リベラリズムの核心にある思想


2014年10月23日、デイヴィッド・ゴードン、「誕生日おめでとう、ラルフ!」

 David Gordon

今日は、ラルフ・ライコの78歳の誕生日だ。
古典的リベラリズム(自由主義)の一番重要な歴史家である。
ライコは、他の多くの著作の中でも、二つの傑出した小論集の著者である。
「古典的リベラリズムとオーストリア学派」および「大戦と大指導者たち」。
後者の題名が示唆しているとおり、彼は、修正歴史の大主張者である。
彼は、彼の著作すべての中で、深い学問、鋭い分析力、
自由(リバティー)への揺るぎない専心を示している。
彼は、マリー・ロスバードの最も近しい友人たちの一人であり、
サークル・バスティアの一員だった。
彼は、これまでに私が会った最も面白い人たちの一人でもある。


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2008年、ラルフ・ライコ、「ケインズは、リベラルだったか?」

 Ralph Raico

私が論じたように、もしも、リベラルの教義が歴史的に、
絶対主義の福祉国家の父親主義(パターナリズム)の拒否として特徴付けられるのであれば、
18世紀の絶対主義の重商主義の構成要素の拒否として特徴付けられることは、なおさらである。

私有財産の市場秩序の要素を保持しているシステムは、
どれも合理的にリベラルだと見なせるとは限らない。
近代史において、よく知られているように、
私有財産を含んでいて、市場が制限的に働くのを許されていたシステムがあった。
しかしながら、その監督者たちは、他のすべてに優先する国家の役割を主張した。
彼らは、それが無ければ経済生活は無秩序(アナーキー)へと崩壊すると信じていた。
この重商主義と呼ばれるシステムに対する反応として、経済的リベラリズムは現れたのである。

ケインズの間違いが、自由市場の秩序に対する信頼を台無しにして、
国家権力の大規模な成長への道を開いた。

ケインズより前は、予算均衡は、政府の目標だった、少なくとも文明国たちの。
ケインズ主義が、この「財政の規約」を裏返した。


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2011年、ラルフ・ライコ、「古典的リベラリズムとオーストリア学派」

 Ralph Raico

この本とその最初の小論の題名は、誤称である。
表面的な混乱を避けるには、残念ながら、そうせねばならないが。
すなわち、「古典的」リベラリズムは、存在しないのである。
始めから終わりまで、財産権と有機的に発展した自由市場に基づいた、
たった一つのリベラリズム(自由主義)しか存在しないのだ。

現今、この教義に対して、「現代」リベラリズムと呼ばれる対照的なものが存在している。
それは、実際、民主社会主義と区別が付かない。

私が、それは、イデオロギー上で吹き込まれた詐欺だと考える、十分な理由を与えると思っている。
ジョン・スチュアート・ミルとジョン・メイナード・ケインズのような著述家を
リベラリズムの万神殿に昇進させることに例示される詐欺なのである。

読者は、私が、時折、F.A.ハイエクについて、かなり批判的であることに気付くだろう。
ハイエクは、シカゴ大学で、大学院での私の指導教授であり、
私の博士論文の委員長だったので、おそらく、驚かれるであろう。
私は、これが、誰も誤り導くことはないと確信している。
私は、常に、ハイエクに対して最高の尊敬を抱いている。
オーストリア経済学の偉大な専門家の一人であり、素晴らしい学者である。
私と彼で、はっきりと意見が異なるのは、第一に、認められる彼の福祉国家に対する好み、
第二に、英国のリベラルの伝統に対する彼の過大評価、
フランスの伝統に対する彼の侮りであると私が理解するものに関係している。
もしも、この多様な小論集が、一つ大きな主題を持っているとすれば、
それは、我々に最良のリベラルの思想家たちを与えたのは、
英国ではなく、フランスだったことである。
一世紀以上にわたって、バンジャマン・コンスタンからグスタフ・ド・モリナリまで。

それから、私は、私の英雄の一人、ドイツのリベラル指導者、
オイゲン・リヒターについての小論も含めた。

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス彼自身のように、自分たちの時代の流れに逆らって、
「テルモピュライでのレオニダスのスパルタ人たちのように」
断固として立ち上がった自由の戦士たちに、私は、とても弱い。

私の祖父母は、南イタリアとシシリーから合衆国に船で渡った。
希望を持って、やがて、いくらか小さな成功を手にした。
私は、彼らに、そして、かつてそうであったものを求めて彼らがやって来たアメリカに感謝している。
最後の小論で、我々に今立ちはだかるこの準ファシスト国家に対する私の深い悲嘆を示す。


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2012年3月30日、ダニエル・サンチェス、「オーストリア経済学、レッセフェール、消費者第一位」

 Daniel J. Sanchez

最も早い日々から、社会主義者たちと干渉主義者たちが、
オーストリア派の洞察をとても恐れたのは、なぜだろうか?
ロスバードのもののような倫理の客観的な理論があっても無くても、
なぜ、オーストリア経済学は、とても自然に、
レッセフェール(為すに任せよ)の立場に向かうのか?
ライコによると、それは、その市場過程についての消費者志向の見方である。

 可能な最大量の物質財を創り出すとして資本主義システムを理解していた
 古典派経済学者たちとは対照的に、メンガーの見方では、
 それは、「消費者の選好によって働かされる経済統治の様態」だった。
 (後に、W.H.ハットが、その状態に「消費者主権」という言葉を造語した。)
 カーズナーが指摘したように、「市場経済についての社会主義者と干渉主義者の誤解に対する、
 ミーゼスの生涯の論争を育てたのが、この徹底的にメンガー主義の洞察だった」。
 そして、マルクス主義者たち、その他の社会主義者たちを今日まで挫いて激怒させたのが、
 この私有財産システムの本性に対する本質的な洞察だったと、付け加えられるかもしれない。

メンガーが、消費者を画面に連れ戻して、市場過程の船長席に置いた時に、市場を人間化して、
レッセフェールを擁護するミーゼスの功利主義の主張の道を開いたのである。

市場経済の並外れた傾向は、オーストリア派の観点から見られるように、
他者の要求の満足に自分たちが貢献した程度に応じて、
個人たちに対して、自分たちの要求の満足を与えることである。
市場過程を通して、消費者の満足に対する貢献に応じて、
各生産者に消費者たちが報いる傾向があるのだ。
こうして、市場経済において、個人たちは、
人間の要求の満足に対する自分たちの貢献を絶えず改善するように、
自分たちの役割と行為の選択を絶えず調整するよう、自分たち自身の利益で促されるのである。

