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純粋なリバタリアニズムこそ現実的


2016年1月3日、ロン・ポール、「純粋主義こそ現実的」

 Ron Paul

福祉と戦争の国家の改革ではなく廃止を唱える者たちは、しばしば「非現実的」であると非難される。
最も厳しい批判は、自由(リバティー)の回復に向けた本物の進歩の機会を、
「純粋主義」の提唱者たちが見送ってしまうのだと主張するリバタリアンたちからも来る。
それらの批判家たちは、純粋主義の立場を一貫して精力的に前進させることが
リバタリアンたちにとって極めて重要である、たくさんの理由を把握し損ねている。

第一にして最も重要なのは、真実を知る者たちは、真実を語る道徳上の義務があることだ。
対外政策、国内政策、特に金融政策での抜本的な変更の必要性を理解している人たちは、
少しいじくることが我々の問題を解決するなどと主張すべきでない。
そう主張する者たちは、約束破りの政治家同様、民衆に嘘をつく罪を犯しているのだ。
嘘をつくことによって自由(リバティー)を前進させようとする試みは、
不道徳であるだけでなく、失敗する運命にある欠陥的戦略でもある。

政府による介入によって引き起こされる市場の歪みを取り除かない「改革」の避けられざる失敗は、
自由(フリーダム)の哲学とその提唱者たち両方ともの信用を傷つけるために用いられるのだ。
その結果は、さらなる福祉、さらなる戦争、さらなる法定不換紙幣への高まる支持である。
従って、自由(リバティー)を蝕んでいるのは、
非現実的な純粋主義者として中傷されている者たちではなく、
我々の問題の根本的原因を論じるのを避ける者たちである。

例えば、オバマケアに反対する多くの者たちが、本当の自由市場の医療を提唱することを拒む。
その代わりに提案するのが、様々な形の「軽量版オバマケア」だ。
医療において政府が大きな役割を果たすべきだという前提を譲ることによって、
軽量版オバマケアの提案者たちは、オバマケアを直す方法は政府に
さらなる権限を与えることによると言う者たちの立場を強めている。
そうして、うかつにも、軽量版オバマケアの支持者たちは、
医療を社会主義化する大義を推進しているのである。
オバマケアが、より悪いものに取って変わることのない確実な唯一の方法が、
おずおずせずに本当の自由市場の医療を促進することである。

これは、リバタリアンたちは移行的な方策を退けるべきだと言っているのではない。
漸進的な移行は、大規模な社会的経済的な混乱を引き起こすことなく
自由(リバティー)を達成する最良の方法である。
しかしながら、実際に我々を正しい方法に動かす妥協を承諾するのみでなければならない。
そこで、我々は、支出を80%増やす「のみ」の妥協的予算は退けるべきである。
一方、実際に支出を20%削減する予算ならば、前に進む好ましい一歩となろう。

しばしばとして、極端な立場と言われるものを提唱する者たちが、
政治上の議論の中心を純粋なリバタリアニズムの立場に近づけることが出来る。
それは実際に、自由に向かう小さくとも本物の措置を取る可能性を増すことが出来る。
さらに重要なのは、我々が決して本物の自由(リバティー)を達成しない最も確実な方法が、
リバタリアンたちが自由社会を擁護することに尻込みすることだ。

時たま、イデオロギー上の運動は、
昨日の「非主流」の思想を今日の「主流」の立場に変えることが出来る。
かなりの数の州たちが医療用ならびに娯楽用すらも大麻を合法化したり、
大部分の州たちが市民たちに銃器を公然と携行することを許す法律を可決するとは、
ほんの数年前には思いもよらなかった。
これらの論点が成功したのは、突然の世論の変化によるのではなく、
原則に基づいた提唱者たち活動家たちによる何年もの努力によるのだ。

自由(リバティー)の運動に参加している増え続ける数のアメリカ人たちは、
福祉と戦争の国家を「改革」することに興味を持っているのではない。
「規則に基づく」金融政策によって連邦準備制度を「直す」ことに興味を持っているのでもない。
そうではなく、この運動が尽くしているのは、連邦準備制度を監査し、それから廃止すること、
そして、経済を運営し世界を運営し我々の生活を運営しようとする政府の試みを阻止することだ。
もしも、この運動が、その原則を妥協することを退ければ、
我々の生涯のうちに我々が自由(リバティー)、平和、繁栄の社会を回復する成功もあり得よう。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-725.html

2011年8月1日、トーマス・ディロレンゾ、「我々は福祉が欲しい!、我々はインフレが欲しい!」

 Thomas J. DiLorenzo

政府界隈「リバタリアン」たちの何人かが、
最近、ウェブ上で、マリー・ロスバードのことを罵ることによって、
必死のぱっちで擁護してきたミルトン・フリードマンに関係している、
主な政策上の考えが二つある。
彼らは、ロスバードの著作が、爆発的な人気を得ているのに、
彼らの模範たるフリードマンが、ほとんど忘れられていることに、恐怖しているようだ。
フリードマンは、「負の所得税」、すなわち、
福祉寄生者たちに納税者のお金を配ることを唱えたことで知られている。
彼は、連邦準備制度について、あらゆる批判を行ったが、
連邦準備制度が絶えずお金を創り出すことを保証する、
「金融規則」を唱えたインフレ主義者でもあった。
そして、フリードマンは、すべての「私立」学校たちを政府が管理することを保証する、
スクール「バウチャー」のために、納税者から略奪することも唱えた。
大統領に立候補したロン・ポールの集会で、大学の学生たち数千人による、
「連邦準備制度を廃止せよ」(End the Fed)の自生的爆発に対して、
学生たちが、「バウチャー!、バウチャー!、バウチャーをくれ!」とか、
「福祉ねだりに現金を払え!、福祉ねだりに現金を払え!」とか声を上げる、
同様の集会を想像できるだろうか。
それは、あまり鼓舞するようには思われない。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-776.html

2012年2月3日、ピーター・シフ、The Financial Survival Radio Network

 Peter Schiff

政府が劇的に縮小されなければ、我々が失ったような暮らしは、二度と取り戻せません。

もしも、引き続き、我々が、この国を
規制、税金、さまざまな形の政府の干渉に陥らせたら。
こっちには補助金、あっちには税額控除と。
我々が、政府(ワシントン)から、細かいことまで経済を管理させている限り、
経済が、機能しなくなります。

我々が、かつてほど生産的でないのは、政府が邪魔し続けているからです。
我々が、この形勢を変えて、より小さな政府、より少ない規制、
より少ない税金、健全貨幣に戻らねばなりません。
しかし、現在、我々は、その方法に向いてすらいません。

最終的に、我々に危機があった後に、もしかしたら、
正しいことを行うよう政治家たちを駆り立てるかもしれません。
現在は、駆り立てるものがありません。
彼らは、先延ばし出来るなら、先延ばしします。
しかし、いったん、危機が起これば。
それでも、それは、彼らが正しいことを知っているという前提です。
彼らの多くは、分かっていませんから。
だからこそ、我々は、正しい人たちを就任させなければならないのです。
その人たちが、危機を防ぐからではなく、さらなる悪化を防ぐからです。

今までのところ、我々は、危機があるたびに、景気刺激策で悪化させてきましたから。
しかし、我々は、それを行える力を使い果たしつつあります。
刺激策が、さらにさらに効果を失っています、さらに問題を大きくしながら。
それは、麻薬に対する耐性を形成しているようなものです。
ある時点で、体が、それに慣れちゃって。
今、我々は、とてもたくさんの刺激策を取り入れました。
我々は、過量摂取の段階にあると思います。

我々は、真剣な変更を行わなければならなくなりますが、
危険なのは、我々が、間違った方向に動くことです。
危険なのは、我々が、その危機を受けて、それを資本主義の拒絶に用いることです。
この惨事を見てよと。
我々は、十分な規制を持っていなかったんだと。
貪欲な経営者たちが、多すぎるんだと。
我々が、完全に経済を統制しなければならないと。
すべてを政府の手に置かねばならないと。
政府が、みんなの面倒を見るんだと。
みんなの雇用を確保するために、政府が必要なんだと。
誰が何を生産するのか、政府が決定しなければならないと。
もしも、我々が、その方向に進んだら、おしまいです。
我々は、ソ連になって、何世代も沈滞します。

しかし、もしも、我々が、正しいことを行えば。
もしも、この政府を投げ捨てて、再び資本主義を受け入れたら。
こんなに滅茶苦茶になっているのは、政府が関与しすぎているせいなのですから。
これは、政府の干渉が、うまく行かないこと、
政府の計画は、うまく行かないことを証明しています。
我々は、19世紀の自由市場資本主義に戻る必要があるのです。
もしも、我々が、それを行って、健全貨幣と小さな政府を持てば、
我々は、明るい未来を持つのです。
もしも、我々が、反対のことを行えば、それは、寒々しいものになります。
ある時点で、我々は、正しいことを行うかもしれませんがね。
我々が、それを生きて見ることは、無いかもしれません。
我々の孫たちが、この合衆国政府を打倒する革命を起して、
自由(フリーダム)を取り戻すかもしれません、ハハハ。
でも、私は、そんなに長くかからないことを願っています。

ロン・ポールが、目に触れる機会が最も多いオーストリア経済学の提唱者です。
大統領選の討論会に参加していますから、多くの人々が見ています。
彼は、大学のキャンパスで、多くの若者たちに人気があります。
それで、彼が、オーストリア経済学のメッセージを広めています。

不動産バブルの破裂、あらゆる経済問題によって、人々が関心を持っていると思います。
特に、オーストリア派その他の者たちが、予測していましたから。
オーストリア派たちが、ますます信頼性を得ています。
残念ながら、主流では、そうではありませんが、より賢い人たちは、自分で調べてます。
インターネットに行けば、みんなが書いていますから、分かります。
自分たちの問題、問題の本質、どんな結果になるのかを
理解していたのは、みんな、オーストリア派だと。
それ以外の者たちは、皆、間違っていると。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-78.html

2008年4月15日、ロン・ポール、連邦議会議事堂前



私たちにとって、税金が、ものすごい負担であるということです。
それなのに、この連邦議会の建物のなかに入ると、
税金を少なくしようという意見は、あまり聞かれません。
実際、皆さんは、少数派なのです。
なんとも残念なことです。

なぜなら、アメリカ国民の大部分が、やはり、税金が好きだからです。
自分自身に課せられた税金には、文句を言うかもしれませんが、
いつも考えていることは、政府の歳入が、もっと必要だ、
税金が、もっと必要だということのようです。
なぜなら、政府に、あれこれしてもらいたいと考えているからです。

しかし、税金、課税という邪悪は、第一の邪悪に次ぐものです。
その第一の邪悪は、政府が、お金を支配して采配を振るい、お金を使っていることです。
政府が支出していることが、問題なのです。
税金制度は、この本当の問題が表面に現れ出た病気症状です。

私たちは、より小さな政府の方向へ動かしたいのです。
さらに大きな政府の方向へではありません。

今、私たちにとって、大きく有利に働いているのは、
アメリカ国民の大部分が、政府に、あれこれしてもらおうと望んでいて、
他のみんなに税金をかけるのをやめようと考えていないとしても、
もう、このシステム自体が、動かなくなっていることです。

もう、時間も猶予も使い果たしました。
なぜなら、すでに課税しすぎていますし、すでに借金しすぎていますし、
通貨膨張(インフレ)しすぎているからです。
これを続けることは出来ないのです。
大国、大帝国は、財政が原因で終焉をむかえるのです。

彼らは、どうやって、経済を改善し、うまく管理しようかという話をしていますが、
政府による、さらなる管理は、私たちには必要ありません。
私たちの邪魔にならないように、私たちは、政府をどかしたいのです。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-385.html

2009年4月15日、ロン・ポール、茶会(ティー・パーティー)、テキサス州クリアーレイク



私が、これに初めて関わるようになってから、長い時間が経ちました。
実際、第22選挙区に居たのが、1970年代で、1974年に初めて立候補しました。
1974年に初めて立候補した時の、私の政策綱領にあったものが、
連邦準備制度を始末するぞ!でした。

それからずっと、私たちは、それに近づいていっています。
時が来ています。
私たちが、監査法を可決するのです。
そうしようという意見が大きくなっています。

1930年代に、彼らは、我々に自由がありすぎたから、資本主義でやりすぎたから、
金本位制だから、それが、大恐慌を引き起こしたんだと主張しました。
大恐慌は、連邦準備制度によって引き起こされたというのが、真実です。
そして、こんにち、彼らが、金(ゴールド)のせいに出来ないのは、
私たちが、金本位制でやっていないからです。
1971年以来、紙幣(ペーパー)本位制でやっているからです。
彼らは、誰のせいにしようか、その者たちを探そうというのなら、
連邦準備制度、そして、この紙幣(ペーパー)本位制のせいにしなければいけません。

こうなっているのは、憲法を無視しているからなのです。
私たちに必要な、すべての規則、規制は、
私たちが、憲法と呼んでいる、この小さな本の中に書かれています。
私たちは、それに従う必要があります。

通貨の破壊の特徴が見られます。
通貨を破壊すれば、物価が上昇し、皆さんが経済的困難に直面するのです。
貧しい者たち、中産階級の者たちから、富める者たちに富を移しているのです。
それが、まさしく起こっていることです。
私は、金融システムの崩壊の後ですら、
彼らが、この富の移し替えをやり続けていけるとは思いませんでした。
それが、まさしく彼らがやっていることです。
彼らは、自分たちのお仲間を救済しているのです。

彼らがやっていることは、犯罪です。
彼らが、通貨制度を管理していますが、それは、通貨偽造と詐欺に基づいているのです。

この国の建国者たちは、通貨制度については、とても断固たる態度をとっていました。
無利子の政府紙幣(bills of credit)を発行させはしないと。
紙幣ではなく、金貨(ゴールド)と銀貨(シルバー)のみが、お金(マネー)であるべきだと。

1792年に、最初の貨幣法が定められました。
通貨偽造の刑罰は、死刑でした。
通貨偽造に対して、どれほどの強い思いだったかということです。
それが、今、私たちは、通貨偽造を合法化しています。
私たちも、死刑を適用するべきだと、今、私が言うべきなのかどうかは分かりませんが。(笑)
しかし、これがどれほど重要なことであるかということです。

彼らがやっていること、彼らが、どうやって、ウォール街にいる自分たちのお友達、
外国にいる海外のお友達の面倒を見ているのか、彼らが関わっているすべての悪さが、
いったん、あばかれるや、連邦準備制度を廃止する仕事が、
もっとずっと簡単になることだけは確かです。



まさしく憲法が書かれた時から、大きな議論だったのです。
ジェファソンが望んだのは、硬いお金(ハード・マネー)で、中央銀行は無しでした。
ハミルトンが望んだのは、中央銀行と柔らかいお金(ソフト・マネー)でした。
それをめぐって争いがありました。
彼らが、合衆国銀行(ナショナル・バンク)を設立しました。
ジェファソンが、第一合衆国銀行を始末しました。
アンドリュー・ジャクソンが、第二合衆国銀行を始末しました。
今こそ、私たちが、第三の、最大の国法銀行(ナショナル・バンク)たちを始末するべき時です。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-897.html

2013年6月2日、トーマス・ディロレンゾ、The Daily Bell

 Thomas J. DiLorenzo

リンカーン神話が、アメリカの国家統制主義のイデオロギー上の礎石です。
「人気の無いリンカーン氏、最も罵られたアメリカの大統領」と題された、
歴史家のラリー・タッグによる優れた本によれば、
彼は、実際には、すべてのアメリカの大統領たちの中で、その生涯で最も憎まれた者でした。
暗殺されてほしいという願いを、ニューヨーク・タイムズが社説にしたほど、
彼は、北部で憎まれていました。
これは、まったく理解できることです。
彼は、ヘイビアス・コーパス(人身保護令状)を不法にも停止しました。
そして、デュー・プロセス(適正手続)無しで、
北部の政治批判者たちを何万人も刑務所に入れました。
反対する300以上の新聞たちを閉鎖しました。
南部を侵略することによって、反逆罪を犯しました。
(憲法第三章第三節が、反逆罪を「諸州に対して戦争を始めること」
 または「その敵たちに援助および便宜を与えること」と定義しているが、
 もちろん、それが、まさしく、リンカーンが行ったことである。)
彼は、1863年に、ニューヨーク・シティーの徴兵抗議者たち何百人を殺して徴兵制を敷いて、
彼の軍隊からの脱走者たちを大量に死刑にしました。
彼は、議会にいる批判者たちを国外追放にしましたし、
銃器を没収しましたし、最高裁判所長官に逮捕令状を出しました。
その法学者が、法律上、議会のみが、
ヘイビアス・コーパス(人身保護令状)を停止できるという意見を述べた時にです。
彼は、この二年間に発表された新しい研究によれば、
85万人ものアメリカ人たちの死という結果になった不必要な戦争を遂行しました。
それは、こんにちの人口を基準にすれば、
四年間の戦争で、850万人のアメリカ人の死に相当します。

