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アメリカ帝権の創立者


2014年8月8日、ルー・ロックウェル、「誕生日おめでとう、トム・ディロレンゾ」 

 Lew Rockwell

トムが、今日で60歳である。
彼を見て、そうは決して言えないだろうけれども。
経済学とアメリカ史の素晴らしい教師であり学者である。
業績を一つだけ取り上げるならば、
彼が、リンカーンについての意見の雰囲気を変えた。
我々の自由(フリーダム)を、その上、世界の大半を、
台無しにすることに取りかかったアメリカ帝権の創立者である。



この体制による聖エイブラハムについての嘘を繰り返し語る際に、
安全を感じられる教授やジャーナリストは、トムのおかげで居るまい。
あまりに多くのアメリカ人たち、特に学生たちが、真実を知っている。
トム、お誕生日おめでとう、おめでとう。








 





  


 





 









































 


 


  





 


 


 







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私はリバタリアンである


2014年5月6日、ローレンス・ヴァンス、「私はリバタリアンである」

 Laurence M. Vance

私は、リバタリアンである。
私は、民主党員や共和党員ではない。
私は、リベラルや保守主義者ではない。
私は、左派や右派ではない。
私は、穏健派や進歩主義者ではない。
私は、リバタリアン党員ではない。
私は、連合主義者ではない。
私は、憲法主義者ではない。

私は、リバタリアンである。
私は、厚派や薄派ではない。
私は、獣派や人道派ではない。
私は、全体派や唯我派ではない。
私は、道徳派や帰結派ではない。
私は、開放派や閉鎖派ではない。
私は、形式的、国際的、文化的、体制的、洗練的な、つまり政府界隈リバタリアンではない。
私は、出血心臓(大げさな同情)を持っていない。
私は、新や第二波や千年紀のリバタリアンではない。
私は、分かりやすい古いリバタリアンである。
ラベルが必要なく、ただし書きを付けず、言い訳をしないものだ。

私は、リバタリアンである。
リバタリアニズムは、力や暴力の許容される使用に関係している政治哲学である。
それは、制限された政府が最良の種類の政府であると言う政治哲学ではない。
それは、社会的にリベラルで経済的に保守主義の政治哲学ではない。
それは、政府は民間部門よりも効率的ではないと言う政治哲学ではない。
それは、政府のある政策を他の政策よりも推進することによって、
自由(フリーダム)が獲得できると言う政治哲学ではない。
それは、低税リベラリズムである政治哲学ではない。
リバタリアニズムは、人種差別、性差別、ホモ嫌い、外人嫌い、民族主義、土着主義、
階級主義、権威主義、家父長制、不平等、階層が無いことではない。
リバタリアニズムは、多様性や行動主義ではない。
リバタリアニズムは、平等主義ではない。
リバタリアニズムは、寛容や尊重ではない。
リバタリアニズムは、社会的態度や生活様式や美的感性ではない。



私は、リバタリアンである。
私は、マリー・ロスバードの言葉では、
「暴力の唯一適切な役割は、暴力から身体と財産を守ることであり、
そのような全くの防衛を超える暴力のいかなる使用も、
それ自体、攻撃、不正、犯罪である」と言う、非攻撃の原則に同意する。
従って、リバタリアニズムは、誰もが、暴力的な侵害が無いべきであり、
他の者の身体と財産を侵害する以外は、その人が適当と思うことを、
自由に行えるべきであると述べる理論である。
私は、行為に関心がある。
私は、考えには関心がなく、
私は、考えの否定的結果にのみ関心があるのだ。
私は、非攻撃の原則は政府にまで及ぶと信じている。
従って、リバタリアンたちは、政府たちの国内外に対する干渉と介入に反対すべき、
あるいは、そうでなければ制限しようとするべきである。
非攻撃の原則に対する最大の違反者たちである。

私は、リバタリアンである。
私は、黄金律を信じている。
私は、「Live and Let Live」(本人が生きたいように生きることを許せ)を信じている。
私は、人は、その人の行いが平和的である限り、
本人が望むことは何でも自由に行えるべきであると信じている。
私は、悪徳は犯罪ではないと信じている。

私は、リバタリアンである。
我々の敵は、国家である。
我々の敵は、宗教や企業たちや団体たちや財団たちや組織たちではない。
それらは、それらが国家と繋がりを持つせいで我々を害する力を持つのみである。
そして、戦争は、国家の健康であるので、
国家の軍隊、戦争、対外干渉は、徹底的に反対されなければならない。

私は、リバタリアンである。
私は、レッセ・フェール(為すに任せよ)を信じている。
誰でも、国家からの免許、許可、禁止、干渉なしで、
いかなる経済活動にも自由に従事できるべきである。
政府は、経済に対して何等も干渉すべきでない。
自由貿易協定、教育バウチャー、社会保障の民営化などは、
僅かたりともリバタリアニズムの考えではない。



