるのかについての知識。
それが、私が楽観的でいるものです。
特に、大学を訪れる時、私は、うれしくなります。
次世代は、自分たちが、何を為さねばならないのか、知っていますから。

しかし、ワシントンでは、相変わらずです。
私は、かなり、うんざりしています。
皆さんも、そうであることは、分かっています。
私たちが、とにかく変えるべきだと思います、政府の概念全体を。

政治活動に関与することは、重要ですが、
しかし、政治活動は、哲学における立場の結果であるはずです。
哲学における立場と、どのようにして、私たちが、
この混乱に陥ったのかについての理解は、かなり明快です。
政治における変化は、移行ですから、困難です。
私たちは、国として、長い長い間、悪い経済政策と共に生きてきました。
私は、大統領による、これまでで最も暴露的な発言の一つが、
少なくとも、経済に関しては、1971年の、ある夜、ラジオで、
私が、ニクソンが宣言し請け合ったのを聞いたことだと思います。
我々は、今や、皆、ケインズ主義者であると。

 

私は、私たちが、こう言える日を待っています、切望しています。
我々は、皆、オーストリア経済学の者である!
我々は、自由市場を信じていると!


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2012年6月7日、ロン・ポール、Texas Liberty Concert

 

あなた方は、ちょっとばかり、私の助言に従っているようですね。
私は、いつも、こう主張しています。
世界を変えようと努力して、一所懸命に働くなら、
いくらか楽しんで、それを行えますよと、イェーィ!

同じく、ご存じのように、
その時が来た思想は、止めることが出来ません。

それは、軍隊には、止めることが出来ません。
それは、政治家たちには、止めることが出来ません。
それは、政府には、止めることが出来ません。
それは、ケインズ主義には、止めることが出来ません。
それは、ネオコン(新保守主義者)たちには、止めることが出来ません!

それで、国民が、活気づいていることに、疑いはありません。
彼らが、この自由(リバティー)のメッセージを聞いています。
そして、なんと、あなたへの私のメッセージは、
彼らが、それを好んでいるということです。
彼らは、それを好み、用意がありますが。

やはり、行わなければならない多くの仕事があります。
やはり、少し、ワシントンD.C.に、このメッセージを聞かない人たちがいます。
だから、彼らは、私たちから聞かなければなりません。
それが、彼らが、聞かされてきたものです。

ですから、私は、情熱的な聴衆のいるところに来ることが、嬉しいです。
起こっていることについて、楽観的になるべき、あらゆる理由があるのです。
たとえ、いくらか大変な時期になろうとしていても。

私たちは、破産を経験することになるでしょう。
私たちは、つらい時期を経験することになるでしょう。
しかし、この全体は、それに対する答えが、思想であるということです。
そして、その思想が、自由(リバティー)の思想です。

現在、彼らは、続けるようですし、経済は、さらに悪化します。
しかし、私たちが、私たちの抱える問題に対する答え、代替案のための土台を築いています。
この論点を分かっている、あなた方、その他とても大勢の方々のおかげです。

若者たちが、私のオフィスに来ますが、何歳ですかと、時々、私が尋ねます。
彼らは、連邦準備制度について興奮して、ロスバードや、その他の本を読んでいるのですよ。
彼らが、15歳だと言いますと、私は、うわあ、あなたは、私を遙かに超えていますね、
15歳の時には、私は、ロスバードを読んでいませんでしたと、ハハハハ。
それが、大切なことなのです。



実際に、大切なのは、思想です。
思想が、結果を持ちます。
悪い思想は、悪い結果を持ちます。
世界は、常に、思想と共に進みます。

私たちの思想が、しっかりとした地歩を得ています。
そこが、私たちが楽観的になるべきところです。

自由(リバティー)は、とても素晴らしく、私たちは、
あなたが、どのように、あなたの自由(リバティー)を用いるのか、決めなくていいのです。
あなたは、いかようにでも、あなたの好きなように、
あなたが、誰も害さない限り、それを用いることが出来ます。