この過程において、ある消費者たちの要求の相対的な重要性が、
他の消費者たちの要求よりも大きいことはある。
しかし、ミーゼスが強調したように、ある消費者の要求の相対的な重要性は、
その相対的な重要性が、市場において決定されたのである限り、
生産者としての彼の役割で、他の消費者たちの要求を満足させることに
どれだけ貢献したかという機能なのである。

資本主義の下では、人間の選択が、その相互作用を通して、
可能な限り十分に人間の福利を提供するよう、お互いを調整する。

市場の結び付きに対する国家の干渉ことごとく、
つまり、税金、規制、再分配、官僚機構の拡大ことごとく、
貢献と所得を結ぶ繋がりを弱めるのみであり、
それによって、生産者たちの消費者たちへの反応性を減じることによって、
市場の手段性を妨害して、従って、消費者の満足の減少へと導いているのだ。
そして、我々は、経済的規定に関しては、皆、何よりもまず、消費者であり、
生産者であるのは、次位でしかないので、減じる消費者満足は、減じる公衆福利を意味する。

これが、消費者第一位とも呼べるものによって特徴付けられる市場経済の描写である。
それは、メンガーが、ミーゼスを経済学者にした本(「経済学原理」)を書いた時に可能にしたのである。
そして、この描写が頭(マインド)にあれば、レッセフェールのリベラルでないことは、ひどく難しいのだ。


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2011年、ルー・ロックウェル、「古典的リベラリズムとオーストリア学派」裏書き

 Lew Rockwell

リベラリズムの核心にある思想は、社会が、自己組織し、自己規制し、
糸を引く全体計画者は必要ないという信念であると、ライコは説明した。
そのエネルギーと秩序は、その分散化された働き、その変化への開放性、
その束縛されない個人主義から生まれるのである。
その組織たち、つまり、市民団体たち、宗教組織たち、慈善と芸術の財団たちも、
権利を持つ個人たちの自発的な連合に、その存在を負っているのである。
これが、啓蒙時代を通じ、現代を通じ、中世の経験によって学ばれた大きな教訓である。
すべての時と場所で、自由(リバティー)の敵たちによって否定された教訓である。
これが、ライコが決して倦むことなく説明した中心的真実である。
非自由の時代に、おそらく当たり前と考えられて、ほとんど忘れられているものだ。


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2012年4月19日、ギド・フルツマン、「リベラリズムの辞典」

 Jörg Guido Hülsmann

「古典的」リベラリズムというようなものは、決して存在したことがないと、
ラルフ・ライコが、最近、彼の素晴らしい「古典的リベラリズムとオーストリア学派」で強調した。
リベラリズム(自由主義)しか存在しなかったし、存在していないのである。
社会は、それだけで機能していて、強制的な政府によって支持や統治される必要がないという、
この考えを中心にした知的運動である。

まさしく、リベラリズムという語は、自由(リバティー)の様々な敵たちによって採用されて、
その伝統的な意味とは反対のものへと変えられてきた。
しかし、この言葉の曲解は、だいたい、アングロ-サクソン世界に限られている。
旧大陸では、自由(リバティー)とリベラリズムの貼り札を盗用しようとする、
社会民主主義者たち、その他の国家統制主義者たちによる最近の努力にもかかわらず、
リベラリズムは、いまなお、その元の意味で用いられている。
そして、リベラルの運動は、それら強制的な政府が偏在する国々でも栄えているのだ。

すなわち、639ページの「リベラリズム辞典」が、
名声ある出版社ラルースによって、フランスで出版されたばかりである。
マシュー・レネによって編集された、この概説は、
フランスその他の国々の63人の著者によって書かれた、
「Action humaine」から「Voltaire」までの267項目を取り上げている。
それは、はっきりとオーストリア派の風味を持った画期的な出版物である。


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2012年6月2日、ウォルター・ブロック、「リベラルのめっき」

 Walter Block

適切に用いられる言葉が、政治と経済についての対話には不可欠である。
しかし、自由企業制、制限された政府、私有財産権、資本主義のような良いものに賛成する我々が、
困ったことに、あまりにも多くの言葉を、異なる反対側にいる者たちに譲ってきた。

知における我々の敵対者たちによって我々から要求された言葉を用いることによって、
我々が、我々の主張を行わなければならないなら、そうすることが、いっそう困難である。
資本主義は、もはや、自由市場を指しておらず、
今や、それは、クローニー主義(政府お仲間えこひいき主義)と帝国主義を連想させる。
ある社会民主主義者たちは、今、「リバタリアニズム」の所有権すら奪おうとしている。
彼らは、ずっと以前に、「個人主義者」の獲得に走った。

しかし、「リベラル(自由主義者)」ほど、有効に我々から盗まれた言葉はない。
その後、その泥棒たちですら見限るほどまでに、ぼろぼろに破壊されて、
今、彼ら自身のことを「プログレッシブ(進歩主義者)」として描いている。
以前は、これ(リベラル)が、我々自身の所有物だったことが、多くの者たちを驚かすが、
いまなお、わずかに、そうである。「古典的リベラル」でのように。

彼(ラルフ・ライコ)が、このリベラルという語をその誘拐者たちから救い出し、
彼らがその上に積み重ねたゴミ屑を取り除き、
それから、その用語が、長く栄光ある血統を持っていて、
もう一度、輝かしい未来を持っていることを我々に確信させる。

ライコは、古典的な種類のリベラリズムをオーストリア学派の経済学と結びつけることから始める。
元は、オーストリア出身の経済学者たち、特に、カール・メンガー、
オイゲン・フォン・ベーム-バヴェルク、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、
F.A.ハイエクによって展開された、経済学への資本主義支持の接近法である。
その過程で、彼は、ミルトン・フリードマンに関連する自由市場のシカゴ学派の、
著しく劣った種類のリベラリズムに光を当てる。

多くの知識人たちが、本物のリベラリズムに反対するのは、
自由企業制と市場に反対しているからである。
それは、悪意の無い間違いから生じているというハイエクの見方がある。
知識人たちが楽で実入りのある政府の仕事を求めていることを強調するシュンペータ。
金儲けに対する憤慨と軽蔑に焦点を当てるミーゼス。

ケインズは、神話とは反対で、「資本主義を救う」試みすら行っていない。
どちらかと言えば、この経済学者は、ファシズムのほうに接近した。
彼の最も有名な本「雇用、利子、お金の一般理論」のドイツ語版のために、
彼が書いた序文が証明しているようにだ。
1936年に、その時、ヒトラー政権が、本物のリベラルを追い払ったはずだが、ケインズが書いた。
一般理論の中の考えは、「自由競争と大部分レッセフェールである状況のもとで」「よりも、
全体主義国家の状況に対して、ずっと簡単に適合させることが出来る」と。