私は、リバタリアンである。
最良の政府は、政府無しである。
最小統治の政府は、次善の政府であるということ。
政府とは、ボルテールが言ったように、
その最良の状態で、必要悪であり、
その最悪の状態で、耐えがたきものである。
どの政府も行える最良のことが、単に我々を放っておくことである。

私は、リバタリアンである。
税金は、政府による盗みである。
政府は、人の所得の一定パーセントに要求権を持ってはいないのである。
税法は、簡易化したり、短くしたり、より公平にしたり、
より侵入的でなくしたり、する必要はない。
税率は、より低くしたり、より公平にしたり、より平等にしたり、
より累進的でなくしたり、する必要はない。
所得税は、さらなる、もしくは、より大きな、
控除や抜け穴や隠れ蓑や減額や免除は必要ない。
腐ったシステム全体を廃止する必要があるのだ。
人々は、自分が稼いだものを保持し、
自分のお金で行うことは、自分自身で決める権利を持っている。
それを使ったり、それを無駄にしたり、それを浪費したり、
それを寄付したり、それを遺贈したり、
それを退蔵したり、それを投資したり、
それを燃やしたり、それを賭けたり。



私は、リバタリアンである。
私は、放蕩者(リバティーン)ではない。
私は、快楽主義者ではない。
私は、道徳相対主義者ではない。
私は、ある代替生活様式の愛好者ではない。
私は、革命家ではない。
私は、虚無主義者(ニヒリスト)ではない。
私は、そうである者たちと交際したいとも攻撃したいとも思わない。
私は、交際と差別の絶対的自由(フリーダム)を信じている。

私は、リバタリアンである。

未分類 | 17:24:25 | Trackback(0) | Comments(1)
厚いリバタリアニズムの危険


2014年5月1日、ルー・ロックウェル、「リバタリアニズムの未来」

 Lew Rockwell

マルクス主義者たちは、最も些細な違いでの内紛で有名だった。
あるグループが脱退して、脱退したグループの語順を逆さにして、
自らを新しい純粋なグループだと宣言する。
最初のグループは、来るべき労働者たちの勝利を抑え込むための、
ファシストの陰謀の一部なのだと、新しいグループが世界に宣言する。
その二つのグループの違いは、専門家にとってすら、まったく検知不可能であったけれども。

「厚い」リバタリアンであるべきか、「薄い」リバタリアンであるべきかに関して、
リバタリアンたちの間で近ごろ起こってる非公式の討論は、異なる性質を持っている。
それは、リバタリアニズムが何であるかについての、まさに核心を突いている。

「薄い」リバタリアンは、非攻撃の原則を信じている。
人は他人に対して物理的力を開始してはならないということを。
薄いリバタリアンは、自らを単純に(形容語の付かない)リバタリアンだと思っている。
ほとんどの「厚い」リバタリアンたちも、非攻撃の原則を同様に信じているが、
彼らは、自由(リバティー)のための闘いが首尾一貫するには、
リバタリアンたちが他の見解にも傾倒しなければならないと信じている。

「厚い」リバタリアニズムの提唱者たちは、
リバタリアンたちは非攻撃の原則を超えるものを擁護しなければならないと言う。
リバタリアニズムは、それだけのものを超えた傾倒を意味するのだと。
そのような提唱者の一人が最近このように言った。
「力の適切な使用と不適切な使用にのみ、
 リバタリアニズムの哲学が関係していると信じることに、
 私は、困難を感じ続けている。」
しかし、その人が信じることが、どんなに難しかろうと、
それが、まさしく、リバタリアニズムなるものであり、それだけのものなのだ。

この何ヶ月、我々は、あるリバタリアンたちに、こう告げられてきた。
はい、はい、リバタリアニズムとは、非攻撃とか、私有財産とか、そういうことに関するものだと。
しかし、それは、実際には、国家が押しつけたのであろうとなかろうと、
あらゆる形の抑圧に反対する、より大きな計画の一部なのだと。
これは、厚いリバタリアンにとって、二つの意味合いを持つ。
第一に、国家に反対することは、十分ではないと。
たとえ、物理的攻撃を伴っていなくても、
本物のリバタリアンは、他の様々な形の抑圧に反対しなければならないのだと。
第二に、国家の縮小もしくは廃止は、
多くの厚いリバタリアンたちが支持する他の種類の結果をもたらすから、
リバタリアニズムが支持されるべきなのだと。
より小さな会社たち、より労働者主導の協調、より経済的平等など。