リンカーンは、共和党によって神格化されました。
その戦後半世紀、政府を独占した党です。
ピューリッツァー賞を受賞した小説家ロバート・ペン・ウォーレンが、
彼の本「南北戦争の遺産」の中で書きました。
いかに凶悪で帝国主義的であろうと、これまでに行ったことを何でも「正当化」するために、
アメリカ国家によって解釈された(そして、されている)「偽りの美徳」のイデオロギーを、
この神話集が創り出したと。
もしも、この「偽りの美徳」を信じるのなら、
それが、また、「アメリカ例外主義」のスローガンで通っているものですが、
リンカーンと彼の戦争についての真実は「忘れられなければならないのだ」と。

リンカーンは、国家主義者であり、帝国主義者でした。
彼は、アレグザンダー・ハミルトンの政治的息子でした。
大衆を犠牲にして金持ちのエリートたちに仕える政府を唱えた者です。
それゆえに、生涯にわたり、保護貿易主義の関税、企業福祉、
そのすべてに資金供給する中央銀行の擁護。
それは、前の世紀には、「重商主義」と呼ばれていたものであり、
アメリカの入植者たちが革命で戦った、まさしく、そのシステムでした。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-469.html

2009年9月14日、バラク・オバマ、フェデラル・ホール

  

共和国の草創期、ハミルトンとジェファソンが、若い経済をどう治め、
国民(ピープル)の才能と活力に、我々の国が、どう報いるべきなのか、
議論を交わしたのも、ここでした。
二世紀後、その問い、危機に際し深刻さを増すその問いに、我々は、今も取り組んでいます。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-469.html

2009年9月11日、911真実抗議、フェデラル・ホール

 


No! NWO
新世界秩序(ニュー・ワールド・オーダー)反対!

 

Ene the Fed!
連邦準備制度を廃止せよ!


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-524.html

2009年12月16日、ロン・ポール、Fox Business



 Michael O’Rourke

ベン・バーナンキがやったことは、伝統的に中央銀行が実施していることです。
アレグザンダー・ハミルトンは、初代財務長官として、
ベン・バーナンキがやったのと同じことをたくさんしました。
では、ハミルトンにも問題があるということですか?


 Ron Paul

はい、もちろんです。
私なら、ジェファソンの側についていたでしょうから。
最初の中央銀行、第一合衆国銀行、それは、ハミルトンですが、
私は、それを廃止したジェファソンの側の主張をしていたでしょう。
ですから、そうです、すべて、ハミルトンから始まりました。
しかし、憲法は、今でも、ジェファソン側です。
私たちは、中央銀行を持ってはならなかったのです。
中央銀行に、権限はありません。
金(ゴールド)と銀(シルバー)だけが、法定通貨になれます。
私たちは、こうした財政赤字、こうした借入を増やしていてはいけないのです。
私たちは、お金を借りることすら出来なくなって、お金を刷っています。
狂っています。


 Gregg Jarrett

もしも、その会社たち、銀行たちが、救済されなかったら、
我々は、何か、世界経済を、いちじるしく損ない、
おそらく、景気後退ではなく、大恐慌を引き起こすものを見ていたのではないですか?


 Ron Paul

そうなっていただろうと、あなたは前提されていますが。
1930年代のように、私たちは、苦痛を長引かせているのです。

まさしく間違ったことをやっています。
大恐慌の時にやったことです。
それでは、私たちの問題は解決されません。
ですから、なにも成功していないと、私は思います。
患者が、私のところに来て、麻薬中毒で禁断症状が出ているというのに似ています。
お安い御用です、治せますと。
ほら、麻薬の注射をしてあげますよと。
患者は、気分良くなって出ていきますよ。
しかし、問題は、そのままなのです。
それが、私たちが目をそむけているものだと思います。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-571.html

2010年4月15日、ロン・ポール、Tax Day Tea Party、ワシントンD.C.

 

連邦準備制度を廃止するぞ、国税庁もろともに!!!
1913年のものを廃止しましょう。
そうすれば、私たちは、皆、暮らし良くなります。

いろいろな意味で、税金というのは、現れ出た症状にすぎません。
私たちが支払っている税金は、暴走する政府から現れ出た症状なのです。
そして、それが、問題なのです。
政府が、こんなにも大きく、制御不能になるのを、私たちが許してきたという事実。

私が、税金について確信していること。
税金は、実際に、盗みであり、人々(ピープル)から盗んでいると、私は信じています。

この国で、良いことが起こっています。
予算は、まったく、ひどいです。
議会は、まったく、ひどいです。
彼らは、支出して、一瞬たりとも、ためらいません。
しかし、この国で起こっている良いことがあります。
皆さんが、その一員です。

人々(ピープル)が、ついに目覚めたのです。
自分たちが声をあげたら、影響があるかもしれないことに、やっと気づきました。
ワシントン(中央政府)が、人々に応えないのは、人々が、基本的に静かだからです。
そして、うるさくしていたのが、ロビイストでした。
施し物、彼らは、ものが欲しいのです。
でも、これが、すべて終わっていきます。
こうした、皆さんの負担で、ものを受け取ることになっている者たちですら、
これは、あまり長くは続かないと気づいていますから。
私たちは、この国を破産させています。
それゆえに、大転換が必要です。

しかし、私たちがしなければならないのは、適切な質問を尋ねることです。
第一の質問は、政府の役割とは、何であるべきか。
すると、みんなが言います。
これやって、あれやって、医療の面倒をみてと。
私が言うのは、それよりも、もっとずっと簡単なものです。
政府の役割は、私たちの自由(リバティーズ)を守ることです。

もしも、私たちが、私たちの自由を守れば、
自由な人々(フリー・ピープル)が、自分たち自身の面倒をみれるのです。
こうした税金すべて、規制すべて、政府の統制すべてと、不必要な戦争を取り除くのです。
自由の目的は、自由な人々が、創造的になれるように、
私たちに必要な創造的エネルギーを解き放つことが出来るようにすること。
長所や美点を得ようと懸命に努力できるようにすることです。
それが、人生というものです。

しかし、政府が、その役割を引き受けて、
我々が、お前たちを、より良い人間にするんだと、
どう生きるべきか、お前たち個人の人生を、どう営むか命じるんだと、
または、我々が、お前たちの経済力を取り上げて、
お前たちのお金を、どう使うべきか命じるんだと言う時、
政府は、自由(リバティー)を犠牲にして、それをやるのです。

 

そして、もちろん、損なわれるのが、この国の繁栄です。
この国は、本当に破産しています。
中産階級のアメリカ人の生活水準は、10年の間、低下しています。
それが、すぐさま上昇するということはありません。私たちが、気づくまでは。
我が国の予算を抑制し、政府を抑制し、健全貨幣にしなければならないと。
そうして、私たちが、連邦準備制度を廃止するぞと。

ヘイ!


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-644.html

2010年12月3日、ロン・ポール、RT

 

限界があるのです。
市場が制限をかけるのです。
政治ではありません。
彼らは、これを管理できると考えますが、それは出来ないのです。
最後には、人々が、ドルに対する信頼を失います。

どのように、このシステムが機能しているのか。
大銀行たち、大企業たちが、フィアット(政府がお金を命じる)体制から利益を得ます。
だから、彼らは、これが好きなのです。
軍産複合体は、これが好きです。
銀行業システムは、これが好きです。
実際、政治家たちも、これが好きなのです。
彼らも、これに参加しているからです。
政治家たちは、何十年、彼らは、自分の選挙区に必要だと思ったものには、
どんなものにでも賛成票を入れてきたのです。
財政赤字は、たいした問題じゃないのだと。

税金を上げますが、ちょっと高すぎます。
お金を借りますが、実際には難しく、金利が上がります。
だから、私たちは、連邦準備制度に行くのです。
すると、連邦準備制度が、お金を刷ります。
金利を低く保ち、配り続けるのです。
それで、このシステムは、大勢の人々によって是認されています。
しばらくは、うまく行きました。
街の平均的な人々も、間接的に、利益を得ました。
しかし、いざとなれば、大物たちが、救済を手に入れるのです。

私たち(議会)が、市場から出て、支出を削減しなければなりません。
それで、人々が、お金を手に出来るのです。
しかし、連邦準備制度が入ってくると、彼らは、バブル、誤投資の継続が可能になります。
だから、彼らは、信用(クレジット)を創り出すのです。

もしも、市場が機能できるようにすれば、合図は存在するのです。
ずっと早くに、(財政赤字は)止まるのです。
連邦準備制度に債務をマネタイズ(貨幣化)させてはなりません。


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1956年、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、「反資本主義の精神構造」

 Ludwig von Mises

野蛮の奴隷となるのを防げるものは、ただ、
レッセフェール(為すに任せよ)の資本主義を公然と無制限に支持することである。


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1992年10月9日、マリー・ロスバード、「オーストリア学派の現在の状態」

 Murray Rothbard

1974年以来、オーストリア学派の経済学に起こったことの一部は、避けられざるものだった。
経済学者たち、研究者たち、寄稿の数が増し、繁茂するにつれて、
間違いと偽りの先導と脇道の急増があるはずである。
それは、ある意味では、科学の歴史において、健全な発展であるが、
定期的に、その下やぶを払い、がらくたを一掃する矯正力が存在する場合に限る。

正しいオーストリア学派のパラダイムであり、になれるのは、ミーゼス主義のみである。
つまり、ミーゼス主義の人間行為学のパラダイムである。
それが、私の主張である。

運動としての現代オーストリア学派の復活の歴史を論じて、以下で見ていくが、
様々な理由で、ミーゼス主義のパラダイムが、ほとんど全く放棄され忘れられていた。
しかし、今、それは、オーストリア学派の経済学の中で、
よみがえり、急速に優勢となり、勝利してもいる。
そして、危うく間に合った。


2016年1月7日、ルー・ロックウェル、「マリー」

 Lew Rockwell

21年前の今日、マリー・N・ロスバードは亡くなった。
彼の妻ジョーイからの衝撃的な電話は、起こったばかりのことのごとく思い出す。
それでも、それ以来、マリーの偉大さは、オーストリア派の経済学者、アメリカの歴史家、
リバタリアニズムの哲学者および戦略家として大きくなるばかりだ。
ミーゼス研究所ならびに、その世界中の子供たち、とても多くの学者たち、学生たち、
民衆向けの知識人たち、このウェブサイト(www.lewrockwell.com)が、
彼の仕事を継続すべく努めている。
敵意ある富裕者支配の政府ならびに彼らに雇われた者たちがいようとも、
この世界クラスの天才が、ついに報いられている。
彼の偉大な魂よ、安らかなれ。


2016年1月7日、デイヴィッド・ゴードン、「マリー・ロスバード」

 David Gordon

今日は、マリー・ロスバードが1995年に亡くなった記念日である。
その知らせを聞いたことは、ありありと覚えている。
それは、私の人生における最も悲しい日の一つであったから。
マリーは、知識の幅において、知力の鋭敏さにおいて、
これまでに私が会ったうちで最も優れた学者であった。
しかし、私にとって、彼は、それ以上だった。
私は、彼を第二の父と見なした。
彼を軽視しようとする彼の敵たちの努力にもかかわらず、
1995年以来の年々、ますます学生たちは、彼の偉大さを認めるようになった。
「あのような人にはもう二度と会えないだろう」。




Purism is Practical
written by ron paul
sunday january 3, 2016

Those who advocate ending, instead of reforming, the welfare-warfare state are often accused of being “impractical.” Some of the harshest criticisms come from libertarians who claim that advocates of “purism” forgo opportunities to make real progress toward restoring liberty. These critics fail to grasp the numerous reasons why it is crucial for libertarians to consistently and vigorously advance the purist position.

First, and most important, those who know the truth have a moral obligation to speak the truth. People who understand the need for drastic changes in foreign, domestic, and, especially, monetary policy should not pretend that a little tinkering will fix our problems. Those who do so are just as guilty of lying to the public as is a promise-breaking politician. Attempting to advance liberty by lying is not just immoral; it is also a flawed strategy that is doomed to fail.

The inevitable failure of “reforms” that do not eliminate the market distortions caused by government intervention will be used to discredit both the freedom philosophy and its advocates. The result will be increased support for more welfare, more warfare, and more fiat money. Thus, those who avoid discussing the root causes of our problems, not those they smear as impractical purists, are the ones undermining liberty.

For example, many Obamacare opponents refuse to advocate for true free-market health care. Instead, they propose various forms of “Obamacare lite.” By ceding the premise that government should play a major role in health care, proponents of Obamacare lite strengthen the position of those who say the way to fix Obamacare is by giving government more power. Thus, Obamacare lite supporters are inadvertently advancing the cause of socialized medicine. The only way to ensure that Obamacare is not replaced by something worse is to unapologetically promote true free-market health care.

This is not to suggest libertarians should reject transitional measures. A gradual transition is the best way to achieve liberty without causing massive social and economic disruptions. However, we must only settle for compromises that actually move us in the right direction. So we should reject a compromise budget that “only” increases spending by 80 percent. In contrast, a budget that actually reduces spending by 20 percent would be a positive step forward.

Those who advocate a so-called extreme position can often move the center of political debate closer to the pure libertarian position. This can actually increase the likelihood of taking real, if small, steps toward liberty. More importantly, the best way to ensure that we never achieve real liberty is for libertarians to shy away from making the case for the free society.

Sometimes ideological movements are able to turn yesterday’s “fringe” ideas into today’s “mainstream” position. Just a few years ago it was inconceivable that a significant number of states would legalize medical, and even recreational, marijuana or that a majority of states would have passed laws allowing citizens to openly carry firearms. The success of these issues is not due to sudden changes in public opinion, but to years of hard work by principled advocates and activists.

The ever-growing number of Americans who are joining the liberty movement are not interested in “reforming” the welfare-warfare state. They also have no interest in “fixing" the Federal Reserve via “rules-based” monetary policy. Instead, this movement is dedicated to auditing, then ending, the Fed and stopping the government from trying to run the economy, run the world, and run our lives. If this movement refuses to compromise its principles, we may succeed in restoring a society of liberty, peace, and prosperity in our lifetimes.