ライコは、優れたオーストリア経済学者、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスのリベラリズムを解明する。
ナチスが支配したヨーロッパからニューヨーク・シティーに逃れたことは、
ミーゼスの最も優れたアメリカの学者、マリー・ロスバード、そして、
この著者と無数の他の者たちの中にいるこの書評者は言うまでもなく、
大統領候補者のロン・ポールの知的発展にとって幸運であったことを証明した歴史の出来事である。


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2007年10月13日、ラルフ・ライコ、ミーゼス研究所25周年祝賀会

 Ralph Raico 

ええ、私は、信じませんけど。
実際には、私は、陰謀を信じています。
私の友人マリー・ロスバードが、よく言っていました。
陰謀は、どれも本当だと、ハハハ。


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2011年、ラルフ・ライコ、「リベラリズム:本物と偽物」

 Ralph Raico

実際、リベラリズムについての文献を調査すれば、概念上の混乱状態が明らかになる。
この一つの根本的原因が、「リベラル」を自称した重要な政治的集団たち、
すべてを収容しようとする頻繁な試みである。

そのような変化は、民主的選挙の政治の力学によって容易に説明される。
集産主義の思想の競争に直面して、リベラル政党たちは、
新しい種類の「政治的起業家たち」を生み出した。
「たかり」選挙民たち、すなわち、
国家を用いて自分たちの経済的立場を高める者たちを、
動員する技に長けた者たちである。

この分野で一般的な混乱の多くは、ジョン・スチュアート・ミルに遡れる。
英語を話す人々によって受け入れられているリベラリズムの概念において、
非常に膨らまされた立場を占めているのだ。

ミルは、起業家たちと労働者たちを含む、
すべての社会階級の利益の長期的調和というリベラルの考えを拒絶した。

国際問題では、ミルは、外国の戦争に不干渉というリベラルの原則を拒否した。

最悪なことは、ミルが自由(リバティー)の概念を醜く変形させたことだった。
自由(リバティー)は、国家やその他の団体たち個人たちの側の、
物理的攻撃によってのみ、脅かされる状況ではないようだと。
むしろ、「社会」が、しばしば、個人の自由(フリーダム)に対して、
もっと重大な危険をもらたすのだと。

彼は、自分が何も知らない多数の人々の、
習慣、態度、選好、道徳的規準に対して絶えず判断を下した。

受け入れられている宗教、伝統、社会規範に敵対する姿勢に、
リベラリズムを繋げる決定的な結合は、
他の誰より、ジョン・スチュアート・ミルのせいである。
それが、残念ながら、標準になってしまった。

一方に、国家の強制、他方に、社会的圧力、正統的意見、慣習、
その間の区別を付けないのである。

ミルの見解は、「社会的不承認を被ることと投獄を被ること」の間の、
かなり決定的な区別を消す傾向にあり、リベラリズムを、
無実の非強制的な伝統的価値観や取り決め、特に宗教的なものに立ち向かわせることになる。
それは、リベラリズムと国家の間で、攻撃同盟も作り出す。
もしかしたら、ミルの意図に反するとしても、伝統的な規範は、
政治的権力の大規模な使用による以外、根絶できる方法は、想像が難しいのだから。

リベラルの通俗的な意味が、時間とともに大幅に変わってきたことは、争点になっていない。
1900年あたりで、英語を話す国々その他の場所で、この用語が、
本質的に社会民主主義者である著述家たちに捕らえられたことは、良く知られている話である。

修正主義の社会主義の創始者、エドゥアルト・ベルンシュタインの、この言葉を考えてみよ。
「自由な個性の開発と保護が、すべての社会主義の方策の目標である。
 たとえ、それらが、表面的に、強制であるように見えてもである。
 社会における自由(フリーダム)の総量を増やし、
 より幅広い集団に対して、それが取り去るよりも、より多くの自由を与えることが、
 強制の問いであることは、より綿密な考察が、常に示している。」

これが、過去一世紀それ以上の間の「新しいリベラルたち」の立場と、どう違うのか?
リベラリズムを反対のイデオロギーたちから分けるものが、
まさしく、その実質的な施策、擁護する手段である。
すなわち、私有財産、市場経済、そして、国家および国家後援の団体の権力の最小化である。

リベラリズムの概念が、市場経済と私有財産の支持者を締め出すべく変形された後、
「個人主義」も、その同じ目的のために、再定義されることになったのである。

こんにちの絶え間なく拡大する福祉国家に魅了されている著述家たちが、
それをリベラルの伝統に融合させようと試みてきたことは、驚くに当たらない。

その結果は、歴史的なリベラルの柱である、私有財産、法の前での平等、
契約と言論と結社の自由の、計画的な転覆である。

こんにち、ハーバート・スペンサーが、一世紀以上前に表明した不満が、
これまでにも増して真実味を持っている。
「そんなことが、リベラルの名を主張する党の行っていることなのだ。
 拡張された自由(フリーダム)を唱える者であるとして、リベラルを自称している!」

厳しく制限された国家を設立するというリベラルの施策が、根本的な矛盾を隠していて、
物事の本質上、必然的に、包括的な権力で武装した国家に道を譲るというのは、もっともらしい。
これは、ハンス・ハーマン・ホップによって、説得力を持って論じられてきた。
「自由(リバティー)と財産を保護するという元のリベラルの意図に反して、
 どの最小政府も、最大政府になる生来の傾向を持っているのである。」と。

リベラリズムが、包括的な社会哲学として、18世紀に形成された時、
それは、欧州で一般的だった重商主義と官房主義のシステムの正反対のものとして現れたのである。

人々に対するパターナル(父親的)な気づかいが、国政術の最高目的だった。
それが、この、経済を、同じく、残りの社会生活を、管理するシステムだった。
その意図が、善意だとされることは、
それを専制的であると激しく非難するリベラルたちにとっては、関係なかった。
警察国家(Polizeistaat)は、偶然にも、「福祉国家」として最良に訳される言葉であるが、
リベラリズムは、それに反発して成長したのである。

歴史的に、君主絶対主義が、国家は、社会のエンジンであり、
その臣民の宗教的、文化的、特に、経済的生活の必要な監督者だと主張してきたところで、
リベラリズムが、最も望ましい体制は、市民社会、すなわち、
私有財産と自発的な交換に基づいた社会秩序全体が、
全般的に自らを運営するものだと、際立って対照的な見解を立てたのである。

リベラリズムの理念型を構築するなら、
「国家に対する社会」というリベラルの断言の象徴的表現に頼るだろう。
最も簡潔なものが、重農主義者のスローガンである。
「レッセフェール(為すに任せよ)、レッセパッセ(行くに任せよ)、世界は、ひとりでに進み続ける」