これらの意味合いを一つずつ検討しよう。

リバタリアンが攻撃に反対することは十分ではないと主張することは、
最初に古典的リベラリズムを破壊し、それを現代リベラリズムに変形した、罠に陥ることである。
結局、どのようにして、18世紀と19世紀のリベラリズムが、
国家に夢中の20世紀と21世紀のリベラリズムになったのか?
そもそも、どうやって、かつては栄光ある言葉だった「リベラリズム」が倒錯してしまったのか?
まさしく、厚い主義ゆえである。
20世紀のリベラルたちは、こう言ったのだ。
我々は、自由(リバティー)に賛成だ、
しかし、単なる消極的自由すなわち、国家に対する制限だけでは、
十分に平等主義の結果をもたらさないように思われるので、
我々には、それ以上のものが必要だと。
ある国家活動に対する制限に加えて、
我々には、他の形の国家活動の「拡大」が必要だと。

結局、新しいリベラルたちは、国家による抑圧が、
世界における唯一の形の抑圧ではないと言ったのだ。
貧困があり、それが、人生の選択を行う人々の能力を制限するのだと。
私有財産があり、その制約が、自分を表現する人々の能力を制限するのだと。
差別があり、それが、人々の機会を制限するのだと。
悪口があり、それが、人々を不快にさせるのだと。
もっぱら国家に焦点を当てることは、
これら極めて現実的な形の害を見落とすことだと、
新しいリベラルたちは言ったのである。

聞き覚えは?
それが、まさしく、多くの厚いリバタリアンたちが今言っていることではないのか?
国家を攻撃することは、十分ではないと、我々は聞く。
我々は、「家父長制」、階層、不平等などを攻撃しなければならないのだと。
厚いリバタリアンたちは、どんな追加の傾倒をリバタリアニズムが伴うのかについて、
彼ら自身の間で意見が合わないかもしれないが、リバタリアニズムが、単に、
物理的力の開始を根絶することに専念してはいけないということに、彼らは、皆、同意する。

もしも、自分たちのイデオロギー上の好みに従う社会を望むとか、
それに向かって取り組みたいというリバタリアンたちがいたら、
もちろん、そうするのは、ご自由にだ。
しかし、特に、彼らがリバタリアニズム内の大テントにこだわっていることを考えれば、
我々の栄光ある伝統の上に何であれ彼らが置くことになった奇異な解釈を、
彼らが他のリバタリアンたちに押しつけたり、
それら他のイデオロギーを共有しない人たちは本当のリバタリアンにはなれないと暗示したり、
それらを抱くことの出来ない者が本当にリバタリアンであり得ることは、
「まったくありそうにない」と示唆することは、間違いである。
それらが、「不寛容」について文句を言っている同じ人たちであるということが、
皮肉のうちで唯一最も甚だしいものである。

従って、厚いリバタリアニズムの危険は、単に、アメリカ人口のうちの大部分が、
何を信じ、何を言うことが容認されるのか、MSNBCが我々に知らせるものに、
10分ごとに遅れずについていっておらず、その入場条件に合格できないことではない。
その危険は、厚いリバタリアニズムが、
彼ら自身が認めているように、物理的力の開始を伴わない、他のそれの関心事を、
リバタリアニズム自体に持ち込むことである。
それによって、リバタリアニズムを、
我々が数世代にわたって擁護してきた真っ直ぐで簡潔な道徳と社会のシステムとは、
まったく異なるものへと変形させることである。

さて、第二の意味合いだが、
国家に反対することは、それが平等主義の結果をもたらすから賛成されるべきであると。
(もちろん、国家の廃止は、「地位」の観点からすれば、必然的に平等主義の水準を増す。
 つまり、一方で、自分たちを支える国家の正当性でもって、
 あらゆる種類の道徳上の非道を行ってもよい、国家の役人たち、
 他方で、盗みと攻撃に反対する伝統的な道徳上の規則に制約されている、普通の人々、
 その間の地位の不平等は、国家が消滅する時、もはや存在しなくなる。)
しかし、もし、そうでなければ、どうするのか?
自由市場では、会社たちは、より小さくなる傾向にあるのだと、
政府の政策が、事業が大きいことを促しているのだと、いう主張は、
あまりに複雑な現象について、あまりに大ざっぱな発言である。
もし、国家の不在が、会社の大きさや雇用関係や富の不平等に何も変化をもたらさなければ、
どうするのか?

その時点で、問いは、こうなる。
厚いリバタリアンたちは、非攻撃と平等主義の、どちらの原則に、より傾倒しているのか?
彼らは、選択しなければならないなら、どうするのか?