ですから、これは、自由(リバティー)を支持して、
やって来る人々は、多様になるという意味です。
様々な方法で、自分たちの自由(リバティー)を用いたいのです。
宗教的な意味で、考えてみてください。
信心深い人たちもいるでしょうし、キリスト教徒たちもいるでしょうし、
ヒンドゥー教徒たちもいるでしょうし、イスラム教徒たちもいるでしょう。
しかし、団結するのは、宗教の自由(フリーダム)を望んでいるからです。

ですから、とても多様な人々を団結させます。
社会的な行為において、そして、経済的な行為においても。
そして、個人的な習慣においても。

これは、決めつける判断を下すのではありません。
主要な規則は、あなたは、人々を害してはなりません。
あなたは、人々の財産を奪ってはなりません。
あなたは、あなたの約束を果たさねばなりません。
契約が、なければなりません。
そして、本当に、わずかな原則一式に従う道徳的な社会を持てば、
私たちが、今後ずっと、この国で、平和と繁栄を達成する、
もっと、より良い可能性に恵まれることだけは、確かです。
それが、私たちに必要なものです!
それが、こんにち、世界が必要としているものです!







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コメント
http://mainichi.jp/select/news/20130905k0000m030080000c.html

この毎日のwebニュースによるとランド・ポールが世界の運命をかけてケリー長官と外交委で激論を戦わしたようだ。そして、反省なきベトナム帰還兵であるマッケインとも共和党内で論戦しているそうである。

http://www.opb.org/news/article/npr-senators-rand-paul-and-john-mccain-differ-on-syria-strikes/

また、ランドはすでに16年の大統領選の有力候補と見做されていると言う。

シリア情勢はバチカンやロシアが声明したように第3次大戦につながる(そして核戦争)危険性を秘めている。それはアメリカの全体主義化への分水嶺でもある。

この運命的瞬間にロン・ポールの息子が立ち向かっているのだ。

微力ながら、全力で支持しようではないか。
2013-09-04 水 20:43:43 | 光男 [編集]
連中は、これまで容易にイラク、リビアを経た計画がシリアで遅れていることに、腹が煮えくりかえっていることでしょう。
ブレジンスキーが、「昔は、肉体的に100万人殺すより100万人支配するほうが容易だった。こんにちでは、(大衆の「Global Political Awakening」により、)100万人支配するより100万人殺すほうが遙かに容易だ」と言っています。
操り人形の屑たち(オバマ、ケリー、マケインたち、おまけで加えれば安倍晋三ら小粒たち)が、指図通りに踊っています。
2013-09-05 木 13:28:53 | 豆長者 [編集]
マクロやミクロの問題はさておき、1913年にアメリカはウィルソンがバカだったために、国を乗っ取られたってことです。マクロで見ようがミクロでみようが、盗まれた国富を税金で2重に払わされる、奴隷生活がはじまったというわけです(笑)
2013-09-16 月 21:21:04 | MOP [編集]
ちょっと引っかかったので書いておきますが、もしもですが、連邦準備制度の創設を自らが犯した過ちとして悔いたウッドロウ・ウイルソンというイメージから「バカだった」と仰っているなら違います。
「私は最も不幸な人間だ。私は知らずに私の国を破壊してしまった」は、毎度おなじみ、政府紙幣教の捏造「引用」です。
ネット上で何万回「引用」されようが偽物です。
その捏造文が付け加えられているのが、1911年の大統領選挙運動中の演説です。
1913年より前です。(笑)
そして、その演説は、自由市場(もちろん、すでに政府干渉市場ですが)に対する非難です。
「我々は信用(クレジット)を制限してきたし機会を制限してきた」から連邦準備制度を創ったのです。
「国の成長それゆえに我々の活動すべてが、必然的に本物の経済的自由(エコノミック・フリーダム)を破壊してしまう少数の者たちの手にある」から連邦準備制度を創ったのです。(笑)
ウッドロウ・ウイルソンは、連邦準備制度(中央銀行)の創設も自らの誇らしい偉業と考えていましたし決して悔いていません。
その目的は、今も同じで、政府が支出できるようにすることです。
そして、政府による市場干渉、国家の拡大を推し進めている裏にいるのが、企業エリートたちです。
しかし、裏に誰がいようが、表で「政府による市場干渉、国家の拡大」が間違っていることを皆が知ればよいだけです。
税金を払わせているのは、政府です。
税金を廃止できる立場にいるのは、政府です。
中央銀行を立法で創り出したのは、政府です。
中央銀行を立法で廃止できる立場にいるのは、政府です。
ですから、政府の支出と中央銀行を用いた「リフレ」を擁護する今の主流の「マクロ経済学」および政府紙幣教が詐欺であることを知らせることが、最も重要なことだと私は考えています。
2013-09-18 水 00:12:14 | 豆長者 [編集]
WW1をはじめたのも終わらせたのも同じ勢力の影響か?
その幕引き役だったウィルソン大統領は「民族自決」でオーストリア帝国を滅亡へと導き、その後のチェコ併合や戦後のユーゴ紛争等、多くの災害を直接的に導いたが、今でもオーストリア人にはウィルソンへの怨恨が大きいと思う。
そして、ハイエクやミーゼスも亡命しなかっただろうし、ウィルソンは現代まで至る英米の似非国際化・似非民主主義対リバタリアニズムの対立の発端でもある。彼の思想に一般人にはなかなか見通せない現代支配層の狂気が認められると思う。