リベラリズムは、本質的に、社会の自己規制、有益な自生的秩序を生み出すその能力の教義である。


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2009年7月28日、ラルフ・ライコ、ミーゼス大学

 

ハイエクは、シカゴ大学で、私の教授でしたけど、
彼は、好きな人が多すぎました。


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2005年9月9日、ラルフ・ライコ、「革命家ミーゼス」

 Ralph Raico

実際、人間の歴史における階級、身分、地位、特権の状況は、どうだったのか?
前資本主義の歴史は、最も下劣な形態の中の、
奴隷制、農奴制、カーストと階級の特権の歴史である。
それは、奴隷所有者たち、武士貴族たち、宦官を作る者たちによって、
王たち、その妾たち、廷臣たちによって、
聖職者たち、その他の官吏である知識人たちによって、
様々な寄生者たちと抑圧者たちによって、作られた歴史である。
資本主義が、社会の重心全体を変えた。

陳腐だが本当であって社会学的に非常に重要な説明の中にある。
すべてのドルは、社会的気品を全く欠く者が所有しようと、
「卑しい生まれ」の者が所有しようと、ユダヤ人が所有しようと、
黒人が所有しようと、誰も聞いたことのない者が使用しようと、
他のすべてのドルと同等物であって、
有能な人々が提供すべく自分たちの生活を構築しなければならない、
市場における製品とサービスを指揮するのだ。

社会主義がもたらすエセ革命は、再び身分社会の出現に至り、
再び大衆が歩の駒の地位に零落する可能性が遙かに高いと、ミーゼスは主張した。
人間が意識的に彼自身の歴史を作るという、
自らを英雄的メロドラマの主題役に割り当てるエリートに管理されるのだ。


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2013年3月5日、ラルフ・ライコ、「クラウス?」

 Ralph Raico

済まないが、LRC(LewRockwell.com)の私の仲間たち数人には、不賛成を言わねばならない。
私に言わせれば、ヴァーツラフ・クラウスは、まったく自由(フリーダム)の英雄ではなかった。
1940年代半ば、 ドイツ国防軍(Wehrmacht)が、ボヘミアとモラビアから撤退した。
そして、ピーピーも言っていなかったチェコ人たちが、(いくらかレジスタンス兵たちが、
英国から空輸されなければならなかった。)突然、自分たちが成人であることに気づいた。
エドヴァルド・ベネシュに率いられて、
すべてのドイツ人たちが、ズデーテンラントの自分たちの先祖代々の土地から、
プラハその他から、追い出された。
「チェコスロバキア」は、最初から、ヴェルサイユでデッチアゲられた詐欺だった。
それは、スロバキア人たちよりも多くのドイツ人たちを含んでいた。
そして、スロバキア人たちは、チェコ人たち有利に差別されていた。
(ドイツ人たちと一緒に追い出された)ハンガリー人の少数派のように。
おそらく、150万人のドイツ人たちが、冷酷な追放で死んだ。
ほとんどすべての女性たち、子供たち、老人たちだ。
何年か前、チェコの大統領ヴァーツラフ・ハヴェルは、
世論を無視して、その犯罪に対して謝罪した。
ヴァーツラフ・クラウスは、これ見よがしに、そうすることを拒んだ。
だから、クラウスは、決して自由(フリーダム)の戦士ではない。
よくいる道徳不在の中道右派の政治屋である。



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アメリカ帝権の創立者


2014年8月8日、ルー・ロックウェル、「誕生日おめでとう、トム・ディロレンゾ」 

 Lew Rockwell

トムが、今日で60歳である。
彼を見て、そうは決して言えないだろうけれども。
経済学とアメリカ史の素晴らしい教師であり学者である。
業績を一つだけ取り上げるならば、
彼が、リンカーンについての意見の雰囲気を変えた。
我々の自由(フリーダム)を、その上、世界の大半を、
台無しにすることに取りかかったアメリカ帝権の創立者である。



この体制による聖エイブラハムについての嘘を繰り返し語る際に、
安全を感じられる教授やジャーナリストは、トムのおかげで居るまい。
あまりに多くのアメリカ人たち、特に学生たちが、真実を知っている。
トム、お誕生日おめでとう、おめでとう。








 





  


 





 









































 


 


  





 


 


 







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私はリバタリアンである


2014年5月6日、ローレンス・ヴァンス、「私はリバタリアンである」

 Laurence M. Vance

私は、リバタリアンである。
私は、民主党員や共和党員ではない。
私は、リベラルや保守主義者ではない。
私は、左派や右派ではない。
私は、穏健派や進歩主義者ではない。
私は、リバタリアン党員ではない。
私は、連合主義者ではない。
私は、憲法主義者ではない。

私は、リバタリアンである。
私は、厚派や薄派ではない。
私は、獣派や人道派ではない。
私は、全体派や唯我派ではない。
私は、道徳派や帰結派ではない。
私は、開放派や閉鎖派ではない。
私は、形式的、国際的、文化的、体制的、洗練的な、つまり政府界隈リバタリアンではない。
私は、出血心臓(大げさな同情)を持っていない。
私は、新や第二波や千年紀のリバタリアンではない。
私は、分かりやすい古いリバタリアンである。
ラベルが必要なく、ただし書きを付けず、言い訳をしないものだ。

私は、リバタリアンである。
リバタリアニズムは、力や暴力の許容される使用に関係している政治哲学である。
それは、制限された政府が最良の種類の政府であると言う政治哲学ではない。
それは、社会的にリベラルで経済的に保守主義の政治哲学ではない。
それは、政府は民間部門よりも効率的ではないと言う政治哲学ではない。
それは、政府のある政策を他の政策よりも推進することによって、
自由(フリーダム)が獲得できると言う政治哲学ではない。
それは、低税リベラリズムである政治哲学ではない。
リバタリアニズムは、人種差別、性差別、ホモ嫌い、外人嫌い、民族主義、土着主義、
階級主義、権威主義、家父長制、不平等、階層が無いことではない。
リバタリアニズムは、多様性や行動主義ではない。
リバタリアニズムは、平等主義ではない。
リバタリアニズムは、寛容や尊重ではない。
リバタリアニズムは、社会的態度や生活様式や美的感性ではない。



私は、リバタリアンである。
私は、マリー・ロスバードの言葉では、
「暴力の唯一適切な役割は、暴力から身体と財産を守ることであり、
そのような全くの防衛を超える暴力のいかなる使用も、
それ自体、攻撃、不正、犯罪である」と言う、非攻撃の原則に同意する。
従って、リバタリアニズムは、誰もが、暴力的な侵害が無いべきであり、
他の者の身体と財産を侵害する以外は、その人が適当と思うことを、
自由に行えるべきであると述べる理論である。
私は、行為に関心がある。
私は、考えには関心がなく、
私は、考えの否定的結果にのみ関心があるのだ。
私は、非攻撃の原則は政府にまで及ぶと信じている。
従って、リバタリアンたちは、政府たちの国内外に対する干渉と介入に反対すべき、
あるいは、そうでなければ制限しようとするべきである。
非攻撃の原則に対する最大の違反者たちである。