同様に、ある古典的リベラルたちの教会に対する憎しみが、
教会の財産を没収し、教会の活動に対して様々な種類の制限を加えるよう、彼らを動かした。
自由(リバティー)に対する彼らの信念か、教会に対する彼らの個人的憎しみか、
選択することになれば、彼らの個人的憎しみが勝ったのだ。
そして、原則に基づいているとされた、暴力への彼らの反対は、一時的に停止されたのだ。

どのようにして人々がリバタリアニズムに到達するのかも、重要なことではない。
非攻撃の原則へと至る様々な思想学派が存在している。
いったん、そこに至れば、我々は、正確に何が特定の場合における攻撃になるのか、
もちろん討論してよい。
しかし、もしも、あなたが所属している思想学派が、
部分的にのみ非攻撃のほうへと、あなたを連れていくのなら、
あなたが、新しい、もしくは、より良い形のリバタリアニズムを発見したということではない。
そのような場合は、あなたは、異なる種類のリバタリアンなのではなく、
部分的にリバタリアンであるという意味でしかない。

自己防衛の法律が「人種差別主義的」だという主張であろうと、
ビットコインが「人種差別主義的」だという主張であろうと、
リバタリアンたちは「白人の特権」を捨て去るべきだという主張であろうと、
(非攻撃の原則に対する我々の固執とされるものを、
 超えたのだと主張しているリバタリアンたちによって、このすべてが唱えられている)
様々な形の厚いリバタリアニズムは、我々が信じているものの中心的な教えを混乱させている。
それらの関心事は、何一つ僅かたりともリバタリアニズムに関係ない。

それら追加の主張は、すべて、中心にある原則から逸らせるものである。
つまり、もしも、あなたが、物理的力の開始に反対するのなら、
あなたは、リバタリアンである、そこで終わりなのだ。
さて、それは、そんなに大変なことか?


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-815.html

2011年、ラルフ・ライコ、「リベラリズム:本物と偽物」

 Ralph Raico

実際、リベラリズムについての文献を調査すれば、概念上の混乱状態が明らかになる。
この一つの根本的原因が、「リベラル」を自称した重要な政治的集団たち、
すべてを収容しようとする頻繁な試みである。

そのような変化は、民主的選挙の政治の力学によって容易に説明される。
集産主義の思想の競争に直面して、リベラル政党たちは、
新しい種類の「政治的起業家たち」を生み出した。
「たかり」選挙民たち、すなわち、
国家を用いて自分たちの経済的立場を高める者たちを、
動員する技に長けた者たちである。



この分野で一般的な混乱の多くは、ジョン・スチュアート・ミルに遡れる。
英語を話す人々によって受け入れられているリベラリズムの概念において、
非常に膨らまされた立場を占めているのだ。

ミルは、企業家たちと労働者たちを含む、
すべての社会階級の利益の長期的調和というリベラルの考えを拒絶した。

国際問題では、ミルは、外国の戦争に不干渉というリベラルの原則を拒否した。

最悪なことは、ミルが自由(リバティー)の概念を醜く変形させたことだった。
自由(リバティー)は、国家やその他の団体たち個人たちの側の、
物理的攻撃によってのみ、脅かされる状況ではないようだと。
むしろ、「社会」が、しばしば、個人の自由(フリーダム)に対して、
もっと重大な危険をもらたすのだと。

彼は、自分が何も知らない多数の人々の、
習慣、態度、選好、道徳的規準に対して絶えず判断を下した。

受け入れられている宗教、伝統、社会規範に敵対する姿勢に、
リベラリズムを繋げる決定的な結合は、
他の誰より、ジョン・スチュアート・ミルのせいである。
それが、残念ながら、標準になってしまった。

一方に、国家の強制、他方に、社会的圧力、正統的意見、慣習、
その間の区別を付けないのである。

ミルの見解は、「社会的不承認を被ることと投獄を被ること」の間の、
かなり決定的な区別を消す傾向にあり、リベラリズムを、
無実の非強制的な伝統的価値観や取り決め、特に宗教的なものに立ち向かわせることになる。
それは、リベラリズムと国家の間で、攻撃同盟も作り出す。
もしかしたら、ミルの意図に反するとしても、伝統的な規範は、
政治的権力の大規模な使用による以外、根絶できる方法は、想像が難しいのだから。

リベラルの通俗的な意味が、時間とともに大幅に変わってきたことは、争点になっていない。
1900年あたりで、英語を話す国々その他の場所で、この用語が、
本質的に社会民主主義者である著述家たちに捕らえられたことは、良く知られている話である。

修正主義の社会主義の創始者、エドゥアルト・ベルンシュタインの、この言葉を考えてみよ。
「自由な個性の開発と保護が、すべての社会主義の方策の目標である。
 たとえ、それらが、表面的に、強制であるように見えてもである。
 社会における自由(フリーダム)の総量を増やし、
 より幅広い集団に対して、それが取り去るよりも、より多くの自由を与えることが、
 強制の問いであることは、より綿密な考察が、常に示している。」