アメリカは自由の象徴、国際化のモデルみたいに言われてるが、実際は世界地図の空白地を狙って金と軍事力と策略で版図を広げたアングロ系植民地であることはばれかかっている。中産階級ぐらいまでは他民族でも這い上がれても、エスタブリッシュメントはやはりWASPであって、結局、イギリスと変わらないと思う。

そんな英米型国際化モデルに対して、はるかに困難な多民族共存を企図し結果として崩壊したオーストリア帝国の思想的系譜を主流とするリバタリアニズムが一世紀の潜伏を経てアメリカで体制を揺るがしつつある蠢動となっているのは単なる歴史の皮肉なのだろうか。
2013-09-19 木 11:10:06 | 光男 [編集]
今回の記事、すごく面白かったです。
他にも、オーストリア学派の、マクロ経済学批判の記事はありませんか?
2013-09-22 日 10:52:28 | T-Aプライド [編集]
主流の「マクロ経済学」という経済学でない詐欺の巨大構築物を支えている柱は、数本しかありません。
足で蹴ったら倒れるような細い細い柱です。
もちろん、頭で倒すのですが。

私の中の古典的な記事です。(笑)
http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-603.html

ピーター・クライン、「ケインズ主義:死なない野獣」
http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-760.html

http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-776.html
デイヴィッド・ゴードン、ミーゼスの集い「ケインズ主義国家の失敗」
 生徒が手を挙げて、教科書から引用して言いました。
 教授、「どんな経済学者も、これは言わない」と仰いましたがと。
 ミーゼスの返答は、あのね、彼は、経済学者ではないよ、彼は、ケインズ主義者ですと。

オーストリア学派のマクロ経済学者、ロジャー・ガリソンです。
http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-896.html

分かってしまえばアホみたいな詐欺です。
もちろん、詐欺は、それを信じている人たちがいる限り成り立つわけですが。

マリー・ロスバード
「自由(フリーダム)が、人生で最高の、それどころか、
 唯一の原則もしくは目的であると考え得るのは、馬鹿(imbecile)だけだ。」
「自由(フリーダム)は、政治において最高の目的であって、
 人間それ自体の最高の目的ではない。」

基本的に、このブログの記事は、ごく限られた同じ内容の繰り返しです。
分かってしまえば、毎度おなじみの話です。
そして、それが、政治上の選択を行う際に最も重要な急所なのです。
最終的には、政治的なもの(他人の財産の盗み取り)を社会から無くしたわけですが。