私は、リバタリアンである。
私は、黄金律を信じている。
私は、「Live and Let Live」(本人が生きたいように生きることを許せ)を信じている。
私は、人は、その人の行いが平和的である限り、
本人が望むことは何でも自由に行えるべきであると信じている。
私は、悪徳は犯罪ではないと信じている。

私は、リバタリアンである。
我々の敵は、国家である。
我々の敵は、宗教や企業たちや団体たちや財団たちや組織たちではない。
それらは、それらが国家と繋がりを持つせいで我々を害する力を持つのみである。
そして、戦争は、国家の健康であるので、
国家の軍隊、戦争、対外干渉は、徹底的に反対されなければならない。

私は、リバタリアンである。
私は、レッセ・フェール(為すに任せよ)を信じている。
誰でも、国家からの免許、許可、禁止、干渉なしで、
いかなる経済活動にも自由に従事できるべきである。
政府は、経済に対して何等も干渉すべきでない。
自由貿易協定、教育バウチャー、社会保障の民営化などは、
僅かたりともリバタリアニズムの考えではない。



私は、リバタリアンである。
最良の政府は、政府無しである。
最小統治の政府は、次善の政府であるということ。
政府とは、ボルテールが言ったように、
その最良の状態で、必要悪であり、
その最悪の状態で、耐えがたきものである。
どの政府も行える最良のことが、単に我々を放っておくことである。

私は、リバタリアンである。
税金は、政府による盗みである。
政府は、人の所得の一定パーセントに要求権を持ってはいないのである。
税法は、簡易化したり、短くしたり、より公平にしたり、
より侵入的でなくしたり、する必要はない。
税率は、より低くしたり、より公平にしたり、より平等にしたり、
より累進的でなくしたり、する必要はない。
所得税は、さらなる、もしくは、より大きな、
控除や抜け穴や隠れ蓑や減額や免除は必要ない。
腐ったシステム全体を廃止する必要があるのだ。
人々は、自分が稼いだものを保持し、
自分のお金で行うことは、自分自身で決める権利を持っている。
それを使ったり、それを無駄にしたり、それを浪費したり、
それを寄付したり、それを遺贈したり、
それを退蔵したり、それを投資したり、
それを燃やしたり、それを賭けたり。



私は、リバタリアンである。
私は、放蕩者(リバティーン)ではない。
私は、快楽主義者ではない。
私は、道徳相対主義者ではない。
私は、ある代替生活様式の愛好者ではない。
私は、革命家ではない。
私は、虚無主義者(ニヒリスト)ではない。
私は、そうである者たちと交際したいとも攻撃したいとも思わない。
私は、交際と差別の絶対的自由(フリーダム)を信じている。

私は、リバタリアンである。

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厚いリバタリアニズムの危険


2014年5月1日、ルー・ロックウェル、「リバタリアニズムの未来」

 Lew Rockwell

マルクス主義者たちは、最も些細な違いでの内紛で有名だった。
あるグループが脱退して、脱退したグループの語順を逆さにして、
自らを新しい純粋なグループだと宣言する。
最初のグループは、来るべき労働者たちの勝利を抑え込むための、
ファシストの陰謀の一部なのだと、新しいグループが世界に宣言する。
その二つのグループの違いは、専門家にとってすら、まったく検知不可能であったけれども。

「厚い」リバタリアンであるべきか、「薄い」リバタリアンであるべきかに関して、
リバタリアンたちの間で近ごろ起こってる非公式の討論は、異なる性質を持っている。
それは、リバタリアニズムが何であるかについての、まさに核心を突いている。

「薄い」リバタリアンは、非攻撃の原則を信じている。
人は他人に対して物理的力を開始してはならないということを。
薄いリバタリアンは、自らを単純に(形容語の付かない)リバタリアンだと思っている。
ほとんどの「厚い」リバタリアンたちも、非攻撃の原則を同様に信じているが、
彼らは、自由(リバティー)のための闘いが首尾一貫するには、
リバタリアンたちが他の見解にも傾倒しなければならないと信じている。

「厚い」リバタリアニズムの提唱者たちは、
リバタリアンたちは非攻撃の原則を超えるものを擁護しなければならないと言う。
リバタリアニズムは、それだけのものを超えた傾倒を意味するのだと。
そのような提唱者の一人が最近このように言った。
「力の適切な使用と不適切な使用にのみ、
 リバタリアニズムの哲学が関係していると信じることに、
 私は、困難を感じ続けている。」
しかし、その人が信じることが、どんなに難しかろうと、
それが、まさしく、リバタリアニズムなるものであり、それだけのものなのだ。

この何ヶ月、我々は、あるリバタリアンたちに、こう告げられてきた。
はい、はい、リバタリアニズムとは、非攻撃とか、私有財産とか、そういうことに関するものだと。
しかし、それは、実際には、国家が押しつけたのであろうとなかろうと、
あらゆる形の抑圧に反対する、より大きな計画の一部なのだと。
これは、厚いリバタリアンにとって、二つの意味合いを持つ。
第一に、国家に反対することは、十分ではないと。
たとえ、物理的攻撃を伴っていなくても、
本物のリバタリアンは、他の様々な形の抑圧に反対しなければならないのだと。
第二に、国家の縮小もしくは廃止は、
多くの厚いリバタリアンたちが支持する他の種類の結果をもたらすから、
リバタリアニズムが支持されるべきなのだと。
より小さな会社たち、より労働者主導の協調、より経済的平等など。

これらの意味合いを一つずつ検討しよう。

リバタリアンが攻撃に反対することは十分ではないと主張することは、
最初に古典的リベラリズムを破壊し、それを現代リベラリズムに変形した、罠に陥ることである。
結局、どのようにして、18世紀と19世紀のリベラリズムが、
国家に夢中の20世紀と21世紀のリベラリズムになったのか?
そもそも、どうやって、かつては栄光ある言葉だった「リベラリズム」が倒錯してしまったのか?
まさしく、厚い主義ゆえである。
20世紀のリベラルたちは、こう言ったのだ。
我々は、自由(リバティー)に賛成だ、
しかし、単なる消極的自由すなわち、国家に対する制限だけでは、
十分に平等主義の結果をもたらさないように思われるので、
我々には、それ以上のものが必要だと。
ある国家活動に対する制限に加えて、
我々には、他の形の国家活動の「拡大」が必要だと。