これが、過去一世紀それ以上の間の「新しいリベラルたち」の立場と、どう違うのか?
リベラリズムを反対のイデオロギーたちから分けるものが、
まさしく、その実質的な施策、擁護する手段である。
すなわち、私有財産、市場経済、そして、国家および国家後援の団体の権力の最小化である。

リベラリズムの概念が、市場経済と私有財産の支持者を締め出すべく変形された後、
「個人主義」も、その同じ目的のために、再定義されることになったのである。

こんにちの絶え間なく拡大する福祉国家に魅了されている著述家たちが、
それをリベラルの伝統に融合させようと試みてきたことは、驚くに当たらない。

その結果は、歴史的なリベラルの柱である、私有財産、法の前での平等、
契約と言論と結社の自由の、計画的な転覆である。

こんにち、ハーバート・スペンサーが、一世紀以上前に表明した不満が、
これまでにも増して真実味を持っている。
「そんなことが、リベラルの名を主張する党の行っていることなのだ。
 拡張された自由(フリーダム)を唱える者であるとして、リベラルを自称している!」



厳しく制限された国家を設立するというリベラルの施策が、根本的な矛盾を隠していて、
物事の本質上、必然的に、包括的な権力で武装した国家に道を譲るというのは、もっともらしい。
これは、ハンス・ハーマン・ホップによって、説得力を持って論じられてきた。
「自由(リバティー)と財産を保護するという元のリベラルの意図に反して、
 どの最小政府も、最大政府になる生来の傾向を持っているのである。」と。

リベラリズムが、包括的な社会哲学として、18世紀に形成された時、
それは、欧州で一般的だったマーカンティリズム(重商主義)と官房主義のシステムの、
正反対のものとして現れたのである。

人々に対するパターナル(父親的)な気づかいが、国政術の最高目的だった。
それが、この、経済を、同じく、残りの社会生活を、管理するシステムだった。
その意図が、善意だとされることは、
それを専制的であると激しく非難するリベラルたちにとっては、関係なかった。
警察国家(Polizeistaat)は、偶然にも、「福祉国家」として最良に訳される言葉であるが、
リベラリズムは、それに反発して成長したのである。

歴史的に、君主絶対主義が、国家は、社会のエンジンであり、
その臣民の宗教的、文化的、特に、経済的生活の必要な監督者だと主張してきたところで、
リベラリズムが、最も望ましい体制は、市民社会、すなわち、
私有財産と自発的な交換に基づいた社会秩序全体が、
全般的に自らを運営するものだと、際立って対照的な見解を立てたのである。

リベラリズムの理念型を構築するなら、
「国家に対する社会」というリベラルの断言の象徴的表現に頼るだろう。
最も簡潔なものが、フィジオクラット(重農主義者)のスローガンである。
「レッセフェール(為すに任せよ)、レッセパッセ(行くに任せよ)、世界は、ひとりでに進み続ける」

リベラリズムは、本質的に、社会の自己規制、有益な自生的秩序を生み出すその能力の教義である。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-932.html

1978年、マリー・ロスバード、「新しい自由のために」

 Murray Rothbard

リバタリアニズムの信条は、西洋世界における17世紀、18世紀の
「クラシカル・リベラリズム」(古典的自由主義)の運動から、
特に17世紀のイギリス革命から現れた。
この急進的なリバタリアニズムの運動は、
その誕生の地、英国では部分的に成功しただけであったが、それでも産業と生産を、
国家統制の窒息的な制限と都市部の政府支援のギルド(特権的同業者組合)たちから
解き放つことによって、産業革命へと導くことが出来た。
西洋世界中で、クラシカル・リベラリズム(古典的自由主義)の運動が、
旧秩序と呼べるもの、何世紀の間その従属民たちを支配していたアンシャン・レジーム
(旧体制)に対する、力強いリバタリアニズムの「革命」だったからだ。
そのレジーム(体制)は、16世紀に始まる近世において、
封建的土地独占と都市部のギルドによる支配と制限という、より古い制限の蜘蛛の巣の上に、
絶対的な中央国家と神権による王の支配を押しつけた。
その結果が、統制、税金、中央(および地方)政府がお気に入りの生産者たちに授けた
生産および販売の独占特権という、活動を妨げる蜘蛛の巣の下でのヨーロッパの停滞であった。
新たな官僚的、戦争作りの中央国家の、特権商人たちとの同盟、
すなわち後の歴史家たちによって「重商主義」と呼ばれた同盟、
そして、支配する封建領主階級たちとの同盟が、旧秩序を構成していた。
それに対して、クラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちと急進主義者たちが、
17世紀と18世紀に立ち上がり反抗したのである。

クラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちの目標は、
個人の自由(リバティー)をその相互関係的な全側面においてもたらすことだった。
経済においては、皆と大勢の消費者たちを益する交換で創造し生産すべく、
税金が徹底的に減らされ、統制と規制が除去され、
人間のエネルギー、企業、市場が解放されることになった。
起業家たちは、ようやく、自由に競争、開発、創造できることになった。
統制の束縛は、同様に、土地、労働、資本からも解かれることになった。
個人的自由(フリーダム)と市民的自由(リバティー)が、
王やその手下たちの略奪と圧制に対して保証されることになった。
宗教は、何世紀の間、宗派たちが国家の支配を得ようと戦う時には
血まみれの戦争の原因であったが、あらゆる宗教たち、もしくは、非宗教たちが、
平和に共存できるように、国家の押しつけや干渉から解放されることになった。
平和も、新しいクラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちの外交政策の信条だった。
帝国と国家の権力と金(かね)の増強という昔ながらのレジーム(体制)が、
平和とすべての国家たちとの自由貿易という外交政策に取り替えられた。
そして、戦争は、常備の陸軍と海軍によって、常に拡大を求めている軍事力によって、
引き起こされると見なされたので、それらの軍事的設立物は、地方の民兵に、
自分たち自身の特定の家々と近隣の者たちを守るために戦いたいと願うのみの市民-民間人に、
取り替えられた。

このように、よく知られている「政教分離」の主題は、
「国家から経済の分離」、「国家から言論と出版の分離」、「国家から土地の分離」、
「国家から戦争と軍事の分離」として要約できる多くの相互関連する主題の一つに過ぎなかった。
実に、事実上あらゆるものからの国家の分離であった。

要するに、国家は、とても低い、ほとんど無視してよい予算で、
極めて小さくしておかなければならなかった。
古典的リベラル(自由主義者)たちは、決して、課税の理論を開発しなかったし、
増税とあらゆる新種の税金には、激しく戦った。


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我々は彼らに「リバタリアン」を持たせるつもりはない


2014年3月31日、ルー・ロックウェル、「何がリバタリアニズムで何がそうでないか」

 Lew Rockwell

ロン・ポールの最初の大統領立候補以来の、
リバタリアニズムに転向する者たちの数の爆発的成長は、
私の生涯の中で最も興奮させる進展の一つである。
しかし、私は、注意書きを出したいと思う。

リバタリアニズムは、社会の中の暴力の使用に関係している。
それだけのものだ。
他のものではないのである。
それは、フェミニズムではない。
それは、平等主義ではない。
(誰もが等しく、他人を攻撃する権限を持っていないという、機能上の意味を除いて)
それは、美学について何も言うべきことを持っていない。
それは、宗教、人種、国籍、性的指向について何も言うべきことを持っていない。
それは、「白人の特権」に反対する左翼運動とは何も関係がない。
その特権が、国家に与えられているのでない限り。

繰り返す。
リバタリアンとしてのリバタリアンにとって重要な唯一の「特権」は、
国家の銃の砲身から来るたぐいのものである。
したければ、この説明に反対すればいいが、
その場合には、自分の哲学を述べるために、
何かリバタリアニズムの言葉でないものを代わりに用いなければならないのだ。

もちろん、フェミニズムや平等主義のような論点に、
リバタリアンたちが自ら関わるのは、御自由にだ。
しかし、それらの論点に対する彼らの関心は、
彼らのリバタリアニズムには要求されていないし、その必要な特徴でもない。
したがって、彼らは、他のリバタリアンたちに、それらの好みを押しつけたり、
より十分な、より首尾一貫した、より完全なリバタリアンだと自分たち自身を描写してはならない。
我々は、我々の言葉が他の者たちによってねじ曲げられて着服されるのを十分に見てきた。
我々は、彼らに「リバタリアン」を持たせるつもりはない。

ロスバードが表現しているように、
「実際に快楽主義者で代替の生活様式の愛好者であるリバタリアンたちはいるし、
 『ブルジョア』の慣習的もしくは宗教的な道徳の堅い信奉者であるリバタリアンたちもいる。
 リバタリアンの放蕩者たちはいるし、
 自然もしくは宗教の法の規律に堅く忠実であるリバタリアンたちはいる。
 権利の非侵害という命令は別にして道徳理論を全く持たないリバタリアンたちも他にいる。
 それは、リバタリアニズムそれ自体が、一般的もしくは個人的な道徳理論を持っていないからである。
 