このブログを2008年から始めました。
私もそうだったのですが、この内容の理解が進むのは、徐々にではなく何段階かで一気にだと思います。
パラダイムシフトすれば、以前の思考は採り得ないのです。
ある程度しっかり理解すれば、複雑でない論点は、その延長で誰でも推論で結論にたどり着けると思います。
このブログで取り上げているようなリバタリアニズムとオーストリア学派の方々の論説を読むと、様々な論点で、時々、おおーなるほど!となりますが、基本的に、やはりそうだったかという確認作業になると思います。
それは、すでにパラダイムシフトしているからです。

取っ掛かりとして、この内容を広めるには、しつこくやるしかないと思っていますが、ちょっと私も飽きてきました。(笑)
これまでにも、もう基本的に伝えたいことは全部記事にしたと思ってやめようとしたことも何度かありましたが。

でも、T-Aプライドさんが、今回のコメントをしてくださったことで、もうちょっと、このブログを続けようと思いました。
2013-09-23 月 02:19:59 | 豆長者 [編集]
返信ありがとうございます。
マクロ経済学は、大ざっぱなうえ、数字の中身を見ようとしないから、そりゃあ実際の国民の感覚からは、どんどん乖離していきますよね。
まるで、原料高が原因なのにデフレ脱却とかいって喜んでいる誰かさんみたいです(笑)
後、「合成の誤謬こそが誤謬だ」という見方について非常に興味があるのですが、それについて詳しく載ってる記事はありませんか?(たびたびすみません)
2013-10-01 火 22:18:10 | T-Aプライド [編集]
ありがとうございます。
コメント頂くことで励みになります。

http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-787.html
「合成の誤謬は、誤謬である」というのは、ビル・ボナー(2010年1月15日)を取り上げた記事のことでしょうか。
前回のコメントで挙げたリンク先の記事を読まれたら、おそらく、すでにT-Aプライドさんが理解されている通りだと思います。
それで、『「合成の誤謬こそが誤謬だ」という見方について非常に興味』を持たれているのだと思います。
その表現を直接用いた記事は、たぶん他には無いと思います。

合成(集計)の仕方に誤謬の種が仕込まれています。
今回の記事でロバート・ヒッグズも言っているように、合成(集計)しすぎると経済学的に意味を成さなくなりますが、それが意味を成しているのだと、ケインズおよびケインズ主義者たちが多くの者たちに信じさせることに(一時的に)成功しただけです。

ミクロの視点で正しいことは、マクロの視点でも正しいのであって、そうでないと主張する「合成の誤謬」は、政府(政治階級)による盗み取りでの散財(資本消費)を正当化する詐欺に過ぎません。
政府(泥棒)と私を足して、政府(泥棒)が私からたくさん盗んで偽金刷って支出すれば「経済成長」とか、詐欺以外の何物でもありません。(笑)
マクロの視点で見ても、経済は個人の行為の集まりに過ぎません。
個人たちが、それぞれの価値観で市場で行為します。
価格は、個々に意味を成しています。
資本は、時間軸を持っています。
そのことを知っていれば、マクロ的に見るために「合成」(集計)する際に慎重でなければなりません。
オーストリア学派のマクロ経済学は、「投資」の内部で部門別に(マクロ的に)考えます。


「ケインズの煙に巻かれて」
http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-478.html
ハンター・ルイス
「『倹約のパラドックス』、そこに、パラドックスはありません。」

「双頭の国家統制主義」
http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-626.html
マリー・ロスバード、「ミルトン・フリードマンを解体」
「実際には、オーストリア学派たちが示したように、
 マクロとミクロの領域は、統合されており、からみ合っている。
 マクロの領域を国家に譲っておいて、
 ミクロのレベルで自由を保持しようと試みるのは、不可能だ。」
2013-10-03 木 00:28:39 | 豆長者 [編集]
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