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すごい粉砕


2015年9月11日、ハンス・ハーマン・ホップ、財産と自由のソサイエティー・第10回年次会合

 

2015年は、彼が亡くなって20年です。
マリー・ロスバードは、ある意味、私にとっては、私の人生を鼓舞した最大のものであり、
彼がいなければ、私が、ここで、このようなことに取り組むことも、決してなかったでしょう。


 

財産と自由のソサイエティーのプログラムの記述を読まれたら、
このイベント全体を鼓舞している人たちとして明確に私が言及している、
二人の人たちがいることに気づかれるでしょう。
その二人の人たちは、私の知的発展と人生における最も重要な二人の人たちでもあります。

一方が、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスです。
私は、会ったことがありません。
彼の名前は知っていましたが、
1971年に亡くなる以前に何か読んだこともありませんでした。

しかし、私は、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの最も重要な生徒に会う幸運に恵まれました。
それが、マリー・ロスバードでした。

ラルフ・レイコは、我々の古い友人であり、歴史家であり、ハイエクの生徒であり。
シカゴ大学での論文が、ハイエクの下で。
若者として、ミーゼスに会った彼が、ミーゼスについて言ったことが、要するに。
若者として、ミーゼスに会った者は誰でも、こう思うだろうと。
コロンビア、シカゴ、イェール、ハーバード、プリンストン、主要な大学にいる、
他の教授たちは、皆、ミーゼスに比べたら、ほんの冗談でしかないと。

そして、私は、マリー・ロスバードに会った者は誰でも、
同様に思うだろうと、自信を持って言えます。
この人間が行い得たこと、この人間が代表したものに比べたら、
合衆国にいる他の教授は、すべて、まったく冗談にすぎないと。


 

最後の十年間、私は、彼の副官であり、ボディーガードであり、ヘルパーでした。
ほとんど毎日、彼と接していました。
ですから、最後の十年間の研究室生活においては、
おそらく他の誰よりも、私は、よく彼を知るようになっていたと思います。
私ほど彼と接した人は誰もいませんでした。


 

マリーは、ユダヤ人の生い立ちで、
彼の両親は、ポーランドとロシア出身で、
彼は、マンハッタンで育ちました。
基本的に生活すべて、マンハッタンで生きました。
彼は、少しばかり、ウディ・アレンのように見えました。
同じく、明らかに似ていたのが、キッシンジャーでした。
かつて、彼が、イタリアに旅行して、帰ってきて私に語ったのが。

ねえ、ハンス、私に何が起こったか。
レストランで座っている時に、誰かが私に近づいてきて言った。
ヘンリー・キッシンジャーさんですかと。

そして、彼は、かなり愕然としてました。
もしも、ウディ・アレンのように見えると言われたのなら、それは受け入れたと。
しかし、ヘンリー・キッシンジャーとの比較は、あまり彼を喜ばせませんでした。


 

この現代リバタリアンたちの間で、また多くのサークルたちにおいても、
その間、ロスバードは嫌われていました。
なぜなら、彼は、もちろん、文化的には保守主義の人でしたから。
そして、リバタリアニズムの運動は、いろんな意味で、
文化マルクス主義になってしまっていました。
ヒッピーの生き方、そんなのが、本当に根本的な問いよりも重要なのだと。

しかし、私が言及すべき最後のことが、これです。
ロスバードがいなければ、ロン・ポールも存在しなかったでしょう。
ロン・ポールは、自分の思想全体をミーゼスとロスバードに負うています。
そして、ロン・ポールは、合衆国で大統領選に立候補しました。
わずかな可能性もあるとは決して思わずに。

しかし、もちろん、彼は、これを民衆に広める上で大きな仕事をしました。
我々が行っていることを知っているのが、たぶん何万、何十万の人たちだった時に、
オーストリア派経済学やリバタリアニズムのようなものが存在するということを、
突然に何百万の人たちが知るということを、ロン・ポールが可能にしました。
しかし、その背後にいた頭脳なくしては、ロン・ポールは存在しなかったでしょう。
それが、マリー・ロスバードでした。


 

チャールズ・マリーとリチャード・ハーンスタインの「ベル・カーブ」本についても、
もちろん、マリー・ロスバードは、書評を書きました。
とても好意的な書評でした。
そして、実際、フィリップ・ラシュトンのほうがずっと良いと指摘しました。
それで、こういうことも、現今、多くのリバタリアンのサークルたちにおいて、
彼を不人気にしていますね。
なぜなら、ロスバードの興味は莫大であって、彼が興味を持たない分野はなく、
チャールズ・マリーとハーンスタインの本を支持することに、
わずかな躊躇もありませんでしたから。


 

ユダヤ人家族の中で育ち、親戚はすべてユダヤ人でも、
彼は、ユダヤ教には非常に懐疑的であり、反シオニストでした。
ですから、彼は、もちろん、合衆国では、「自己嫌悪のユダヤ人」と評されました。

そこで、ミーゼスも、反シオニストでしたし、
ですから、ミーゼスも「自己嫌悪のユダヤ人」でした。
ちょうど、ポール・ゴットフリードが「自己嫌悪のユダヤ人」であるように。


彼は、修正主義の歴史に興味を持っていました。
彼の歴史の行い方は、探偵の仕事のようでした。
お金を追え、です。
それが、行わなければならない最も重要なことです。
それは、追求している問題に対する正確な答えを与えないかもしれませんが、
それが、どの探偵物語でも、どの探偵も行うことです。
動機を探し、どこへ、お金は行ったのかと。
そして、彼は、コンピューターの前の時代に、グーグルとかの前の時代に、
お金を追って、ある特定の活動に責任がある人たちを突きとめることに長けていました。

ある法律が可決されました。
その法律で誰が得をし、その法律で誰が損をするのか、明白です。


歴史においては、問いは、決して十分には答えられません。
歴史は、論理的な演繹こそが大切である政治哲学や経済学とは異なる学問分野です。
歴史においては、それは、もちろん、事実、状況、そういったものですから、
歴史的な問いということになれば、常に、未決問題が存在します。
それに対して、政治哲学の分野と、理論経済学の分野においては、議論を殺すことが出来ます。
おしまいだと。
いったん証明が提示されたら、もはや、言えることは何もありません。
そして、ロスバードは、優れた哲学者でもありましたし、
一方において理論、他方において全く異なる学問分野としての歴史、
その間の違いをもちろん彼は知っていました。


 

彼は、我々の昼食時、次は誰を粉砕すべきかについて話す時も、大いに楽しみました。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-892.html

1982年8月、マリー・ロスバード、第一回世界リバタリアン大会、チューリッヒ

 

リバタリアニズムは、素晴らしい、真なる、公正な政治哲学についての知的熟考であるのみならず。
美しい理想、組織的攻撃の無い世界という理想、調和の、自由(フリーダム)の、繁栄の、
自由市場での自発的な活動を通した相互協力の世界についての美的熟考であるばかりでなく。
これは、もちろん、そのすべてです。
そもそも、我々が、リバタリアンになるのは、
リバタリアニズムの真善美と、いわゆる恋に落ちるからですから。
しかし、我々、リバタリアンたちは、正義を熟考し、
真善美を熟考することに満足しているのではないと、私には思えます。
我々は、知的なゲームを行っているのではありません。
我々は、この世界を変えるつもりです。
我々は、これを実現したいのです。

少なくとも、私の視点において、鍵となる問い。
権利に基づくリバタリアンたち対、功利に基づくリバタリアンたちの間で、
いつも起こっている内部的議論への。
あなたは、あなたの自由(リバティー)に対する信念を、
功利と効率に基づかせるのか、道徳原則と人権に基づかせるのか。

我々が、自由(リバティー)に賛成し、抑圧に反対しているのは、
自由(リバティー)の道徳性と正義を、そして、国家統制主義の不道徳性と犯罪性を、
強く熱烈に信じているからです。

私は、リバタリアンたちは、何よりも正義を要求する種類の人たちでなければならないと思います。
そして、もちろん、それは、幸いにも、たいてい、功利主義の経済学と沿いますが、
いつもではありません。

幸いなことに、合衆国では、少数の暗愚なフリードマン主義の経済学者たちは別にして、
効率の道を取るリバタリアンたちは、ほとんどいないと思います。
ほとんどのリバタリアンたちは、権利に基づく、正義に基づく、リバタリアンたちです。
功利主義の経済学者たちは、常に、リバタリアニズムの原則に例外を設けるというのが、一つ。
道徳性に基づくリバタリアンは、例外を設けません。
妥協することなく、一貫しています。


1984年9月19日、ロン・ポール、下院本会議場

 

権力の消滅が、自由(リバティー)を愛する者たちの目標です。

我々の建国の時代以来、議会に来て、
自由(フリーダム)の主張を擁護したことで記憶されている者は、ほとんどいません。
これは、傾きつつある国の兆候であり、
自由(フリーダム)に対する尊重が薄れつつあることを示しています。

私が望める最大のことが、私が提案したことが、いつの日か、思い出されることです。
討論が、異なる水準へと移ることです。
どのような形の干渉や計画を政府が課すべきかと問うのではなく、
おそらく、いつの日か、議会は、干渉-対-不干渉、政府-対-自発的計画、
合衆国の主権-対-国際主義、つまり、真の自由(リバティー)についての賛否を討論するでしょう。
今日では、討論は、基本的に、誰が犠牲者になり、誰が受益者になるのか、
決めるというものでしかありません。
特別利益団体たちによって画策される政治システムの手順をめぐる討論の時間が、
より重要な、この自由(フリーダム)についての討論へと、取って代わられることを私は望みます。
その討論が欠如していることが、私の最大の失望です。

我々は、我々の50万人の選挙民を代表しておりますが、
悲しいかな、我々のほとんどが信じたがっているほどには、
個々の議員たちは重要でないということに、私は気づきました。
権力の糸を操っているエリートの少数者たちが、立法過程で実際に重要な唯一の者たちなのです。

施策が膨張していること、そして、超過支出、赤字、貨幣的インフレが、
自由社会に対する致命的脅威であることを、指摘することが極めて重要だと、
私は、我々が直面してる問題の深刻さゆえに信じています。

赤字は、支出の結果であり、
それは、中央集権化された当局の手に引き寄せられている権力の量について、
何らかを我々に語っているのです。
赤字が増すほど、国家の権力も増します。
それに応じて、個人の自由(フリーダム)が減少します。

相当な数の経営者たちが、自分たちの競争者たちに対しては自由市場の厳格さを、
そして、自分たち自身には、社会主義/ファシズムを要求します。

経済上の干渉主義が、経済における、これら矛盾すべての原因です。
一般の福祉を犠牲にして強力な特別利益団体たちによって支配される政府の計画を、
拒否することが必要であり不可避でもあるのです。
このシステムが、それ自身の重みで倒壊しますから。
残る問いは、特別利益団体たちすべてと法定不換紙幣を拒否して、
これが、自由市場の正確な哲学に取り替えられるのか、
それとも、社会主義の哲学に取り替えられるのかです。
その時が来る時、選択は難しくないはずですが、
自由(フリーダム)を愛する者たちは、自己満足や楽観主義なわけがありません。

矛盾は、すべて、我々の周りにありますが、
それらは、もっと基本的な問題の現れ出たものでしかありません。
それらの問題は、一般的なものもあれば、特殊的なものもありますが、
すべては、この国の知識人たちが抱いている、まさしくイデオロギーの結果なのです。
そのことを理解することが、急務です。
我々が陥っている国家統制主義への流れを逆転するつもりならば。

概して、我々の政府の役人たちは、経済上での干渉主義、
個人たちに対する干渉的管理、我々の財産権に対する軽視、
干渉主義の外交政策を支持し続けています。
個人たちに自由(リバティー)、国内的にも国際的にも、市場たちに自由(フリーダム)、
健全貨幣、強さに基づく戦略的独立の外交政策という思想は、
我々の国の指導者たちには、もはや広く支持されてはいません。
それでも、それらの政策に対する多くのアメリカ人たちによる支持は存在しています。
現在の対立は、どちらの考えが優勢になるのかをめぐっています。

権利が、ある集団の利益のために、また別の集団から財とサービスを抜き取るために、
政府の強制力を利用する特別利益団体たちの要求にすぎなくなってしまっています。
人が幸福を追求する上で国家の干渉に悩ませられない、
生命と自由(リバティー)に対する人の自然権という道徳上の概念が、
ワシントンでは、ほとんど不在です。
不注意にも、議会が、自分たちの措置を指図する際に、
「個人の自由(リバティー)」の上位として「公共の利益」という概念を受け入れています。
しかし、「公共」は不明瞭であり、その定義は、
誰が、どの特別利益団体が、それを定義するかによって異なります。
ある個人の利益のために、また別の個人を犠牲にする言い訳として、
それは利用されているにすぎません。
多数派による専制が、今や現実であり、
平等な権利という概念に対する我々の最大の脅威です。

誰による、とりわけ政府による、力の開始も存在してはならないという、
自由社会の基本的な前提を侵害することを、
自由(リバティー)に対する軽視が政府に許しているのです。
暴力の開始者に対する個人的、国民的自衛のための力の使用が、
道徳的な自由社会における唯一適切な使用です。
残念ながら、ワシントンでは、ことごとく、この前提が退けられています。
理解されてさえいません。
その結果として、我々は、道徳的でも自由でもない社会を持っています。

政府は人々に自らの意に反して行動するよう強制してはならないという考えを退けていることが、
議会に経済的、社会的な中央計画者の役割を担うよう促します。
政府が、あらゆることに用いられています。
農業に補助金を出すことからタクシーの独占権を保護することまで。
食料補助券の配給から医療まで。
労働価格の取り決めからガソリン価格の取り決めまで。
結果は、意図されたことに反して、常に同じです。
無秩序、混乱、非能率、追加費用、行列。

住宅や失業の問題に支出するほど、住宅と失業の問題は悪化します。
経済の中央計画は、その背後に善意があろうと関わりなく、
常に失敗するという証明は、我々の手に入ります。
我々が、それを無視し続けていることは、悲劇です。

強力で裕福な特別利益団体たちを満足させるための我々の干渉と御節介焼きが、
敵対的雰囲気を生み出してしまいました。
ますます大きくなる非能率的な我々の政府官僚機構によって分配される、
縮みゆく経済的パイを求める悪辣な闘争。
地方階級、人種、年齢、性別の論争が、国民を分裂させます。
中央計画が機能するという考えを我々が退けるまで、
おそらく、これは悪化するでしょう。

残念ながら、経済的平等主義が、ほとんどの議会の立法の目標を引き継いでしまいました。
達成される平等は、どれも、皆の生活水準の引き上げるのではなく、
それを平らにする、すなわち、引き下げることによって生じます。
自発的な契約の神聖、そして、市民に対して力を開始する政府に対して存在するべき禁止を、
無視することによって、それは達成されます。
もしも、我々が、オーウェル風の国家に向かう傾向を逆転するつもりならば、
この考えは、退けられなければなりません。

こんにち、政府が、蔓延的に暴力を永続させています。

裁判所、訴訟費用、政府の逮捕、政府の銃、長期懲役が、
我々の自由(リバティー)に対する永続的侵害に、
おとなしく服従する個人たちの社会を創り出しました。
このすべてが、「社会善」、「安定」、「譲歩」、「現状維持」、「公共の利益」の名において。
今や、国税庁、環境保護庁、その他の省庁たちが、銃を携行しています。
自由に生きる我々の権利に対する、このような侵害を見れば、
植民者たちは、うんざりしたことでしょう。
彼らは、銃を携行する常備軍について不満を言ったのです。
我々は、今、銃を携行する常備官僚を持っています。

こんにち、政府は、人々を抑圧するために用いることの出来る大規模な権力を蓄積しています。
我々は、お互いに富を盗むような行為は不道徳であり非良心的であると宣言していて、
個人として我々自身で行うことは夢にも思わないことを、
行う権力を我々の政府に与えるのは、どうなのでしょうか?
もしも、自由の国の主権が、人々の手に保持されているなら、
人々が自分たち自身で行える以上に、今や国家が行えるというのは、どうなのでしょうか?
我々の人々の生活、経済を計画し、世界中で御節介を焼くことが、
政府の役割を自由(リバティー)の保証者から自由(リバティー)の破壊者へと変えます。

政治システムと我々の政策の本質ゆえに、
我々の問題は、範囲が国際的になってしまっています。

この国の財政問題は、我々の赤字と国内金融政策に明らかに結びついていますが、
IMF、世界銀行、開発銀行たちによって推進されている国際的な銀行業計画と切り離せません。
いかに我々の銀行政策、金融政策が、我々の外交政策に密接に結びついていて、
アメリカの主権も、我々の市民たちの自由(リバティー)も、
守ることに動機付けのない者たちに支配されているか、
七年間ワシントンにいて、私にとって今ますます明らかになっています。
必ずしも、彼らが、我々の自由(フリーダム)を、
故意に破壊したがっているということではありませんが、
彼らは、国際主義と世界的インフレに重点を置いています。
すなわち、強力なエリートたちに役立つ政府と金融のシステムです。

外交政策が正しく、貨幣が健全で、貿易が自由で、
自由(リバティー)に対する尊重が広まっている時、
強い経済と平和が展開する可能性が高いです。
軍備競争、そして、敵国たちと富裕な同盟国たちに資金拠出することは、
軍産複合体を通して我々の税金が掻き回される熱情に寄与するのみです。

我々は、自由(フリーダム)と繁栄か、専制と貧困か、選択しなければなりません。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-759.html

1987年10月27日、ロン・ポール、The National Press Club

 