 リバタリアニズムは、生き方は提供しない。
 自由(リバティー)を提供するのである。
 各人が自由に自分自身の価値観と道徳原則を採用して、それに基づいて行動できるように。
 リバタリアンたちは、アクトン卿に同意する。
 『自由(リバティー)は、政治上で最高の目的である。』
 皆の個人的な価値尺度において必ずしも最高の目的ではないのだ。」

リバタリアンたちは、思想統制の仕事には適さない。
生涯ずっと教えられてきたことに劇的に反対する見解を採用するよう、
人々を説得しようと試みることは、十分に難しい。
もしも、非攻撃の原則を彼らに説得できたら、我々は大喜びに違いない。
我々の哲学の核となる教えの上に、
体制に承認された意見を恣意的に押しつけることによって、物事を複雑にする必要はない。

リバタリアニズムは、思想と実践の美しく簡潔な体系である。
それは、自己所有の原則から始まり、その上に論理的に築く。
それが求める社会においては、誰も他人に対して物理的力を開始してはならない。
奴隷制から戦争まで道徳上の非道行為に対するリバタリアンの見解について、
これが言っていることは明らかなはずだが、
自由(フリーダム)へのリバタリアニズムの専心は、
人類の明々白々な災難を遙かに超えて伸びる。

我々の立場は、国家が道徳上の悪であるのみならず、
人間の自由(リバティー)が、ものすごい道徳上の善であるというものだ。
人間は、 絞首刑執行人たちと銃ではなく、
自らの際だった特徴である理性(リーズン)に基づいて、
お互いに交流するべきである。
そして、そうする時に、その結果は、歓迎される偶然によって、
上昇する生活水準、創造性と技術的進歩の爆発、平和である。
世界の部分的に資本主義の社会たちにおいてさえ、
何十億ではなくとも何億の人々が、その日暮らしの生存という、
魂を打ちひしぐような悲惨な状況から解放されたのだ。
遙かに有意義で充実した生活と引き換えに。

言い換えると、リバタリアニズムは、その純粋で不希釈の形において、
知的に厳密であり、道徳的に首尾一貫していて、
まったく興奮させ、わくわくさせるものである。
いかなる外来のイデオロギーとも融合する必要がないし、するべきではない。
それは、混乱を引き起こすことにしかならず、
自由(リバティー)のメッセージの中心的な道徳上の主張ならびに、
その魅力全体を薄めることにしかならない。



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我々がニューヨーク・タイムズ賞を獲得


2014年1月27日、ルー・ロックウェル、「我々がニューヨーク・タイムズ賞を獲得」

 Lew Rockwell

ミーゼス研究所、ロン・ポール、他の我々の学者たち、徹底したリバタリアニズム、私を、
財務上で平静を装っているニューヨーク・タイムズ紙が、今週末、あらためて中傷した。
なぜか?
我々の思想と我々の若者の運動が、本当に勢いを増しているからだ。
これは、実質的に、褒め言葉である。
彼らは、以前には、我々のような反対に決して直面したことがないのである。
そして、ものすごくロン・ポールが若者たちと共鳴していることは、
タイムズ紙の観点からは、事態を悪化させるだけだった。

タイムズ紙が望んでいるのは、このゲームでプレイする相手、この体制の前提を受け入れる相手、
タイムズ紙がアメリカ国民を閉じ込めたがっている狭い範囲の討論に進んで自らを閉じ込める相手だ。

今週末のような記事の目的は、きっと指摘する必要も無かろうが、光を当てないことである。
この体制が脅威と考えている思想学派を悪魔扱いして破壊することである。

例えば、この記事は、今月初めにミーゼス研究所の催しで、
ロンが「我々は警察国家に住んでいるのか?」という話題で講演したこと、
また別の講演者(私)が「アメリカのファシズム」について講演したことに言及している。
それら講演の題目が、自己反駁的であるとされていることは、明らかである。
ロンの意見を聞き、私のものを読んで、あなた自身で判断できるけれども。
この体制がアメリカ市民たちを監視していることを、タイムズ紙が隠蔽していることを考えれば、
あの新聞が、アメリカ社会が警察国家に類似しているという考えを嘲りたがっていることも無理はない。

この記事の残りは、リバタリアニズムの哲学を歪曲し、
その哲学を提唱しているロンその他の者たちを悪魔扱いする試みである。

 

タイムズ紙のほうが自分たちの見解と相性がいい一握りのリバタリアンたちが、
このような好機をとらえて、ミーゼス研究所に向かって人差し指を振っている。
もしも、我々が、仲良く遊んで、彼らが行っているように、
「政治的に正しい」決まり文句すべてに細心の注意を払ってさえいたら、
ニューヨーク・タイムズ紙の記者たちのような道理をわきまえた人たちは、
我々を放っておいてくれたであろうにとか。
我々は、ニューヨーク・タイムズ紙に対して、我々と共有している目標を達成するという仕事は、
リバタリアニズムの接近法のほうが、より良く行うということを、示す必要があるだけだとか。