結局、新しいリベラルたちは、国家による抑圧が、
世界における唯一の形の抑圧ではないと言ったのだ。
貧困があり、それが、人生の選択を行う人々の能力を制限するのだと。
私有財産があり、その制約が、自分を表現する人々の能力を制限するのだと。
差別があり、それが、人々の機会を制限するのだと。
悪口があり、それが、人々を不快にさせるのだと。
もっぱら国家に焦点を当てることは、
これら極めて現実的な形の害を見落とすことだと、
新しいリベラルたちは言ったのである。

聞き覚えは?
それが、まさしく、多くの厚いリバタリアンたちが今言っていることではないのか?
国家を攻撃することは、十分ではないと、我々は聞く。
我々は、「家父長制」、階層、不平等などを攻撃しなければならないのだと。
厚いリバタリアンたちは、どんな追加の傾倒をリバタリアニズムが伴うのかについて、
彼ら自身の間で意見が合わないかもしれないが、リバタリアニズムが、単に、
物理的力の開始を根絶することに専念してはいけないということに、彼らは、皆、同意する。

もしも、自分たちのイデオロギー上の好みに従う社会を望むとか、
それに向かって取り組みたいというリバタリアンたちがいたら、
もちろん、そうするのは、ご自由にだ。
しかし、特に、彼らがリバタリアニズム内の大テントにこだわっていることを考えれば、
我々の栄光ある伝統の上に何であれ彼らが置くことになった奇異な解釈を、
彼らが他のリバタリアンたちに押しつけたり、
それら他のイデオロギーを共有しない人たちは本当のリバタリアンにはなれないと暗示したり、
それらを抱くことの出来ない者が本当にリバタリアンであり得ることは、
「まったくありそうにない」と示唆することは、間違いである。
それらが、「不寛容」について文句を言っている同じ人たちであるということが、
皮肉のうちで唯一最も甚だしいものである。

従って、厚いリバタリアニズムの危険は、単に、アメリカ人口のうちの大部分が、
何を信じ、何を言うことが容認されるのか、MSNBCが我々に知らせるものに、
10分ごとに遅れずについていっておらず、その入場条件に合格できないことではない。
その危険は、厚いリバタリアニズムが、
彼ら自身が認めているように、物理的力の開始を伴わない、他のそれの関心事を、
リバタリアニズム自体に持ち込むことである。
それによって、リバタリアニズムを、
我々が数世代にわたって擁護してきた真っ直ぐで簡潔な道徳と社会のシステムとは、
まったく異なるものへと変形させることである。

さて、第二の意味合いだが、
国家に反対することは、それが平等主義の結果をもたらすから賛成されるべきであると。
(もちろん、国家の廃止は、「地位」の観点からすれば、必然的に平等主義の水準を増す。
 つまり、一方で、自分たちを支える国家の正当性でもって、
 あらゆる種類の道徳上の非道を行ってもよい、国家の役人たち、
 他方で、盗みと攻撃に反対する伝統的な道徳上の規則に制約されている、普通の人々、
 その間の地位の不平等は、国家が消滅する時、もはや存在しなくなる。)
しかし、もし、そうでなければ、どうするのか?
自由市場では、会社たちは、より小さくなる傾向にあるのだと、
政府の政策が、事業が大きいことを促しているのだと、いう主張は、
あまりに複雑な現象について、あまりに大ざっぱな発言である。
もし、国家の不在が、会社の大きさや雇用関係や富の不平等に何も変化をもたらさなければ、
どうするのか?

その時点で、問いは、こうなる。
厚いリバタリアンたちは、非攻撃と平等主義の、どちらの原則に、より傾倒しているのか?
彼らは、選択しなければならないなら、どうするのか?

同様に、ある古典的リベラルたちの教会に対する憎しみが、
教会の財産を没収し、教会の活動に対して様々な種類の制限を加えるよう、彼らを動かした。
自由(リバティー)に対する彼らの信念か、教会に対する彼らの個人的憎しみか、
選択することになれば、彼らの個人的憎しみが勝ったのだ。
そして、原則に基づいているとされた、暴力への彼らの反対は、一時的に停止されたのだ。

どのようにして人々がリバタリアニズムに到達するのかも、重要なことではない。
非攻撃の原則へと至る様々な思想学派が存在している。
いったん、そこに至れば、我々は、正確に何が特定の場合における攻撃になるのか、
もちろん討論してよい。
しかし、もしも、あなたが所属している思想学派が、
部分的にのみ非攻撃のほうへと、あなたを連れていくのなら、
あなたが、新しい、もしくは、より良い形のリバタリアニズムを発見したということではない。
そのような場合は、あなたは、異なる種類のリバタリアンなのではなく、
部分的にリバタリアンであるという意味でしかない。

自己防衛の法律が「人種差別主義的」だという主張であろうと、
ビットコインが「人種差別主義的」だという主張であろうと、
リバタリアンたちは「白人の特権」を捨て去るべきだという主張であろうと、
(非攻撃の原則に対する我々の固執とされるものを、
 超えたのだと主張しているリバタリアンたちによって、このすべてが唱えられている)
様々な形の厚いリバタリアニズムは、我々が信じているものの中心的な教えを混乱させている。
それらの関心事は、何一つ僅かたりともリバタリアニズムに関係ない。

それら追加の主張は、すべて、中心にある原則から逸らせるものである。
つまり、もしも、あなたが、物理的力の開始に反対するのなら、
あなたは、リバタリアンである、そこで終わりなのだ。
さて、それは、そんなに大変なことか?


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2011年、ラルフ・ライコ、「リベラリズム:本物と偽物」

 Ralph Raico

実際、リベラリズムについての文献を調査すれば、概念上の混乱状態が明らかになる。
この一つの根本的原因が、「リベラル」を自称した重要な政治的集団たち、
すべてを収容しようとする頻繁な試みである。

そのような変化は、民主的選挙の政治の力学によって容易に説明される。
集産主義の思想の競争に直面して、リベラル政党たちは、
新しい種類の「政治的起業家たち」を生み出した。
「たかり」選挙民たち、すなわち、
国家を用いて自分たちの経済的立場を高める者たちを、
動員する技に長けた者たちである。



この分野で一般的な混乱の多くは、ジョン・スチュアート・ミルに遡れる。
英語を話す人々によって受け入れられているリベラリズムの概念において、
非常に膨らまされた立場を占めているのだ。

ミルは、企業家たちと労働者たちを含む、
すべての社会階級の利益の長期的調和というリベラルの考えを拒絶した。

国際問題では、ミルは、外国の戦争に不干渉というリベラルの原則を拒否した。

最悪なことは、ミルが自由(リバティー)の概念を醜く変形させたことだった。
自由(リバティー)は、国家やその他の団体たち個人たちの側の、
物理的攻撃によってのみ、脅かされる状況ではないようだと。
むしろ、「社会」が、しばしば、個人の自由(フリーダム)に対して、
もっと重大な危険をもらたすのだと。