共和党に、その倫理的基礎は、何だと、もしくは、民主党に、党にとっての、
自らの信念にとっての倫理的基礎は、何だと尋ねたら、何も答えはありません。
なぜなら、彼らは、倫理的基礎を持っていませんから。
彼らは、人々にとって状況を良くして、問題を解決することについて語ります。
しかし、党にとっての基本的な倫理的基準が何もありません。

私たちの党は、二つの基本となる前提で始めます。
一つが、個人は、別の個人および別の個人の財産を害する権利を持っていないということ。
したがって、盗み、強盗、損害することも、別の人の財産を取ることも、
汚い仕事をするために政府を送り込むことも、してはなりません。

リバタリアン党の基本となる倫理的基礎の、もう一つのものが、
機能する社会にとっての鍵が、契約は、自発的であること。
契約の際に、強要は無し。
そして、政府は、契約を規制することには、従事しない。
政府は、契約が破られて、必要な時にのみ、その事柄に入ることが出来る。
ですから、この二つです。
自律主義(ボランタリズム)、政府の邪魔の無い自発的な契約と、
他人を害することも、他人の財産を盗むことも、してはならないという絶対的規則です。

私たちは、この二つの原則を取って、すべてにわたって適用し、
これに基づいて、私たちの行うことを擁護します。
建国の父たちの中に、これの歴史的な先例があることは、確かです。
こんにち、私たちは、私たち自身をアメリカの伝統を維持する騎手であると考えています。

これは、真新しいものではありません。
これは、古代の歴史に後戻りさせるものではありません。
実際、自由(フリーダム)を学べば、
自由(フリーダム)が、かなり近代的な考えだと分かります。
アメリカ的な意味においては、ほんの数百歳です。
それが、試され、ものすごい実験があって、とても成功しました。
しかしながら、自由(フリーダム)と個人主義についての確信が、
20世紀に減退してしまいました。

それが理由で、私たちは、困ったことになっています。
だから、この国は、困ったことになっているのです。
だから、アメリカ国民は、起こっていることに、とても苛立っているのです。

20世紀に起こった最も重大なことは、諸権利の概念、個人の諸権利の棄却です。
こんにちでは、要求が、権利になっています。
自分自身の生命に対する男女の権利を正確に定義するのではなく、
必要なものが、権利になっています。

誰かが、何かを必要としたり、何かを欲しがったり、
世界のどこかに関与しなければならない気持ちに駆り立てられる時には、いつでも、
我々には、そうする権利があるのだと、関与する権利があるのだと、解釈されています。
それは、軽率です。

これが起こる時には、大きな政府を持つことになります。
政府が、成長せざるを得ません。
なぜなら、個人たちが、放っておいてもらえず、
自由市場が許すようには、決定を行い経済を動かすことが、許されないからです。

私たちは、大きな政府が、成長しなければならず、
その際には、二つのうち、どちらかの選択肢を受け入れなければなりません。
ファシズムか共産主義の方式の社会主義か、それとも、干渉主義かです。
私たちの政府が、走り回る業者、特権の分配者になって。
それが、私たちの持っているものです。
私たちは、社会主義は持ちませんでしたが、大規模な政府を持ちました。

今で、40年、50年です。
結局、略奪品は、消費されます。
資本は、消費されます。
国民は、貧しくなります。
私たちは、インフレ、マネーサプライのインフレで生きなければならず。
富を消費するばかりでなく、偽りの幻想の繁栄。
債務で暮らすばかりでなく、国の富を使い尽くし。
それは、未来の世代に、その債務の転嫁です。
それは、そんなに長くは、続けられないだけでなく、
それから、そのバブルが、破裂しなければなりません。
それは、終わらざるを得ません。
なぜなら、もしも、まさしく、富を創造させている社会要素を保存しないのであれば、
富を消費しなければならず、そんなに長く、進み続けられませんから。
それから、危機に突入します。
その時に、私たちは、自由(フリーダム)の思想を活性化させて、
生産性が戻ってこれるようにするのか、
それとも、人々と社会を規制する昔ながらの方式に戻るのかです。
それが、政府による、個人の諸権利の侵害。
それが、私たちが進み入っている方向です。

私たちが、私たちの方向を変えなければ、アメリカ国民の貧困化です。

経済の点から言えば、長年にわたって、私たちが、
非自由市場原理を受け入れてきたという意味です。

こんにちの状況では、人々は、政府が何かを行うことを要求します。
政治家たちは、もちろん、自分たち自身、何か行うことを要求します。
そして、こんにち、私たちがワシントンに持っている政治家どもの集団が、
間違ったことを行うことは、請け合えます。

彼らが、マネー・サプライをインフレさせます。
それは、先週、アラン・グリーンスパンによって、保証されました。
それが、この問題の原因であるのに!
そうですとも、麻薬中毒者に、もう一服、与えて、気分良くなりますよ。
禁断症状が出ているのですから。
でも、それは、その患者を殺すことになります。

私たちは、さらに政府施策を増やすつもりですか、それとも、減らすつもりですか。
私たちは、さらに増やすでしょう。
私たちは、さらなる財政赤字になるでしょう。
私たちが、自由(フリーダム)の思想を受け入れない限り。
私たちが、リバタリアニズムの原則に目を向けない限り。
私たちは、引き続き、着実に、下降すると予想できます。

この答えが、大きな政府でないことだけは、確かです。
この答えは、個人の自由(フリーダム)というリバタリアニズムの代替案にあるのです。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-699.html

1988年8月14日、ロン・ポール、C-SPAN

 

いつの日か、私たちは、リバタリアンの大統領を持たねばなりません。
さもなければ、この国で、私たちは、自由(フリーダム)を持てません。
それが、リバタリアンとして、私たちが強く感じていることです。

しかし、それは、私たち次第です。
私たちが、リバタリアニズムの哲学とは、いったい何なのかということに、
アメリカ国民を目覚めさせることが出来るのかが、私たちの挑戦ですが、
しかし、私の考えでは、それが、絶対的に必要なことなのです。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-629.html

1990年7月、マリー・ロスバード、ミーゼス大学

 

ミーゼスが言い続けていたのは、
経営者たち、一般市民たちに講義し続けることを忘れてはならないと。

ミーゼスが本当に強調していたこと。
彼は、人々が歴史を変える。
思想が歴史を変える。
人々は意識的な行為者である。
彼らの意思決定が出来事を決定すると信じていましたから。

学者たち、哲学者たち、経済学者たちだけでなく、
すべての一般市民たち、経営者たち、誰もが、
自由市場の重要性を理解することが、とても重要です。
自由市場を損なうことは、文字通りの意味で、死であると。

大仰な学術論文に達するだけでなく、同じく重要なことは、
自由市場とレッセフェール(為すに任せよ)の基本的な真実、
そして、集産主義(コレクティビズム)と干渉主義の邪悪を、
一般市民たち、企業たちに広めること、それが、とても重要です。
それが、重要な点です。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-629.html

1995年、ロン・ポール、「マリー・N・ロスバードを追悼して」

 Ron Paul

アメリカは、その最も偉大な人間の一人を失い、
自由(フリーダム)の運動は、その最も偉大なヒーローの一人を失った。
すなわち、マリー・N・ロスバードである。

彼の個人的な模範は言うまでもなく、彼の25冊の本と何千の論説において、
マリーは、鼓舞するものだった。
個人の権利を大事にし、福祉-戦争国家に反対する者たち皆が、
彼の死で、貧しき者なり。

マリーは、世界クラスのオーストリア派経済学者だった。
そして、彼は、何千の生徒たちに影響を与えた。
私は、そのうちの一人である。
彼が、私に経済学と自由(リバティー)について教え、
戦争、インフレ、大きな政府に反対する私の政治上の仕事を励ましたのだから。

私は、長年、マリーのものを読んでいたが、1979年まで彼に会ったことはなかった。
私は、彼に手紙を書き、彼が、返事を書いてくれた。
私は、「獣の腹」、合衆国議会へと彼を招待した。
私は、彼が偉大な知能の持ち主であることは知っていたが、
私が発見したのは、尊大な教授ではなく、楽しいリバタリアンだった。
これまでに私が会った最も魅力的な人間の一人だった。

地に足がついた、この天才と話すのが、私は大好きだった。
そして、彼は、自分の本を読むだけでなく、それらを、
自らの投票と立法の際の指針として用いている議員に会うのが楽しいと私に語った。
親密で長く続いた友情は、その結果であり、難しくはなかった。
マリーは、人間のうちで最も甘美で、最も愉快で、最も寛大な人だった。

彼は、合衆国金委員会の少数派報告書でも大変に助けてくれた。
「金(ゴールド)擁護論」として出版された。
しかし、誰が驚くことがあろう。
彼は、金本位制の歴史と経済学について学問上の我々の最大の専門家だった。

私が、彼の早すぎる死の数日前、マリーと最後に話した時、
彼は私に再び議員に立候補するよう促した。
断固として国家統制主義に反対する者の声が我々の側に必要だと彼は言った。

現代リバタリアニズムの創始者であり、
途方もない業績を持つ、経済学者、歴史家、政治哲学者だった、
マリーは、ディキシーランド・ジャズ、ルネッサンスの宗教画、
バスケットボール、バロック教会建築、政治の実情も大好きで、専門家だった。
彼は、生への、戦いへの、途方もない熱意を持って、
我々の自由(フリーダム)と我々の財産を擁護し、それらの基礎である思想を築いた。

彼は、ユダヤ人であり、信仰の人ではなかったけれども、キリスト教が大好きだった。
彼は、神学と教会史の専門家でもあった。
そして、それを西洋文明で良いもののほとんどすべての源として見た。

マリー・N・ロスバードは、今、時代のために。
私の心は、彼の41年間の妻であるジョーイに、そして、我々皆に赴く。
我々は、自由(フリーダム)の無比の擁護者を失ってしまった。
しかし、私は、マリー自身には何も心配していない。
主なる神は、ご自身のことをご存じである。


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1997年、ロン・ポール、Conservative Roundtable

 

実際、私は、知りたかったのだと思います。
机の上に、すべての証拠を置いて、
いったい、私が、どういう議員だったか、
正確に知ってもらって、再選されるのかどうかを。

いつも皆を喜ばすことは出来ません。
しかし、もしも、しっかりと信条を堅持したら、
大勢の人々を喜ばせることが出来るかもしれません。
彼は、真実を語っているぞと。
そのこと自体が、有利にします。
私たちは、誰も、完全に同意見ということはないのですから。
しかし、少なくとも、どういう立場なのか、どう議場で投票するのかが、人々に分かります。
保守主義者やリバタリアンを名乗らない人たちも、票を入れてくれるのです。
なぜなら、他の人を信頼していないからです。
私は、おそらく、それが、こうした選挙での政治的困難を乗り越える最良の方法だと思います。

私は、教育が、長期的には最も重要なものだと確信しています。
しかし、私たちの誰かが、議会にいることで、
いくらか、教育のためになることを達成できます。
注目を引くことは、とても重要な点になります。

最も衝撃的なことが、時々、デジャブ(既視感)みたいであること、
またやり直しであることだと思います。
同じ議論をやっているのです。
残念ながら、何度も繰り返しの相変わらずのものです。

私に効果があるとおっしゃいましたが、
それが、いっつも、彼らが、私に対して、使う言葉なのです。
ロン・ポールは、何も良いことはありませんよ。
彼は、効果がないからです。
彼は、票の取引の能力がありません。
どうやって、我々のものを手に入れますか。
我々は、ものが欲しいのだからと、ハハハ。


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1997年2月25日、ロン・ポール、下院本会議場



私たちの福祉国家が、今、破産しています。
今、17兆ドル以上と見積もられている将来の約束は、私たちには、果たせません。
私たちは、いつか、この事実を認めなければなりません。
この過程を続けるための課税に、十分な数の若き犠牲者たちが残っていないのです。
ポールに支払うために、ペーターから強奪するのを続けることで、よろめき進んでいます。
これは、しばらくは、さらに続けられますが、
結局、借り入れ、課税、通貨膨張では足りないことを認めざるを得なくなります。

過去60年にわたって遂行されてきたこの技法が、
富と繁栄の真の源泉としての労働、生産、貯蓄、投資に取って代わることは出来ません。
政府には、富を創り出す能力は無いのです。

やはり、さらに同じことを続けても、生産性と貯蓄の問題には対処できません。
良い経済政策と健全な政治理論のみが、それを行えます。

ドルの金(ゴールド)との最後の繋がりを切断することで、
連邦準備制度が債務をマネタイズ(貨幣化)するのを抑制するものを取り除いたことが、
議会の赤字支出に都合良く便宜を図りました。
福祉国家に常に伴わざるを得ない付きものの資金供給の破綻を先延ばしする必要があったのです。

財政赤字の問題は、会計問題よりも、ずっと大きなものです。
帳尻を合わせたり、そうするふりをすることは、特別利益団体たちの利益のために、
多数決で操作される福祉国家に付きものの問題を解決することはありません。
税の変更、予算の妥協、借り入れ、通貨膨張は、
すべて、しなびていく福祉国家のための時間稼ぎの手伝いです。

アメリカのような裕福な国は、この種の調整で、長い間、生き延びることが出来ます。
自由(フリーダム)が、大いなる繁栄と信頼を創り出すのです。
私たちの信用は、いまなお良く、ドルは、信頼されていて、
いまなお、再分配する富が、たくさんあります。
やはり、多くのアメリカ人たちが、政府の善行の約束のために、
さらに多くの自分たちの自由(フリーダム)を犠牲にしようとしていますが、
裕福な国々ですら、もしも、自分たちの生産的な能力を妨げ続けたら、破産します。

政府の施策が存在しない、完全な自立と個人の責任という概念は、
ほとんどのアメリカ人たちにとって、なじみがありません。

お金の信頼が失われる時、危機が来ます。
信頼は、徐々に浸食されるかもしれませんが、劇的な変化も起こるでしょう。

外国の中央銀行たちは、今のところ、私たちの膨らまされたドルを吸収する気があって、
私たちは、私たちの通貨膨張(インフレ)を輸出して、稼ぎを超えた暮らしが出来ます。
彼らは、私たちが、彼らの製品を買う必要があって、そうしています。
彼ら自身の経済が、国内的に弱いからです。
しかし、彼らは、私たちの紙(ペーパー)と引き換えに、
私たちに商品を売って裕福になることは出来ません。

アメリカ・ドルに与えられた信頼の素晴らしい幻想は、
私たちが現在稼いでいる何にも遙かにまさる生活水準を、私たちに可能にしています。
それは、実に良い取引ですが、私たちが確信できることは、
私たちの中央銀行の貨幣管理者たちは、それを変えることを何もしませんが、
経済法則が、それを変えるということです。
いつなのかが、唯一の問いです。

1971年以来、私たちのお金に、私たちは、何も基準を持っていません。
ドルは、世界の準備通貨の役割をしていますが、
それは、アメリカ人たち皆を大きな危険に晒して、そうしているのです。
定義が無く、秘密の中央銀行が際限なく創り出す貨幣単位は、
ある日、世界の金融システムを大混乱に陥れます。
時が経てば、分かります。

革命を盗んだ20世紀に優勢な道徳原理は、単純に言えば、
政府は、社会的、経済的変化をもたらすために、
強制力の恣意的な使用が認められたのです。

このことの完全な意味を知ることが、醜悪な考えを暴露します。
こんにちの課税、支出、規制、没収、軍国化、嫌がらせ、警察、指図、管理支配、
借り入れ、通貨膨張、道徳教化、お節介の施策を許しているのが、その思想です。
私たちの生活のあらゆる側面を政府に統合しています。
もちろん、すべて、良いことを行うという名の下に行われています。

たくさんの良き意図が、私たちの破産にまで、私たちを連れてきましたが、
さらなる良き意図が、政府の詐欺で不道徳な原理を隠すことは出来ません。
福祉主義の攻撃的な本質が、ありのまま暴露されねばなりません。
福祉国家が崩壊する時に何を為すべきなのかという問いに、
もしも、答えるつもりがあるならばです。
税法を通じて行えば、盗みは善行なのだという主張が、
こんにちの差し迫る危機に、私たちを連れてきたのです。
福祉の本質について、より明快な道徳上の理解が、浮上せねばなりません。

悪い思想は、良い意図によって、価値あるものに出来はしないのです。
干渉主義の実用主義(プラグマティズム)は、
憲法が私たちに与える法の支配に取って代わることは出来ないのです。
もう一度、この文書に浸透している、政府権力の制限が、尊重されねばなりません。