そのようなことを信じるほど惑わされている者は、
国家とそのメディア弁解者の本質について何も理解していないのだ。

タイムズ紙は、誰の利益のほうに献身していると思う?
リバタリアニズムの運動の利益か、それとも、国家の利益か?
この問いは、自答している。
そこで、我々は、非難の向きを変えてもよい。
もしも、あなたが、国家にとって、それほどの脅威なのであれば、
なぜ、そのメディアが、あなたを無視したり、あなたを実際に褒めそやしたり、
もしかしたら、他のリバタリアンたちが従って生きるべき模範として、
あなたを挙げることすら行うのか?
もしも、タイムズ紙が、あなたをリバタリアニズムの運動の代表にしたがれば、
それは、突然、リバタリアニズムに本心から興味を持ったからだと思うか?

国家メディアの攻撃の背後にあるのが、常に、戦争と平和という論点である。
保守主義者たちは、いわゆる「リベラル・メディア」が、この体制の戦争に反対していて、
「我々の軍隊を放棄」したがっているんだと、思い違いしてきた。
それとは反対に、公式メディアほど、合衆国政府の侵略行為を、
大きく一貫して応援しているチアリーダーたちは見つかるまい。
彼らは、戦争国家に徹底的に反対している者に出くわせば、
それが、ロン・ポールであれ、ミーゼス研究所であれ、彼らは急襲する。

そのうえ、ミーゼス研究所は、国家の利益が、リバタリアニズムの解決策によって、
より効率的に満たされるんだと、国家を説得する政策レポートは出さない。
そのようにして、何億ドルが、便所に流されてきたのだ。
それが、どれだけ成し遂げたのかを知りたければ、周囲を見回すがいい。



他方、ミーゼス研究所の学問は、国家が代表している支配と搾取のパラダイム全体を、
理解して転覆させることを目指している。
いいや、我々は、仲良く遊ばない。
我々は、ありのままの真実を告げる。
なぜ国家メディアが我々を執念深い敵と考えているのかを説明しているのが、
他ならぬ、そのことなのである。

我々が行っていることは、誰でも自由に調査できる。
我々の年次学術会議、我々の学生と時事の会議、我々が世界が利用できるようにした無料の本、
専門的な経済学および通俗的な話題についての音声と映像のファイルの大収蔵、
我々の日刊記事、ミーゼス・ビューでの定期的な解説、他にもたくさん。



もしも、あなたが、国家の目的が達成されて人々が搾取される、
より良い、より有効な方法を考案しようとしている、
国家のための効率専門家を探しているのなら、
ミーゼス研究所には、がっかりするだろう。
もしも、あなたが興味を持っているのが、「税制改革」ならば、
我々は、あなたが気に入るものではない。
それは、常に、ちょっとばかり外面上の課税形態が変わっても、
徴収税額は同じままか、それどころか上がるという誤魔化しだ。

他方、我々は、我々に推奨するものをたくさん持っている。
我々は、国家メディアに中傷される時には、後退しないし詫びない。
我々は、それを我々が我々の仕事を行っている印として楽しむ。
我々は、国家についての真実を告げる。
その戦争、その没収、その軍隊化警察、そのプロパガンダ。



我々は、国家が公共善を追求している公共サービス機関であるという、
小学校のプロパガンダを請け売りしない。
我々は、文明の優れた生産物は、実際には、文明そのものが、
人間の自発的な協業の結果であると信じている。
国家機構で権力のレバーを握っている寄生階級は、人間の進歩が、
中央計画と暴力の脅し、すなわち国家の特質であるものの功績だと、
信じるよう公衆に条件付けを行うかもしれないが、
我々の学問は、その反対が真実であることを示す。



ロン・ポールは、1982年に我々が開設以来、特別顧問であったし、
彼は、最近、我々の理事会に加わった。
タイムズ紙と国家は、彼らがロンを憎んでいるのと同じ理由で我々を憎んでいる。
我々は、真実の語り手である。
我々は、ケインズ主義と連邦準備制度の一切合切に反対である。
我々は、国家の戦争に反対する平和の主張を支持する。
これは、国家の社内報には、あまりに荷が重すぎる。
途方もなく馬鹿げていて印刷できない戦争プロパガンダや、
あまりにも乱用しすぎて繰り返して言えないケインズ主義の弁明は、
めったに聞いたことがなかったのだ。

我々が攻撃されているのは、我々が我々の仕事を行っているからである。
タイムズ紙による中傷は、我々の胸に掛けられたメダルである。


 






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