彼は、自分が何も知らない多数の人々の、
習慣、態度、選好、道徳的規準に対して絶えず判断を下した。

受け入れられている宗教、伝統、社会規範に敵対する姿勢に、
リベラリズムを繋げる決定的な結合は、
他の誰より、ジョン・スチュアート・ミルのせいである。
それが、残念ながら、標準になってしまった。

一方に、国家の強制、他方に、社会的圧力、正統的意見、慣習、
その間の区別を付けないのである。

ミルの見解は、「社会的不承認を被ることと投獄を被ること」の間の、
かなり決定的な区別を消す傾向にあり、リベラリズムを、
無実の非強制的な伝統的価値観や取り決め、特に宗教的なものに立ち向かわせることになる。
それは、リベラリズムと国家の間で、攻撃同盟も作り出す。
もしかしたら、ミルの意図に反するとしても、伝統的な規範は、
政治的権力の大規模な使用による以外、根絶できる方法は、想像が難しいのだから。

リベラルの通俗的な意味が、時間とともに大幅に変わってきたことは、争点になっていない。
1900年あたりで、英語を話す国々その他の場所で、この用語が、
本質的に社会民主主義者である著述家たちに捕らえられたことは、良く知られている話である。

修正主義の社会主義の創始者、エドゥアルト・ベルンシュタインの、この言葉を考えてみよ。
「自由な個性の開発と保護が、すべての社会主義の方策の目標である。
 たとえ、それらが、表面的に、強制であるように見えてもである。
 社会における自由(フリーダム)の総量を増やし、
 より幅広い集団に対して、それが取り去るよりも、より多くの自由を与えることが、
 強制の問いであることは、より綿密な考察が、常に示している。」

これが、過去一世紀それ以上の間の「新しいリベラルたち」の立場と、どう違うのか?
リベラリズムを反対のイデオロギーたちから分けるものが、
まさしく、その実質的な施策、擁護する手段である。
すなわち、私有財産、市場経済、そして、国家および国家後援の団体の権力の最小化である。

リベラリズムの概念が、市場経済と私有財産の支持者を締め出すべく変形された後、
「個人主義」も、その同じ目的のために、再定義されることになったのである。

こんにちの絶え間なく拡大する福祉国家に魅了されている著述家たちが、
それをリベラルの伝統に融合させようと試みてきたことは、驚くに当たらない。

その結果は、歴史的なリベラルの柱である、私有財産、法の前での平等、
契約と言論と結社の自由の、計画的な転覆である。

こんにち、ハーバート・スペンサーが、一世紀以上前に表明した不満が、
これまでにも増して真実味を持っている。
「そんなことが、リベラルの名を主張する党の行っていることなのだ。
 拡張された自由(フリーダム)を唱える者であるとして、リベラルを自称している!」



厳しく制限された国家を設立するというリベラルの施策が、根本的な矛盾を隠していて、
物事の本質上、必然的に、包括的な権力で武装した国家に道を譲るというのは、もっともらしい。
これは、ハンス・ハーマン・ホップによって、説得力を持って論じられてきた。
「自由(リバティー)と財産を保護するという元のリベラルの意図に反して、
 どの最小政府も、最大政府になる生来の傾向を持っているのである。」と。

リベラリズムが、包括的な社会哲学として、18世紀に形成された時、
それは、欧州で一般的だったマーカンティリズム(重商主義)と官房主義のシステムの、
正反対のものとして現れたのである。

人々に対するパターナル(父親的)な気づかいが、国政術の最高目的だった。
それが、この、経済を、同じく、残りの社会生活を、管理するシステムだった。
その意図が、善意だとされることは、
それを専制的であると激しく非難するリベラルたちにとっては、関係なかった。
警察国家(Polizeistaat)は、偶然にも、「福祉国家」として最良に訳される言葉であるが、
リベラリズムは、それに反発して成長したのである。

歴史的に、君主絶対主義が、国家は、社会のエンジンであり、
その臣民の宗教的、文化的、特に、経済的生活の必要な監督者だと主張してきたところで、
リベラリズムが、最も望ましい体制は、市民社会、すなわち、
私有財産と自発的な交換に基づいた社会秩序全体が、
全般的に自らを運営するものだと、際立って対照的な見解を立てたのである。

リベラリズムの理念型を構築するなら、
「国家に対する社会」というリベラルの断言の象徴的表現に頼るだろう。
最も簡潔なものが、フィジオクラット(重農主義者)のスローガンである。
「レッセフェール(為すに任せよ)、レッセパッセ(行くに任せよ)、世界は、ひとりでに進み続ける」

リベラリズムは、本質的に、社会の自己規制、有益な自生的秩序を生み出すその能力の教義である。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-932.html

1978年、マリー・ロスバード、「新しい自由のために」

 Murray Rothbard

リバタリアニズムの信条は、西洋世界における17世紀、18世紀の
「クラシカル・リベラリズム」(古典的自由主義)の運動から、
特に17世紀のイギリス革命から現れた。
この急進的なリバタリアニズムの運動は、
その誕生の地、英国では部分的に成功しただけであったが、それでも産業と生産を、
国家統制の窒息的な制限と都市部の政府支援のギルド(特権的同業者組合)たちから
解き放つことによって、産業革命へと導くことが出来た。
西洋世界中で、クラシカル・リベラリズム(古典的自由主義)の運動が、
旧秩序と呼べるもの、何世紀の間その従属民たちを支配していたアンシャン・レジーム
(旧体制)に対する、力強いリバタリアニズムの「革命」だったからだ。
そのレジーム(体制)は、16世紀に始まる近世において、
封建的土地独占と都市部のギルドによる支配と制限という、より古い制限の蜘蛛の巣の上に、
絶対的な中央国家と神権による王の支配を押しつけた。
その結果が、統制、税金、中央(および地方)政府がお気に入りの生産者たちに授けた
生産および販売の独占特権という、活動を妨げる蜘蛛の巣の下でのヨーロッパの停滞であった。
新たな官僚的、戦争作りの中央国家の、特権商人たちとの同盟、
すなわち後の歴史家たちによって「重商主義」と呼ばれた同盟、
そして、支配する封建領主階級たちとの同盟が、旧秩序を構成していた。
それに対して、クラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちと急進主義者たちが、
17世紀と18世紀に立ち上がり反抗したのである。

クラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちの目標は、
個人の自由(リバティー)をその相互関係的な全側面においてもたらすことだった。
経済においては、皆と大勢の消費者たちを益する交換で創造し生産すべく、
税金が徹底的に減らされ、統制と規制が除去され、
人間のエネルギー、企業、市場が解放されることになった。
起業家たちは、ようやく、自由に競争、開発、創造できることになった。
統制の束縛は、同様に、土地、労働、資本からも解かれることになった。
個人的自由(フリーダム)と市民的自由(リバティー)が、
王やその手下たちの略奪と圧制に対して保証されることになった。
宗教は、何世紀の間、宗派たちが国家の支配を得ようと戦う時には
血まみれの戦争の原因であったが、あらゆる宗教たち、もしくは、非宗教たちが、
平和に共存できるように、国家の押しつけや干渉から解放されることになった。
平和も、新しいクラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちの外交政策の信条だった。
帝国と国家の権力と金(かね)の増強という昔ながらのレジーム(体制)が、
平和とすべての国家たちとの自由貿易という外交政策に取り替えられた。
そして、戦争は、常備の陸軍と海軍によって、常に拡大を求めている軍事力によって、
引き起こされると見なされたので、それらの軍事的設立物は、地方の民兵に、
自分たち自身の特定の家々と近隣の者たちを守るために戦いたいと願うのみの市民-民間人に、
取り替えられた。

このように、よく知られている「政教分離」の主題は、
「国家から経済の分離」、「国家から言論と出版の分離」、「国家から土地の分離」、
「国家から戦争と軍事の分離」として要約できる多くの相互関連する主題の一つに過ぎなかった。
実に、事実上あらゆるものからの国家の分離であった。

要するに、国家は、とても低い、ほとんど無視してよい予算で、
極めて小さくしておかなければならなかった。
古典的リベラル(自由主義者)たちは、決して、課税の理論を開発しなかったし、
増税とあらゆる新種の税金には、激しく戦った。


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我々は彼らに「リバタリアン」を持たせるつもりはない


2014年3月31日、ルー・ロックウェル、「何がリバタリアニズムで何がそうでないか」

 Lew Rockwell

ロン・ポールの最初の大統領立候補以来の、
リバタリアニズムに転向する者たちの数の爆発的成長は、
私の生涯の中で最も興奮させる進展の一つである。
しかし、私は、注意書きを出したいと思う。

リバタリアニズムは、社会の中の暴力の使用に関係している。
それだけのものだ。
他のものではないのである。
それは、フェミニズムではない。
それは、平等主義ではない。
(誰もが等しく、他人を攻撃する権限を持っていないという、機能上の意味を除いて)
それは、美学について何も言うべきことを持っていない。
それは、宗教、人種、国籍、性的指向について何も言うべきことを持っていない。
それは、「白人の特権」に反対する左翼運動とは何も関係がない。
その特権が、国家に与えられているのでない限り。

繰り返す。
リバタリアンとしてのリバタリアンにとって重要な唯一の「特権」は、
国家の銃の砲身から来るたぐいのものである。
したければ、この説明に反対すればいいが、
その場合には、自分の哲学を述べるために、
何かリバタリアニズムの言葉でないものを代わりに用いなければならないのだ。

もちろん、フェミニズムや平等主義のような論点に、
リバタリアンたちが自ら関わるのは、御自由にだ。
しかし、それらの論点に対する彼らの関心は、
彼らのリバタリアニズムには要求されていないし、その必要な特徴でもない。
したがって、彼らは、他のリバタリアンたちに、それらの好みを押しつけたり、
より十分な、より首尾一貫した、より完全なリバタリアンだと自分たち自身を描写してはならない。
我々は、我々の言葉が他の者たちによってねじ曲げられて着服されるのを十分に見てきた。
我々は、彼らに「リバタリアン」を持たせるつもりはない。

ロスバードが表現しているように、
「実際に快楽主義者で代替の生活様式の愛好者であるリバタリアンたちはいるし、
 『ブルジョア』の慣習的もしくは宗教的な道徳の堅い信奉者であるリバタリアンたちもいる。
 リバタリアンの放蕩者たちはいるし、
 自然もしくは宗教の法の規律に堅く忠実であるリバタリアンたちはいる。
 権利の非侵害という命令は別にして道徳理論を全く持たないリバタリアンたちも他にいる。
 それは、リバタリアニズムそれ自体が、一般的もしくは個人的な道徳理論を持っていないからである。
 
 リバタリアニズムは、生き方は提供しない。
 自由(リバティー)を提供するのである。
 各人が自由に自分自身の価値観と道徳原則を採用して、それに基づいて行動できるように。
 リバタリアンたちは、アクトン卿に同意する。
 『自由(リバティー)は、政治上で最高の目的である。』
 皆の個人的な価値尺度において必ずしも最高の目的ではないのだ。」

リバタリアンたちは、思想統制の仕事には適さない。
生涯ずっと教えられてきたことに劇的に反対する見解を採用するよう、
人々を説得しようと試みることは、十分に難しい。
もしも、非攻撃の原則を彼らに説得できたら、我々は大喜びに違いない。
我々の哲学の核となる教えの上に、
体制に承認された意見を恣意的に押しつけることによって、物事を複雑にする必要はない。

リバタリアニズムは、思想と実践の美しく簡潔な体系である。
それは、自己所有の原則から始まり、その上に論理的に築く。
それが求める社会においては、誰も他人に対して物理的力を開始してはならない。
奴隷制から戦争まで道徳上の非道行為に対するリバタリアンの見解について、
これが言っていることは明らかなはずだが、
自由(フリーダム)へのリバタリアニズムの専心は、
人類の明々白々な災難を遙かに超えて伸びる。

我々の立場は、国家が道徳上の悪であるのみならず、
人間の自由(リバティー)が、ものすごい道徳上の善であるというものだ。
人間は、 絞首刑執行人たちと銃ではなく、
自らの際だった特徴である理性(リーズン)に基づいて、
お互いに交流するべきである。
そして、そうする時に、その結果は、歓迎される偶然によって、
上昇する生活水準、創造性と技術的進歩の爆発、平和である。
世界の部分的に資本主義の社会たちにおいてさえ、
何十億ではなくとも何億の人々が、その日暮らしの生存という、
魂を打ちひしぐような悲惨な状況から解放されたのだ。
遙かに有意義で充実した生活と引き換えに。

言い換えると、リバタリアニズムは、その純粋で不希釈の形において、
知的に厳密であり、道徳的に首尾一貫していて、
まったく興奮させ、わくわくさせるものである。
いかなる外来のイデオロギーとも融合する必要がないし、するべきではない。
それは、混乱を引き起こすことにしかならず、
自由(リバティー)のメッセージの中心的な道徳上の主張ならびに、
その魅力全体を薄めることにしかならない。



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