良い意図が、大なる害を為しているのです。
それは、反対を軟化させ、その提案を人道主義的に見せるからです。

計画には、政府の銃に裏付けられた、政府の強制力を必要とします。
そして、まさにその本質によって、非能率的で、無駄で、不正を繁殖させ、怒りを促進するのです。
ロビー活動と選挙運動の改革が、利益相反の問題を解決することはありません。
それは、悪事を働く者たちを地下に追いやるのみです。
政治の腐敗で本当の問題は、政府が、私たちの経済生活のあらゆる側面に、
こんなにも大きな権力と影響力を持っていて、
政府の役人たちに影響を及ぼすことが、割に合うことなのです。

私たちは、自由社会に生きたいのであれば、
政府について異なる哲学に、再び取り組まざるを得なくなるのです。
破産した福祉国家を永続させるには、それを支払う見込み無しに、
私たちの生活水準の浸食が続き、さらなる、さらなる権威主義を必要とします。
迫り来る金融危機が、静かに立ち去ることはありません。

政府の役割は、個人たちが、他者の権利を侵害する時に、暴力を抑制することです。
それは、強奪したり、殺害したり、契約を破ったりしてはいけないという意味です。
行動を型に入れて形成したり、経済を規制することは、
たとえ、良い動機であっても、自由社会では許されません。
少しの社会主義、もしくは、少しの福祉は、必要だという考えで問題なのは、
いったん、福祉が依っている道徳原理が、どの程度であれ認められるや、
制限を支持する主張は、道徳において一切ありません。
政治家たちの票の取引、ロビイストたちの一流の生計が、
その制限を決めることになります。
制限は、その資金が消える時にのみ、やって来ます。
怒り、苛立ち、個人的自由の犠牲を引き起こして。

個人の自由(リバティー)を尊重する社会は、
私たちの為すあらゆることにおいて、人類が進歩を達成する最良の希望を認めるのです。
長所、美徳、幸福、霊的安寧、経済的安定、精神的満足の達成が、
自由社会でのみ利用できる自発的な手段を通して、最良に成し遂げられます。

私たちは、人民(ピープル)が、政府で確立した基本原則について合意しなければなりません。
憲法は、今、概して払いのけられていますが、
人民(ピープル)と政府の間の、その契約を規定しています。
合意が無く、不完全で、それが、本質的に、こんにちの私たちが持っているものですが、
破産が、だんだんと近づくにつれて、自分たちの要求を満たそうと、
死に物狂いで活動している特別利益団体の政府の混乱を、私たちは見ています。
富を移転する路上強盗は、道徳的には、国民が苦労して手に入れた現金を、
その人から引き離すことに慣れている国税庁の強盗に相当します。

自由(リバティー)を回復し、税金を廃止し、
私たちの創造的エネルギーを大きな政府の官僚たちから解き放ち、
自分たちの稼ぎを保持することを人々に許すことが、
人間には未知の繁栄と安全を保証するのです。
自尊心と国民の誇りが、それに続くでしょう。

 

現状(ステイタス・クオー)によって建造され、私たちに提供されたものではなく、
20世紀への自由の橋(リバティー・ブリッジ)こそ、使ってもらいたいと、私の願う橋です。
私は、他の多くの者たちと共に、自由の橋の建造のために働く計画でいます。


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2003年、ロン・ポール、テキサス州オースティン

 

彼らは、ワン・ワールド政府(世界政府)が信じているのです。
もしも、ワン・ワールド政府(世界政府)を信じていれば、
国家主権を弱めることを語りますし、
独裁体制のようなものを樹立することを語るのです。

私は、それを、陰謀として邪悪なものだというふうには、あまり見ていません。
これは、哲学上の戦いだと、私は思います。
彼らは、それを信じていて興奮しちゃうのです。
国際主義や国連を信じているのです。


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2003年9月10日、ロン・ポール、下院金融サービス委員会

  

私たちは、真の問題、私たちが直面している危機の原因に目を向けていないと思います。
私が懸念しているのは、過去数十年にわたって、私たち議会、連邦準備制度、
財務省が創り出してきた歪みに対して、世界的な調整が起ころうとしていることです。
それについて、本質的に、なんらの心配もなされていないようです。

私の最大の懸念は、議会が、真の問題に目を向けていないことです。
それは、私からすれば、この暗黙の信用(クレジット)です。
この信用(クレジット)に対する暗黙の保証です。

実際、それが、こうした市場を膨らませてきたものです。
それで、歪められているのです。

同様に、連邦準備制度が、これに、とても大きく関与しています。

中央銀行たちが、こうした証券を買っているのは、暗黙で、
連邦準備制度が救済に駆けつけるだろうということがあるからです。

今、海外の外国人たちの、こうした証券の購入が減っています。
ドルが、ちょっと弱くなっています。
彼らが、買うのをやめて、売り出したら、何が起こりますか?
ジニーメイやフレディマックを買っている私たちの投資者たちに、何が起こりますか?

私が懸念しているのは、これらのものから恐慌(パニック)が起ころうとしていることです。


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2007年11月28日、ロン・ポール、共和党大統領候補者討論会

 

CFR(外交問題評議会)は存在します。
トライラテラル・コミッション(三極委員会)も存在します。
それは、思想の「陰謀」です。
これは、イデオロギー上の戦いなのです。
グローバリズムを信奉する人もいれば、
私たちのように、国家主権を信じている人もいるのです。

北米連合に向けた動きがあります。
早くから欧州連合に向けた動きがあったようにです。
そして、それは、結局、そうなってしまいました。

それで、私たちには、NAFTA(北米自由貿易協定)がありますし、
NAFTA高速道路に向かって動いています。
それらは、現実のものです。
誰かの作り話ではありません。
それは、陰謀ではありません。
彼らは、それについて語らず、それについて認めないかもしれませんが、
それに使われてきたお金があるのです。
それを停止させるために、テキサス州議会において全会一致で可決した法案があるのです。

ですから、これは、そんなに、秘密の陰謀ではないのです。
これは、イデオロギーの間の競争なのです。
私たちが、私たちの今の制度、私たちの国家主権、私たちの憲法を信じるのか、
それとも、国際政府、さらなる国連の方向に、さらに動くつもりなのかです。

ご存じのように、この国は、国連の決議のもとで、戦争を始めています。
私は、ワシントンの大きな政府が、好きじゃありません。
それで、私は、この国際政府に向かう傾向が、好きじゃありません。
私たちには、WTOがあって、私たちの製薬産業、私たちの栄養製品を管理したがっています。
私は、それ、すべてに反対です。

しかし、それは、そんな、邪悪なる陰謀ではありません。
世の中にある知識に過ぎません。
それを探せば、私たちの国家主権が、危機に瀕していることが、お分かりになるでしょう。


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2007年12月6日、ブリンク・リンジー、「ロン・ポールのルーツ」

 


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2008年6月12日、ロン・ポール、フリーダム・ラリー(自由の集会)

 

私たちは、国連に入る必要がありません。
私たちに、IMF(国際通貨基金)は必要ありません。
私たちに、世界銀行は必要ありません。
私たちに、WTO(世界貿易機関)は必要ありません。
私たちに、NAFTA(北米自由貿易協定)もCAFTA(中米自由貿易協定)も必要ありません。
私たちに、それらの施策は必要ないのです。


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2008年9月2日、ロン・ポール、共和国集会

  

大統領として、何をしたいのかと、彼らが聞きますが、
私は、これを、そういうふうには見ていないと言いました。
私が、大統領になりたいのは、私が、したくないことがあるからです。
私は、人々(ピープル)の生活を管理したくありませんし、
経済を管理したくありませんし、世界を管理したくないと説明しました。

私には、そんなことをする権限はありませんし、
そんなことをする私の背後に、憲法がありませんと。
しかし、彼らは、それは、弱い大統領みたいだと言いました。
私は、そうは思いませんと言いました。
権力の誘惑に抵抗するには、ある強さが必要ですと。
そして、私たちには、さらなる政府の権力は必要ないのですと。

さて、今日は、素晴らしい大集会であることに、皆さん、同意されると思いますが、どうですか。
それに、いいですか、この大集会には、びたいちもん、税金を使っていません。

  

長年のうちに、政府が、どんどん力を持つようになっています。
それは、行政府だけではありません。
司法府、立法府、政府の官僚部門もです。
力が、どんどんと、個人から、州から、
ワシントンの官僚たち、政治家たちの手に引き寄せられています。
私たちが、心配しなければならないのは、それだけではありません。
さらに進んで、この力が、すべて、国際政府、
ニュー・ワールド・オーダー(新世界秩序)に、
引き寄せられていることも心配しなければなりません。
もちろん、それも逆転させなければなりません。

またひとつ、長年のうちに起こってきたこと、
自由(リバティー)の原則から、私たちを滑り出させてしまったものが、
私たちが、国として、個人が必要とするものを、
本質的に、「権利」だと、信じるようになってしまったことです。
もしも、皆さんが、必要とするもの、欲しいものがあっても、
そのことが、皆さんに、それに対する「権利」を与えはしません。

諸権利は、私たちのとても大切なものです。
それは、政府から、もたらされたのではありません。
自然なやり方、神に与えられるやり方で、もたらされたのです。
それは、あなたの生命に対する権利、そして、
あなたの自由(リバティー)に対する権利としてです。

学校制度で教わる経済学は、決して、自由市場の、オーストリア学派の、
ハード・マネー(硬貨)の経済学ではありません。
いつも、ケインズ主義の、ソフト・マネー(紙幣)の、間違った経済学です。

それだけではありません。
私たちが、公立学校で教わる歴史。
誰が、偉大な大統領ですか?
偉大な大統領は、常に、戦争を遂行した者たちだと言われます。

他に、長年のうちに起こってきたこと。
それは、愛国心とは、いったい何なのか、私たちが、混乱していることです。

初期に、アメリカの真の愛国者たちが、支持したのは、何ですか?
ときの政府なんか支持しましたか?
それなのに、こんにちでは、愛国心とは、
政府がやりたいこと何もかも支持することだと、
彼らは、皆さんに信じてもらいたいのです。
真の愛国者が守るのは、自由(リバティー)と人民(ピープル)です。

またひとつ、アメリカ国民(ピープル)が、信じるよう、そそのかされてきたのが、
もしも、自由市場システムを支持して、福祉国家を支持しないなら、
人道主義者にはなれないんだと。
まったく、馬鹿げた考え(ナンセンス)です。
もしも、本当に、同胞を大事に思い、繁栄を大事に思い、平和を大事に思うのであれば、
自由(リバティー)を大事にしなければなりません。
社会主義でも、福祉でも、コーポラティズム(政府と企業の協調主義)でもありません。

  

中央銀行に権限を与える権限は、憲法の中に存在しません。
ということは、連邦準備制度は存在してはならないのです!

(End the Fed!、連邦準備制度を廃止せよ!)

この選挙運動が始まった、18ヶ月前に、信じることが出来たでしょうか?
私には、信じられませんでした。
連邦準備制度について、何かしら理解していて、関心を持っている皆さんが存在するなんて!
素晴らしい!


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2009年1月5日、ヘンリー・キッシンジャー、CNBC

 

彼(バラク・オバマ)は、アメリカの外交政策に新たな勢いをつけることが出来ます。
それは、ひとつに、彼が、世界中で、ものすごく並外れた歓迎で受けとめられているからです。
彼の任務が、この時期において、アメリカのための戦略全体を発展させるでしょう。

本当に、ニュー・ワールド・オーダー(新世界秩序)を創り出せる時期なのです。
大きなチャンスなのです。
これは単なる危機ではないのです。


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2009年4月20日、ロン・ポール、ウェイクフォレスト大学



私は、ワシントンに行って、私自身を従来の意味での立法者とは見なしていません。
私は、大きな全体像を扱いたいです。
私は、哲学を扱いたいです。

私たちは、大きな全体像を見るべきです。
私たちは、私たちが信じるものを知って、それを擁護する主張を行うべきです。

私たちは、そのような完全な自由社会が、手に入らないかもしれません。
私は、かなり、そう確信してしますが。
しかし、私たちが、それが、どのようなものなのか知らず、
それを言葉で述べることが出来ず、それを思い描くことが出来ず、
いつも、反対側と妥協することから始めていては、
私は、それが、あまり妥協だとも思いません。
もしも、完全な自由(フリーダム)を信じていて、
完全な独裁制を信じている誰かと妥協すれば、
やはり、半分、独裁制なのですから。
私は、それには賛成しません。

思想が、私たちが扱える最も力あるものです。
政治家たちは、とても力があります。
それについては、疑いありません。
政党たちは、力のみを扱います。
彼らは、権力を得たいのです。

政策は、決して変化しません。
変化しなければいけないものは、思想です。
私たちが、この混乱に陥っているのは、ただ、そこにいた政治家たちが、
何を行うか、コインを投げるとかして決めたからではなく、
それは、イデオロギーの結果なのです。
それは、哲学の結果なのです。

ある時、ラジオ番組で、私が尋ねられたのは、
この我々が持つ悪い政治問題は、誰に最も原因があると思うかと。
全部、オバマの責任だと、私に言わせたがっていましたが、
ええ、彼は、就任三ヶ月で、私たちは、すべて彼のせいにしようとしています。
これを永続化させていることでは、私たちは、ハハハ、彼のせいにするかもしれませんが。
その時、私は、こう考えるようになりました。

 

これの最も原因となっている者は、おそらく、ケインズ、経済学者ですと。
彼が、長年にわたって、私たちに教えてきましたから。
それが、たいてい、私たちの大学で学ぶことです。
お金を支出しなければならない。
政府による規制を持たなければならない。
私たちが従っているあらゆる政策です。

これは、規制の欠如ではないですよ。
これは、ある人たちに対する規制の欠如なのです。
連邦準備制度や財務省や議会のような、
それが、私たちが規制する必要があるものです。

私たちは、私たち自身に、もう少し自信を、
自由(フリーダム)に、もう少し自信を持つ必要があります。
規則は、あるのです。
人々を害してはなりません。
人々から盗んではなりません。
財産に損害を与えてはなりません。

政府は、財産を保護するために、そこにいるべきです。
彼らは、契約を保護するために、そこにいるのです。
彼らは、健全貨幣を持つために、そこにいるのです。
そこで、私たちは、何を持っていますか?
私たちは、その全く反対のことを行っている政府を持っています。
彼らは、偽金作りをするようになりました。
彼らは、法の適正な手続き無しで、私たちの財産を奪っています。
彼らは、とことん私たちに課税しています。
彼らは、お金の価値を破壊しています。
ですから、私たちの政府は、行うことになっていることの反対のことを行っているのです。
政府は、とても明確な目的のために、そこに存在することになっています。
それが、私たちの自由(リバティー)を保護することです。

私たちが、そのメッセージを理解させることが出来たら、
この国が成功できることだけは、確かです。
私たちは、つらい時期があるでしょう。
私たちは、覚悟しなければならないでしょう。
しかしながら、現在、私たちが行う最も重要なことは、
これは、知における戦いなのですから、論点を知って、それを理解することです。
なぜ、ミーゼスが、ケインズよりも、ずっと優れた経済学者であったのかを理解することです。

私たちが、どのようにして、これらの立場を擁護するのかを知れば、
私は、私たちが、これに勝てると確信しています。
なぜなら、これは、知における戦いであって、私たちが、正しい側にいるからです。

私たちが、自由社会で、もっと幸せに暮らせるということに、私の頭の中には、疑いがありません。
私は、たとえ、私が、貧しくなっても、私の自由を大いに楽しむことも確信しています。
たとえ、自由(フリーダム)が、繁栄を減らすことになっても、
やはり、私は、私の自由(フリーダム)が欲しいです。
しかし、それは、私たちが論じる必要すらありません。
もしも、私たちが、自由(フリーダム)を支持して、
それをアメリカの伝統の中で擁護し、それを憲法とともに擁護したら、
私たちが、自由であるとともに繁栄できない理由はありません。


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2009年9月16日、ロバート・スキデルスキー、Reuters

 


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遠い昔、遥か彼方の銀河系で

  

 Palpatine

安全で安定した社会となるために。


 Keynes

さあ、大きな声で、誇らしく、今や、我々は、皆、ケインズ主義者だ。


 Padme

こうして自由(リバティー)は死んでいくのね、万雷の拍手の中で。


 

お前の訓練の完成を楽しみにしておるぞ。
やがて、お前は、私を「マスター」と呼ぶのだ。


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2010年3月8日、ロン・ポール、Newport Music Hall

 

私は、いつも、感心することがあります。
学生、その他の皆さんが、認識していることです。
オーストリア学派という経済学派が存在するということを。

(ウギャーー!!!)

それは、ケインズだの、サミュエルソンだの、ポール・クルーグマンではなく、
ミーゼスや、ハイエクや、ロスバードのような人たちのことです。

(ホギャーー!!!)


 


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2010年5月14日、ロン・ポール、「自由のための運動」地方会議、アイオワ州

 

とてもしばしば、他の議員たちが、私のところに言いに来ますから。
君が、これをして、再選されるなんて、驚きだよ。
どうやって、やってるんだいと。
しかし、今、それが、主流になっています。
私たちが、主流になってきています。
今は、行って、支出を削減し、税金を削減し、規制を削減するぞ、
もう財政赤字には反対だと公約したほうが良いのです。
これが、人気のあるものになっています。
ですから、起こっていることについては、私たちが、楽観的になれる、あらゆる理由があるのです。

まだ、ワシントンで起こっていることについてではありませんが、
ワシントンの外で、このようなグループで起こっていることについては、楽観できるのです。
なぜなら、私たちの人数が増えているからです。
そのことには、なんの疑いもありません。
そして、もちろん、何度も私は言ってきましたが、
引き続き、大学のキャンパスに行くことに熱中しています。
なぜなら、若者たちが、これに興味を持っていることは、確かですから。

先日、私は、私のオフィスから投票しに行くために歩いていました。
キャノン・ビルの外に、20人くらいの十代の子たちのグループがいました。
その何人かが、私に気づいて、その一党のリーダーみたいな子が、
実際、私のことを知っていて、熱狂的にやって来て、自己紹介しました。
彼は、とても若く見えましたが、あなたは、何才ですかと、私は尋ねました。
自分たちは、17才で、高校生だと、彼は言いました。
どうして興味を持ったのですかと、私は尋ねました。
すると、ええ、あなたの本「End the Fed」(連邦準備制度を廃止せよ)を読みましたと。
彼らは、連邦準備制度について知っていたのです。
彼らは、何が起こっているのか知っていたのです。
私が、高校生の時には、何が起こっているのかについて、
漠然とでも、まったく知識は持っていませんでした。
私は、良い成績を得ようとか、陸上競技会で勝とうとしていました。
泳いだりとか、そういうこと。
私は、政治について、何も知りませんでした。
しかし、若者たち、彼らの大勢が、本当に好意的に反応しています。
そのことについて、私たちは、とてもわくわくするはずです。

この数年間で、私を最も驚かせたのが、連邦準備制度という論点だったと思います。
私たちが、いかに、多くの注目を得たかです。
それが、長い長い間、私を駆り立てる動機となっていたものです。
それが、1971年の出来事でした。
オーストリア派経済学者たちが、ブレトンウッズ協定は、
存続できない、存続しない、崩壊すると予測していました。
あの時より前に、私は、ヘンリー・ハズリットを読んでいたことを覚えています。
彼は、著名な新聞記者(ジャーナリスト)でした。
ブレトンウッズが設立された1944年に、彼が、それがうまく行くことはないと言いました。
そして、それが、1971年に崩壊した時、どれほど状況が悪いかという、いわば確証でした。

しかし、その時、私は、引きつけられて思いました。
うわぁ、これについて話す必要がある、これは、重要なことだと。
それで、私は、それについて語り始めて、名ばかりの選挙戦をして。
唯一、私が、数人、話を聞く人たちを得られる場所だと思って、それを政治的にやったのです。
そして、始めは、数人の人たちしかいませんでした、ハハハ、長い長い間。
この長い間、文字通り、何十年間は、それは、論点になりませんでした。
ごく最近まで、それは、論点ではなかったのです。
私は、いくつかのものが、一緒にやって来たと思います。
この論点に注意を呼び掛けたことを、大統領選挙運動に、ちょっと手柄を与える人たちもいます。
一部、それもありますが、これには、それ以上のものがあります。

ひとつは、全国で、ミーゼス研究所のような場所で、
オーストリア派経済学の明敏な教育が行われていたことだと思います。
世の中で、トム・ウッズ(トーマス・ウッズ)のような教師たち、
その他の人たちが、人々に届いています。
それが、この土台を築いてきました。
しかし、それから、その上に、経済崩壊が来たのです。
金融危機が襲いました。
彼らは、ワシントンで、それを認めようとしませんが、
これが、予測できる出来事であったことを、他の多くの人たちが認めました。

なんとも、私を苛立たせるのは、彼らが、
これが、どうして起こったのかを調べる、また別の委員会を設けたからです。
彼らは、それを、1930年代に行いました。
それは、ペコラ委員会と呼ばれていました。
これを、第二ペコラ委員会と呼ぶ人たちもいます。
彼らは、釣り合いを取るために、そこには、共和党員と民主党員がいます。
しかし、彼らは、釣り合いを取っていませんよ。
その委員会にいるのは、皆、ケインズ主義者か、社会主義者か、共産主義者なのですから。
これが来るのを分かっていて、それを予測していて、
それを理解していた人たちを呼んで話をしません。

それにもかかわらず、情報が世に出て行っています。
人々が、目覚めていて、もう一つの選択肢があることを知っています。

私たちは、まだ、この最悪の部分は見ていません。
これは、どこかへ消えてしまう話ではありません。
しかし、私たちは、どのようにして、これを解決するのか、私たちは、どうするのか。
この部屋にいる私たちは、何をしなければならないのかは、分かっていると思います。
今、それを、どのように達成するのか。
そして、そこに、私たちは、とても関わっています。
私にとっては、それは、たくさんの教育、引き続き教育。
教育が、おそらく、最も重要なことであると思います。
私たちのなかには、自由市場経済学の教育と理解を得て、
それを政治的な大衆運動に移したいと思っている方々もいます。
実際的なやり方で、これを人々に理解してもらうのです。

私は、それが、この「自由のための運動」の仕事だと思います。
教育的であるとともに、党派的な政治にも関わる組織です。
私が、長年、これをやってきて、政治に興味が無いとは、誰も言えないわけですが、
やはり、私は、教育が、最高の位置にあると言っています。
なぜなら、広まった考え方、思想が、世界を一変させるのですから。

1930年代以来、共和党になろうが、民主党になろうが、たいした問題じゃなかったのですから。
ええ、ちょっとは、こちら、ちょっとは、あちらと。
しかし、実際に、ケインズ主義の経済学や、連邦準備制度、
所得税の廃止について、人々の考え方に変化がありましたか?
ですから、私たちが、この混乱を片付ける時、これが広まると思います。

 

もう、私たちが望まないものを、とてもとても明確にさせましょうよ。
連邦準備制度なんか望まない。
国税庁なんか望まない。
私たちを日々圧迫する連邦政府なんか望まないと。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-694.html

2011年4月25日、ロン・ポール、ニューヨーク Webster Hall

 

どのようにして、私たちは、この混乱に陥ったのでしょうか。
医療システムが、問題を抱えています。
教育システムが、問題を抱えています。
私たちの軍隊が、問題を抱えています。
それは、何十年もの間、私たちが発達させてきたシステムは。
自由市場ではありませんよ。
こんにち、左派の人たちは、こう言います。
ああ、これは、すべて、あまりに自由(フリーダム)で自由市場だからだと。
私たちが持っているものは、特別利益団体たちのコーポラティズム(政府と企業の協調主義)ですよ。

私たちが払っている税金が、まさしく私たちの持っている政府を象徴しています。
税金が、とても高いです。
お金を支出し続けています。
そして、景気後退ですから、もちろん、歳入が下がります。
しかし、彼らが行っていることは。
ご存じのように、私たちは、使いすぎ、借りすぎ、刷りすぎ、規制しすぎて、
大きすぎる政府と過度の支出の結果として、私たちは、ついに危機になりました。
それで、過去三年間、彼らは、何をしましたか。
彼らは、さらに使って、さらに借りて、さらに刷って、さらに規制して、問題は起こらないだろうと。
失業率は、上がり続けて、この国で、こんにち、3300万人が、失業しているのです。

今、もちろん、私たちは、大きな政府になっています。
それに他なりません。
自由(リバティー)を守ることに他ならなかったのに。
政府は、自由(リバティーズ)の保護に、とてもとても限定されているべきなのです。
私たちは、私たち自身の面倒を見ることが出来ると私たち自身に信念と自信を持つべきです。
皆さん、しょっちゅう聞いているように、彼らが、ワシントンで、私たちに語っているのは、
ええ、我々は、我々が、たくさんの困難にあることを認めなければならない。
だから、我々は、皆が、犠牲にならねばならないと。

私は、そんなこと信じていません。
安全になるために、いかなる自由(リバティー)も犠牲にする必要がないと思っています。

いかなる経済的恩恵も犠牲にする必要がありません。
私たちが、自由社会を持っていれば、
それは、あなたは、働きに行って、働くための健全な通貨があって、
あなたの稼ぎは、すべて、保持できるようになるのです。

私たちは、自由市場が、どのように機能するのかの理解に、
必ずや信念と自信を持つ必要があります。
あまりにしばしば、私たちは、この戦いに負けています。
自由(フリーダム)を擁護している人々は、
思いやりが欠如しているように、どきどき見られているからです。

いったい、真の自由(リバティー)とは何なのか、
真の市場とは何なのかを理解すれば。
それが、手に入る唯一の、思いやりのある社会なのです。
それが、富に恵まれた唯一の社会なのです。

自由(リバティー)を理解していることは、
個人的自由が、経済的自由と同一であるという意味です。
個人的自由とは、あなたと異なるふうに生活している他の人々を容認するという意味です。
あなたは、他の人々の財産や他の人々の生活にちょっかいを出さないのです。

それは、常に私たちのプライバシーを侵害し、私たちの自由に干渉している、
たくさんの政府機関を取り除かねばならないという意味でもあります。

私たちは、人々に理解させることで始めることが出来ます。
麻薬戦争は、完全なる失敗であると。

議員たちが、私のところに来て言います。
これと、これと、これを行わなければならないと。
どうして、しなければならないのかと私が言うと、
人々は、あまりに馬鹿で、自分自身の面倒を見ることも出来ないから、
我々が、面倒を見なければならないのだと。

それは、本当でもあります。
自由な個人として、私たちは、間違いをすることもあります。
しかし、自分の間違いの責任を取るべきなのです。
良い仕事をしたら、報いられるべきです。
しかし、その判断をする政府を持つべきではありません。
なぜなら、彼らが、間違いをした時には、我々皆を害するからです。

私たちは、あまりに長い間、政府は、秘密であるべきで、
あなたのプライバシーには、何の価値もないという考えを受け入れてきました。
その逆にするべきです。

あなたのプライバシー、あなたの気に入るように、
あなたの生活を営むことが出来ることが、自由(リバティー)に他なりません。
それは、政府での公開性。
政府は、一切、秘密を持つべきではありません。
彼らが、何をやっているのか、私たちは、正確に知るべきです。

私は、ワシントンで、明日、来週、来年に、
急に、人々が、正しいことを行って、
政府が行っている悪いことを徐々に減らしていき、
外交政策を変えることには、ならないだろうという前提で働いています。

しかし、起こるであろうことを言っておきますと。
これは、変わります。
これには、終わりが来るのです。
帝国は、終わります。
福祉システムは、終わります。

なぜなら、この国は、またしても破産するからです。
彼らは、ああ、債務をデフォルト(債務不履行)することは出来ない、
我々は、債務の上限を引き上げるぞと言っています。
しかし、この国は、すでに、デフォルトしているのです。
彼らは、1930年代に、金(ゴールド)を払わなくなり、
1971年に、金(ゴールド)を払わなくなり、私たちは、デフォルトしたのです。
現在は、インフレを通して、デフォルトしています。
彼らは、お金を刷りました。
今までのところ、誰もが、お金を受け取って、
それが、機能しています、物価が上がっていることを別にすれば。
それは、デフォルトなのです。
それは、インフレです。
それは、偽金作りです。
そして、それが、現在、世界中の政府たちを打ち倒しています。
いま耳にしているのは、食料の高騰についてで、食べ物が、高すぎると。
ひとつ、私たちが行わなければならないことは、私たちのメッセージを行き渡らせることです。
ガソリンの価格が上がっているのは、我々は、巻き上げられていて、
誰かが、たくさん利益を上げているからだと、誰かが言うのを聞くたびに。
それは、ドルが、下がっているからですと。
それは、偽金を作っている私たちの政府の意図的な政策ゆえですと。
それから、誰か他の人のせいにしているのですと。

私は、すべてが、ばらばらになって、彼らには、それを管理できないこと、
何か他のものが、生じなければならないことが、証明されると思います。

 

私たちの人数は、飛躍的に増えています。
知における土台が、築かれてきました。
と同時に、こう言っている他の人たちがいます。
我々は、十分な政府を持っていなかったと。
我々には、世界政府が必要なんだと、彼らは、どんどん話を進めます。

(ブ~~~~~~~~!、ニュー・ワールド・オーダーを終わらせろ!)

状況が、本当に悪くなる時、歴史を通して、多くの国々で、
あまりにしばしば、誰かが、現れて、自分が、人々の面倒を見ますと。

(ブ~~~~~~~~!)

  

でも、私たちが望んでいるものは、私たちが自由である社会であり、
私たちの要求は、私たちが、私たち自身の面倒を見て、
政府が、私たちを放っておくことです!

どうもありがとう!

(ウォーーーーーーーーーー!!!)


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2011年8月13日、ロン・ポール、アイオワ州

 

これは、どのように自由社会と自由と健全貨幣が働くのかを示す私たちの好機です。
私たちが、前衛にいます。
私たちが、告発の先頭に立っています。
国民が、こちらにやって来ています。
この運動が続くことを望み、祈りましょう。
これで、私は、とても幸せです。
これは、私の見果てぬ夢を超えています。


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2012年6月7日、ロン・ポール、Texas Liberty Concert

 

若者たちが、私のオフィスに来ますが、何歳ですかと、時々、私が尋ねます。
彼らは、連邦準備制度について興奮して、ロスバードその他それらの本を読んでいるのですよ。
彼らが、15歳だと言いますと、私は、うわあ、あなた方は、私を遙かに超えていますね、
15歳の時には、私は、ロスバードを読んでいませんでしたと、ハハハハ。
それが、大切なことなのです。



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渡る世間はエセばかり


2014年12月24日、アレックス・ジョーンズ、The Alex Jones Show

 

我々は、あらゆることについて合意することは、ないかもしれませんが。
ゲイ、ノンケ、何の論点であれ、黒人、白人、老若、男女。
しかし、我々は、他人を害さない限り自分たちが最善と思う生活を庶民が生きるために、
自由(フリーダム)が欲しいということでは、皆が合意すべきなのです。
それが、リバタリアニズム(自由主義)の、トーマス・ジェファソンの、格律です。
本物のリベラリズム(自由主義)の格律です。
しかし、ほら、エセ・リベラル(偽自由主義者)が言います。
彼らが言うことに我々は同意しなければならない、
さもなければ、我々はリベラル(自由主義者)ではないのだと。
それは、本物のリベラリズム(自由主義)的ではありません。
どの基準によっても、それは、全体主義的、それは、圧政的、それは、専制的です。




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リベラリズムの核心にある思想


2014年10月23日、デイヴィッド・ゴードン、「誕生日おめでとう、ラルフ!」

 David Gordon

今日は、ラルフ・レイコの78歳の誕生日だ。
古典的リベラリズム(自由主義)の一番重要な歴史家である。
レイコは、他の多くの著作の中でも、二つの傑出した小論集の著者である。
「古典的リベラリズムとオーストリア学派」および「大戦と大指導者たち」。
後者の題名が示唆しているとおり、彼は、修正歴史の大主張者である。
彼は、彼の著作すべての中で、深い学問、鋭い分析力、
自由(リバティー)への揺るぎない専心を示している。
彼は、マリー・ロスバードの最も近しい友人たちの一人であり、
サークル・バスティアの一員だった。
彼は、これまでに私が会った最も面白い人たちの一人でもある。


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2008年、ラルフ・レイコ、「ケインズは、リベラルだったか?」

 Ralph Raico

私が論じたように、もしも、リベラルの教義が歴史的に、
絶対主義の福祉国家の父親主義(パターナリズム)の拒否として特徴付けられるのであれば、
18世紀の絶対主義の重商主義の構成要素の拒否として特徴付けられることは、なおさらである。

私有財産の市場秩序の要素を保持しているシステムは、
どれも合理的にリベラルだと見なせるとは限らない。
近代史において、よく知られているように、
私有財産を含んでいて、市場が制限的に働くのを許されていたシステムがあった。
しかしながら、その監督者たちは、他のすべてに優先する国家の役割を主張した。
彼らは、それが無ければ経済生活は無秩序へと崩壊すると信じていた。
この重商主義と呼ばれるシステムに対する反応として、経済的リベラリズムは現れたのである。

ケインズの間違いが、自由市場の秩序に対する信頼を台無しにして、
国家権力の大規模な成長への道を開いた。

ケインズより前は、予算均衡は、政府の目標だった、少なくとも文明国たちの。
ケインズ主義が、この「財政の規約」を裏返した。


 


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2010年10月27日、ロバート・マーフィー

 

オーストリア派に背中を向けるな!


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2011年、ラルフ・レイコ、「古典的リベラリズムとオーストリア学派」

 Ralph Raico

この本とその最初の小論の題名は、誤称である。
表面的な混乱を避けるには、残念ながら、そうせねばならないが。
すなわち、「古典的」リベラリズムは、存在しないのである。
始めから終わりまで、財産権と有機的に発展した自由市場に基づいた、
たった一つのリベラリズム(自由主義)しか存在しないのだ。

現今、この教義に対して、「現代」リベラリズムと呼ばれる対照的なものが存在している。
それは、実際、民主社会主義と区別が付かない。

私が、それは、イデオロギー上で吹き込まれた詐欺だと考える、十分な理由を与えると思っている。
ジョン・スチュアート・ミルとジョン・メイナード・ケインズのような著述家を
リベラリズムの万神殿に昇進させることに例示される詐欺なのである。

読者は、私が、時折、F.A.ハイエクについて、かなり批判的であることに気付くだろう。
ハイエクは、シカゴ大学で、大学院での私の指導教授であり、
私の博士論文の委員長だったので、おそらく、驚かれるであろう。
私は、これが、誰も誤り導くことはないと確信している。
私は、常に、ハイエクに対して最高の尊敬を抱いている。
オーストリア経済学の偉大な専門家の一人であり、素晴らしい学者である。
私と彼で、はっきりと意見が異なるのは、第一に、認められる彼の福祉国家に対する好み、
第二に、英国のリベラルの伝統に対する彼の過大評価、
フランスの伝統に対する彼の侮りであると私が理解するものに関係している。
もしも、この多様な小論集が、一つ大きな主題を持っているとすれば、
それは、我々に最良のリベラルの思想家たちを与えたのは、
英国ではなく、フランスだったことである。
一世紀以上にわたって、バンジャマン・コンスタンからグスタフ・ド・モリナリまで。

それから、私は、私の英雄の一人、ドイツのリベラル指導者、
オイゲン・リヒターについての小論も含めた。

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス彼自身のように、自分たちの時代の流れに逆らって、
「テルモピュライでのレオニダスのスパルタ人たちのように」
断固として立ち上がった自由の戦士たちに、私は、とても弱い。

私の祖父母は、南イタリアとシシリーから合衆国に船で渡った。
希望を持って、やがて、いくらか小さな成功を手にした。
私は、彼らに、そして、かつてそうであったものを求めて彼らがやって来たアメリカに感謝している。
最後の小論で、我々に今立ちはだかるこの準ファシスト国家に対する私の深い悲嘆を示す。


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2012年3月30日、ダニエル・サンチェス、「オーストリア経済学、レッセフェール、消費者第一位」

 Daniel J. Sanchez

最も早い日々から、社会主義者たちと干渉主義者たちが、
オーストリア派の洞察をとても恐れたのは、なぜだろうか?
ロスバードのもののような倫理の客観的な理論があっても無くても、
なぜ、オーストリア経済学は、とても自然に、
レッセフェール(為すに任せよ)の立場に向かうのか?
レイコによると、それは、その市場過程についての消費者志向の見方である。

 可能な最大量の物質財を創り出すとして資本主義システムを理解していた
 古典派経済学者たちとは対照的に、メンガーの見方では、
 それは、「消費者の選好によって働かされる経済統治の様態」だった。
 (後に、W.H.ハットが、その状態に「消費者主権」という言葉を造語した。)
 カーズナーが指摘したように、「市場経済についての社会主義者と干渉主義者の誤解に対する、
 ミーゼスの生涯の論争を育てたのが、この徹底的にメンガー主義の洞察だった」。
 そして、マルクス主義者たち、その他の社会主義者たちを今日まで挫いて激怒させたのが、
 この私有財産システムの本性に対する本質的な洞察だったと、付け加えられるかもしれない。

メンガーが、消費者を画面に連れ戻して、市場過程の船長席に置いた時に、市場を人間化して、
レッセフェールを擁護するミーゼスの功利主義の主張の道を開いたのである。

市場経済の並外れた傾向は、オーストリア派の観点から見られるように、
他者の要求の満足に自分たちが貢献した程度に応じて、
個人たちに対して、自分たちの要求の満足を与えることである。
市場過程を通して、消費者の満足に対する貢献に応じて、
各生産者に消費者たちが報いる傾向があるのだ。
こうして、市場経済において、個人たちは、
人間の要求の満足に対する自分たちの貢献を絶えず改善するように、
自分たちの役割と行為の選択を絶えず調整するよう、自分たち自身の利益で促されるのである。

この過程において、ある消費者たちの要求の相対的な重要性が、
他の消費者たちの要求よりも大きいことはある。
しかし、ミーゼスが強調したように、ある消費者の要求の相対的な重要性は、
その相対的な重要性が、市場において決定されたのである限り、
生産者としての彼の役割で、他の消費者たちの要求を満足させることに
どれだけ貢献したかという機能なのである。

資本主義の下では、人間の選択が、その相互作用を通して、
可能な限り十分に人間の福利を提供するよう、お互いを調整する。

市場の結び付きに対する国家の干渉ことごとく、
つまり、税金、規制、再分配、官僚機構の拡大ことごとく、
貢献と所得を結ぶ繋がりを弱めるのみであり、
それによって、生産者たちの消費者たちへの反応性を減じることによって、
市場の手段性を妨害して、従って、消費者の満足の減少へと導いているのだ。
そして、我々は、経済的規定に関しては、皆、何よりもまず、消費者であり、
生産者であるのは、次位でしかないので、減じる消費者満足は、減じる公衆福利を意味する。

これが、消費者第一位とも呼べるものによって特徴付けられる市場経済の描写である。
それは、メンガーが、ミーゼスを経済学者にした本(「経済学原理」)を書いた時に可能にしたのである。
そして、この描写が頭にあれば、レッセフェールのリベラルでないことは、ひどく難しいのだ。


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2011年、ルー・ロックウェル、「古典的リベラリズムとオーストリア学派」裏書き

 Lew Rockwell

リベラリズムの核心にある思想は、社会が、自己組織し、自己規制し、
糸を引く全体計画者は必要ないという信念であると、レイコは説明した。
そのエネルギーと秩序は、その分散化された働き、その変化への開放性、
その束縛されない個人主義から生まれるのである。
その組織たち、つまり、市民団体たち、宗教組織たち、慈善と芸術の財団たちも、
権利を持つ個人たちの自発的な連合に、その存在を負っているのである。
これが、啓蒙時代を通じ、現代を通じ、中世の経験によって学ばれた大きな教訓である。
すべての時と場所で、自由(リバティー)の敵たちによって否定された教訓である。
これが、レイコが決して倦むことなく説明した中心的真実である。
非自由の時代に、おそらく当たり前と考えられて、ほとんど忘れられているものだ。


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2012年4月19日、ギド・フルツマン、「リベラリズムの辞典」

 Jörg Guido Hülsmann

「古典的」リベラリズムというようなものは、決して存在したことがないと、
ラルフ・レイコが、最近、彼の素晴らしい「古典的リベラリズムとオーストリア学派」で強調した。
リベラリズム(自由主義)しか存在しなかったし、存在していないのである。
社会は、それだけで機能していて、強制的な政府によって支持や統治される必要がないという、
この考えを中心にした知的運動である。

まさしく、リベラリズムという語は、自由(リバティー)の様々な敵たちによって採用されて、
その伝統的な意味とは反対のものへと変えられてきた。
しかし、この言葉の曲解は、だいたい、アングロ-サクソン世界に限られている。
旧大陸では、自由(リバティー)とリベラリズムの貼り札を盗用しようとする、
社会民主主義者たち、その他の国家統制主義者たちによる最近の努力にもかかわらず、
リベラリズムは、いまなお、その元の意味で用いられている。
そして、リベラルの運動は、それら強制的な政府が偏在する国々でも栄えているのだ。

すなわち、639ページの「リベラリズム辞典」が、
名声ある出版社ラルースによって、フランスで出版されたばかりである。
マシュー・レネによって編集された、この概説は、
フランスその他の国々の63人の著者によって書かれた、
「Action humaine」から「Voltaire」までの267項目を取り上げている。
それは、はっきりとオーストリア派の風味を持った画期的な出版物である。


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2012年6月2日、ウォルター・ブロック、「リベラルのめっき」

 Walter Block

適切に用いられる言葉が、政治と経済についての対話には不可欠である。
しかし、自由企業制、制限された政府、私有財産権、資本主義のような良いものに賛成する我々が、
困ったことに、あまりにも多くの言葉を、異なる反対側にいる者たちに譲ってきた。

知における我々の敵対者たちによって我々から要求された言葉を用いることによって、
我々が、我々の主張を行わなければならないなら、そうすることが、いっそう困難である。
資本主義は、もはや、自由市場を指しておらず、
今や、それは、クローニー主義(政府お仲間えこひいき主義)と帝国主義を連想させる。
ある社会民主主義者たちは、今、「リバタリアニズム」の所有権すら奪おうとしている。
彼らは、ずっと以前に、「個人主義者」の獲得に走った。

  

しかし、「リベラル(自由主義者)」ほど、有効に我々から盗まれた言葉はない。
その後、その泥棒たちですら見限るほどまでに、ぼろぼろに破壊されて、
今、彼ら自身のことを「プログレッシブ(進歩主義者)」として描いている。
以前は、これ(リベラル)が、我々自身の所有物だったことが、多くの者たちを驚かすが、
いまなお、わずかに、そうである。「古典的リベラル」でのように。

彼(ラルフ・レイコ)が、このリベラルという語をその誘拐者たちから救い出し、
彼らがその上に積み重ねたゴミ屑を取り除き、
それから、その用語が、長く栄光ある血統を持っていて、
もう一度、輝かしい未来を持っていることを我々に確信させる。

レイコは、古典的な種類のリベラリズムをオーストリア学派の経済学と結びつけることから始める。
元は、オーストリア出身の経済学者たち、特に、カール・メンガー、
オイゲン・フォン・ベーム-バヴェルク、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、
F.A.ハイエクによって展開された、経済学への資本主義支持の接近法である。
その過程で、彼は、ミルトン・フリードマンに関連する自由市場のシカゴ学派の、
著しく劣った種類のリベラリズムに光を当てる。



多くの知識人たちが、本物のリベラリズムに反対するのは、
自由企業制と市場に反対しているからである。
それは、悪意の無い間違いから生じているというハイエクの見方がある。
知識人たちが楽で実入りのある政府の仕事を求めていることを強調するシュンペータ。
金儲けに対する憤慨と軽蔑に焦点を当てるミーゼス。

ケインズは、神話とは反対で、「資本主義を救う」試みすら行っていない。
どちらかと言えば、この経済学者は、ファシズムのほうに接近した。
彼の最も有名な本「雇用、利子、お金の一般理論」のドイツ語版のために、
彼が書いた序文が証明しているようにだ。
1936年に、その時、ヒトラー政権が、本物のリベラルを追い払ったはずだが、ケインズが書いた。
一般理論の中の考えは、「自由競争と大部分レッセフェールである状況のもとで」「よりも、
全体主義国家の状況に対して、ずっと簡単に適合させることが出来る」と。

レイコは、優れたオーストリア経済学者、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスのリベラリズムを解明する。
ナチスが支配したヨーロッパからニューヨーク・シティーに逃れたことは、
ミーゼスの最も優れたアメリカの学者、マリー・ロスバード、そして、
この著者と無数の他の者たちの中にいるこの書評者は言うまでもなく、
大統領候補者のロン・ポールの知的発展にとって幸運であったことを証明した歴史の出来事である。


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1947年、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、「計画された大混乱」

 Ludwig von Mises

資本主義は、現代の西洋文明の経済システムではあるが、
西洋諸国すべての政策は、まったく反資本主義の思想によって導かれている。

我々の時代は、大きな経済的困難に直面しなければならない。
しかし、それは、資本主義の危機ではない。
干渉主義の危機なのである。
資本主義を改良し、より良いシステムに代えるべく、計画された政策の危機なのだ。

干渉主義者たちは、経済問題の研究に科学的な公平さをもって接近しない。
彼らのほとんどは、所得が自分たちよりも多い者たちに対する、
嫉みの怒りによって駆り立てられている。
その偏向によって、彼らは、物事をありのままに見ることができない。
彼らにとって主要なことは、大衆の状況を改善することではない。

干渉主義者たちの目には、利益の存在が、ただ不愉快なのだ。
彼らは、その系であるもの、損失を扱うことなく、利益について語る。
彼らは、利益と損失が、すべての企業家の活動を消費者たちが厳しく制御する、
手段であることを理解していない。
ビジネスの方向において消費者を最高位にするのが、利益と損失である。

反資本主義の政策が、市場経済の資本主義システムの働きを妨害している。
干渉主義の失敗は、社会主義を採用する必要性を証明してはいない。
干渉主義の無益さを明らかにしているだけだ。
自称「進歩主義者」たちが、資本主義の失敗の証拠として解釈している害悪すべては、
市場に対して彼らが有益と言い立てて行っている干渉の結果なのである。
無知な者のみが、誤って干渉主義と資本主義を同一視し、
それらの害悪の治療法は社会主義だと信じているのだ。

干渉主義を唱える者たちが理解できていないことは、
自分たちが提案する様々な方策が、目指された有益な結果をもたらすことが出来ないことだ。
それどころか、それらを唱える者たちの立場から見ても、
それらが変えるべく計画された前の状態よりも悪化した事態を、それらが生み出すのである。
政府は、もしも、その最初の干渉の失敗に直面して、
その市場に対する干渉を取り消して自由経済に戻る用意が無ければ、
その最初の方策に、さらにさらに規制と制限を加えなければならない。
その道を一歩ずつ進んで、最後には、個人たちの経済的自由(フリーダム)が消失した地点に達する。
その時、ドイツ型の社会主義、ナチスの指令経済が現れる。

生産は、公衆の側での買いと買いの差し控えによって市場で決まる価格たちによって指示されるか、
政府の生産管理中央委員会によって指示されるか、どちらかしかあり得ない。
手に入る第三の解決策は存在しない。

市場に指示し価格たちを決定している唯一の要因が、目的を持った人間たちの行為である。
自動性は、存在していない。
選んだ目的を意識的に目指し、それらの目的達成のために明確な手段を取る、
人間たちが存在しているのだ。
神秘的な機械力は、存在していない。
様々なモノに対する自分の要求を満たす一人一人の意思が存在しているのだ。
匿名は、存在していない。
あなた、私、ビル、ジョー、残りすべての者たちが存在しているのだ。
そして、我々のそれぞれが、生産と消費の両方に従事している。
それぞれが、その人の分、価格決定に貢献する。

干渉主義者が目指すことは、消費者たちの選択を警察の圧力に代えることである。
国家は、これやあれを行うべきだという、この話すべては、究極的には、こういう意味である。
自発的に振る舞うのとは違うように振る舞うよう、警察が消費者たちに強いるべきであると。
我々に農場価格を引き上げさせろ、我々に賃金率を引き上げさせろ、
我々に利益を下げさせろ、我々に経営陣の給料を削減させろというような提案において、
その我々とは、究極的には、警察を指す。

ジレンマは、自動的な諸力と計画された行動の間にあるのではない。
個人誰もがその人の分を持つ民主的な市場過程と独裁機関の排他的支配の間にあるのだ。
市場経済で人々が行うことは何でも、その人自身の計画の実行である。
この意味では、人間行為は、すべて計画を意味している。
計画者を名乗る者たちが唱えていることは、
物事を放っておくことを、計画された行動に代えるのではない。
同胞の人たちの計画を、計画者自身の計画に代えるのだ。
計画者は、他のすべての人々から、
計画して自分自身の計画に従って行動する権限を奪いたがっている、
潜在的な独裁者である。
彼は、一つのことだけを目指している。
彼自身の計画の排他的で絶対的な優位性である。

それらの人たちの目には、ビジネスに対する政府干渉の、
望んでいなかった望ましくない結果は、資本主義によって引き起こされる。
まさしく、自分たちが嫌う状況は、政府の方策がもたらしたということが、
彼らにとっては、さらなる方策を正当化するものなのである。
例えば、彼らは、我々の時代において独占の企てが果たしている役割は、
関税や特許のような政府による干渉の結果であることが理解できない。
彼らは、独占を防止するために政府の行動を唱える。
これほど非現実的な考えは、ほとんど想像が出来ない。
彼らが独占と戦うよう求めている政府たちは、
同じく独占の原理に専念している政府たちなのである。

資本主義と社会主義の対立は、
確定的なモノの供給から、それぞれに割り当てられる部分の大きさに関する、
二つのグループの主張者たちの争いではない。
どんな社会の組織化のシステムが人間の福利に最も良く役立つのかに関する論争である。
社会主義と戦っている者たちが社会主義を拒絶しているのは、
社会主義の生産様式から引き出せるとされる利益で労働者たちを妬んでいるからではない。
社会主義と戦っているのは、まさしく、それが、大衆を貧しい農奴の地位に落として、
無責任な独裁者の全く為すがままになって、大衆を害すると確信しているからである。



経済的自由(フリーダム)の「過度」の唱道というようなものは存在しない。
一方において、あり得るのは、
生産が、最も適切な方法で消費者の最も緊急の要求を満たすように、
自分の行いを調整する各個人の努力によって指示される。
それが、市場経済である。
他方において、あり得るのは、
生産が、権威主義(政府が命令する主義)の法令によって指示される。
それらの法令が、経済構造のうち、いくつか単独の品目のみに関係していたら、
得ようとした目的は達成できず、それら自体を唱えた者たちが、それらの結果を好まない。
もしも、それらが、全面的な統制に達したら、全体主義の社会主義を意味する。

人々は、市場経済と社会主義の間で選択しなければならない。

自由(フリーダム)と自由(リバティー)は、
常に、警察の干渉からの自由(フリーダム)を意味する。

彼らは、法の支配によって統治される国家を福祉国家に代えることを唱える。
その福祉国家において、パターナル(父親的)な政府が、
公共の福祉に有益と考えることすべてを自由に成し遂げることが出来るべきであると。
啓明な支配者が一般福祉を促進する試みを「紙切れ」が抑制すべきでないと。
反対者たちはすべて、有益な政府の行動を妨げないよう、
無慈悲に押し潰されなければならないのだと。

福祉国家と計画を唱える者たちは、皆、潜在的な独裁者である。
彼が計画するものは、他の人々から権利すべてを奪うことであり、
彼自身と彼の友人たちの制限されていない全能を確立することである。


 


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1986年、マリー・ロスバード

 Murray Rothbard

ところで、もう一つ、私が言わねばならないことは、
加齢した人たちは、決して変わらないということです。
彼らは、新しいパラダイムには移らないのが、普通です。
加齢した人たちは、死ぬまで、それに固執します。
新しいパラダイムを採用する人たちは、若者たちです。
知において、古いパラダイムに閉じこめられていない大学生たちです。

ですから、戦略的には、もしも、あなたが、オーストリア学派なら、
ポール・サミュエルソンや、ミルトン・フリードマンを、
転向させようと試みることに、時間を費やすべきではありません。
この人たちが、転向することはありません。
彼らは、彼らのパラダイムに閉じこめられています。
やって来る人たち、新しい人たち、どっちつかずの人たちを転向させるのです。
大学生たち、それが、転向させることの出来る人たちです。
サミュエルソンや、フリードマンや、他のパラダイムの誰にしても、
転向させようと試みることに、あなたの時間を無駄にしてはなりません。





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2011年5月28日、トーマス・ウッズ、ロサンゼルス

 

過激主義、この言葉が、いつも我々が受け取っているものです。
あら大変、あなたたちは、過激主義者ですと。

過激主義という言葉は、議論を打ち切るために用いられます。
過激主義者になりたいですか。
あなたは、間違っているのでしょうか。
いえ、いえ、いえ、あなたは、主流にならねばならないのだと。

我々の社会では、本当に実質的な論点について語りたければ、
あなたは、過激主義者になるのです。
もしも、主流の一部になれば、あなたは、彼らが我々に語らせたい、
まったく些末な論点で満足することになるのですから。
最高限界税率を39.5%にするべきか、35%にするべきか、どちらにするべきだろうかと。
毎年、どちらの可能な方法で、政府が我々を略奪するべきか、
彼らが、この部分から財産を略奪できるか、
また別の部分から財産を略奪できるか、さあ話し合えと。

もしも、あなたが、そもそも、そういう徴収が嫌いだったら、どう、その質問に答えますか?
あなたのための答えは、存在しないのです。
あなたは、過激主義者だぞぉ~と。

しかし、究極的には、これは、善悪、正邪の問いなのです。

これまでの結果は、どうだったでしょうか。
ひとしきり、世界中に素晴らしい自由(リバティー)が出現したでしょうか。
それとも、全体主義革命、全面戦争、返済不可能な債務、
圧倒的な負担、増大する官僚だったでしょうか。

そのうえ、間違った名前で呼ばれている「進歩主義」。
この構造を見て、これが社会を組織する最良で唯一の方法であり、
それに異議を唱える者は誰でも「過激主義者」でなければならないのだと言っています。
その人たちが、厚かましくも、「権威を疑う」という表現を用いています。
この人たちが、前回、なにかを疑ったのは、いつですか?

これは、精神異常みたいなものですよ。
もう、とてつもない、ぼろ儲けです。
これは、信じられないような、ぼろ儲けですよ。

人々を略奪して、搾取して、それから、その傷に恥の上塗りです。
それに喝采を送るように、子供たちを訓練しているのですから。

私は、信じません!
私は、この制度が、人間の進歩を抑え込んできたと思っています。
彼らが、我々をお互いに反目させて、内戦です。
誰もが、つかみ取ろうとしています。
我々の誰もが、なんらかの利益団体に巻き込まれています。
それは、職業、年齢、民族、階級。
誰もが、つかみ取ろう、つかみ取ろう、つかみ取ろう。
フレデリック・バスティアが言いました。
国家は、誰もが、それによって他人に負担させて生きようとしている、
大きな虚構(フィクション)なのだと。



それゆえに、私は、この制度は、非文明化工作員みたいなものだと信じています。
ですから、私は、あらゆる面で、それを止めたいのです。

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが言いました。

誰もが、社会の一部を、その肩に担っている。
他の者たちによって、自分の責任の負担から解放される者はいない。
もしも、社会が、破滅に向かってなだれこんでいるなら、
自分のために安全な道を見いだすことの出来る者はいない。
それゆえに、自分自身のために、誰もが、活発に、知の戦いに飛び込まねばならない。
無関心に傍観しておれる者はいない。
皆の利益は、その結果によって決まる。


 


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1948年、ルードヴィヒ・フォン・ミーゼス、「経済学教育の目標」

 Ludwig von Mises

自由(フリーダム)と全体主義という二つの社会組織システムの間の闘いは、
民主国では、投票で決まる。

最終結果が、イデオロギー上の要因に依存することは、明らかである。
自由(フリーダム)の擁護者たちは、
自由の理想に完全に無条件に傾倒している市民たちによって、
支持されている場合に限り、勝つことが出来るのである。
もしも、自分たち自身の陣営で、世論を形成している者たちが、
全体主義の施策に対する共感に感染していれば、負けるのだ。
人は、自分の信念のために、死ぬまで戦う。
しかし、自分の目には半分だけ正しい主張に、真剣に献身する者はいない。
「私は、共産主義者ではない。しかし・・・」と言うような者は、
厳密に自由に賛成して共産主義に反対して戦うためには、当てに出来ない。

マルクス主義のポリロギズム(Polylogism)の教義によると、
人間の思想は、その人の階級的立場を必然的に反映しているのだと。
その人の階級の自己利益の変装以外の何物でもなく、
他の社会階級すべての利益とは、相容れずに対立するのであると。

「非正統的」教化の束縛から、人々を、特に知的な若者たちを解放する試みは、
哲学と認識論の水準で始まらなければならないことは、明らかである。

「理論」を扱うことに嫌気することは、
マルクスの弁証法的唯物論に従順に屈服しているに等しいのだ。
知における、自由(フリーダム)と全体主義の間の闘いは、
具体的な統計上の数字や歴史上の出来事の意味についての議論においてではなく、
認識論と知識論という根本的な論点の徹底的な考察において、決せられるであろう。

進歩主義者を名乗る者たちの間に、数多くの一貫したマルクス主義者たちがいることは確かである。
しかし、進歩主義者たちの大多数は、彼らのマルクスの評価において、穏健で折衷的である。

進歩主義の多くの目立つ擁護者たちは、自分たちが、最終的に、
自由企業制を社会主義に置き換えることを目的としていることを公然と宣言している。
しかし、他の進歩主義者たちは、提案された改革によって、自分たちは、資本主義を救いたいのだと、
もしも、改革されず、改善されなければ、それは、破滅する運命にあるのだと、
何度も繰り返し告知している。
彼らは、永続する社会の経済組織システムとして、干渉主義を唱えている。
穏健なマルクス主義のグループたちが、社会主義の漸進的実現のための手法として、
それを唱えるようにではないが。

ここでは、干渉主義の分析に入る必要はない。
干渉主義の方策は、変更のためにそれらが考案された以前の状況よりも、
(それらに頼る政府たち政党たちの視点から見ても)良好でない結果をもたらすということは、
論駁の余地なく示されてきた。
もしも、政府と政治家たちが、それらの失敗が教える教訓を学ばず、
商品価格、賃金、金利に対する干渉すべてを控えたがらないのであれば、
市場経済システム全体が、全面的計画と社会主義に取って代わられてしまうまで、
自分たちの最初の方策に、ますます統制を追加しなければならないのである。

それぞれが、あらゆる銘柄の競争相手の短所を論破することに熱心である。
しかし、干渉主義の企ての底にある教義、
矛盾と弊害は資本主義に固有なのだとする想定が、
概して、あらゆる種類の進歩主義で一様であり、
ほとんど何ら反対されることなく一般に受け入れられている。

その誤謬は、経済学の教育が、暴露せねばならない。
不健全な思想を健全な思想に置き換える試みの成否は、
最終的に、この任務を達成しようと試みる者たちの能力と個性に依る。
もしも、決断を下す時に、正しい人々が不足していれば、我々の文明は、おしまいの運命だ。
しかし、そのような先駆者たちが得られたとしても、
彼らの努力は、同胞市民たちの側での白けと無関心に会えば、無駄となる。
文明の生き残りが、個々の独裁者や総統や首領の悪行によって危険に晒されることがある。
しかし、その維持、再建、継続には、すべての善意の人々の共同努力が必要なのだ。





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2009年4月22日、ヒラリー・クリントン、下院外交委員会

 

 Hillary Clinton

私たちの時間が終わってしまう恐れがありますので、言っておきたいことがあるのですが、
昨年の大統領選挙運動をやっていて、あなたのところに、
私が今まで見たなかで、最も熱烈な支持者たちがいました。


 Ron Paul

私は、その話を聞くのが大好きです。


 Hillary Clinton

まあ!
私が行ったどこでも、彼らが、あなたのプラカードを持って、文字通り、道々にいました。
今まで、そのことを、あなたに言うチャンスが全くなかったのですが、
あなたのメッセージが、多くの人々に共感されていることは確かでした。


 Ron Paul

ありがとうございます。


 Howard Berman

あなたは、さらに彼を勇気づけてますね。


 Hillary Clinton

ガハハハハ


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2009年7月30日、ロン・ポール、自由を求めるアメリカ青年・全国大会 2009

 

どうして、私たちのグループが、まったく違うのかと、多くの人たちが思っています。
そのことを、公の場で、公聴会で認めた人物が、ひとりいます。
あなたのグループは、まるっきり違いますねと言ったのが、ヒラリー・クリントンです。
彼女は、公聴会の真っ最中に言いました。
本当に、あなたには、活気に満ちた仲間がいるわねと。

でも、率直に言いますと、それは、私ではないのです。
なぜなら、私は、もう、いやっちゅうほど、何度も新聞で読んできましたから。
この人には、カリスマが、かけらもないと。
それなら、どうして、その人の話を聞いているのでしょうか?
それは、メッセージなのです。
メッセージが、とても素晴らしいから、それが、人々の注目しているものなのです。

もうひとつ、とても特別な理由があります。
大統領選挙運動にいた人たち、そして、この運動、
それは、「自由のための運動」にしろ、「自由を求めるアメリカ青年」にしろ、
その人たち、あなた方は、特別な部類なのです。
あなた方は、それに属しています。
もはや、あなた方には、いかなる選択肢もないのです。
というのは、あなた方がやっていることに、いったん、はまるとです。

革命運動は、常に、哲学に関してでなければならないのです。
暴力的な権威主義者(政府が命令する主義者)が現れて掌握する時代があります。
しかし、本質的に、世界は、思想によって変わるのです。


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2007年7月23日、ヒラリー・クリントン、民主党大統領候補者討論会

 Hillary Rodham Clinton

ご存じのように、それ(リベラル)は、
もともとは、自由(フリーダム)を支持し、
自由(フリーダム)の達成を求めて、大きな権力に反対して、
個人のために立ち上がろうとするという意味の言葉でした。

残念ながら、それは、この30年、40年の間に、ひっくり返されて、
あたかも、大きな政府を表す言葉であるかのように作り上げられました。
19世紀、20世紀初めに意味していたものとは、まったく反対のものへと。

私は、むしろ、「進歩主義」という言葉を好みます。
それは、真のアメリカ的意味を持っていますが、
20世紀の始まりの進歩主義の時代へと戻りたいのです。





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2010年10月13日、ジム・グラント、「ロン・ポールを遺言執行人に」

 James Grant

連邦準備制度が生まれたのは、進歩主義時代の改革を受けてであった。
もしかしたら、現代主義の自由市場改革を受けて、それは去ることになるかもしれない。


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2011年9月19日、ロバート・マーフィー、支援者サミット・ウィーン

 Robert P. Murphy

いわゆる「進歩主義者」が、自らを「リベラル」と名乗って、
それ(リベラル)が、今、悪い言葉になっていますが、
今は、「進歩主義者」という言葉を用いています。
我々は、あれは、後退主義者だろと言っていますけどね。


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2011年6月30日、アンソニー・グレゴリー、「なぜ左派はリバタリアニズムを恐れるのか」

 Anthony Gregory

しかし、本当に、この国で、リバタリアニズムが支配的だったと考えているような者は、
明らかに、リバタリアニズムが何なのかをほとんど理解していないし、
いや、まったく、現実から離れてしまっている。

リバタリアニズムは、その影響力が、こんにち、どんなに弱かろうと、
左派にとっては、いかなる形態の保守主義よりも、ずっと大きな長期的脅威なのである。
たとえ、その理由を明瞭に述べることが出来なくても、
左翼の知識人たちは、このことを感じているのだ。
左翼主義は、彼らが知っていようと知っていまいと、
古典的リベラルの伝統の歪められた置換物である。
国家統制主義の左派は、庶民の解放を促進し、
公平にするという目標を建前にして、悪魔と取引しているのだ。
最も貪欲で飽くことを知らない種類の中央集権化された権力、国民国家とである。

進歩主義者たちと社会主義者たちが、自由(リバティー)に反対、
国家に賛成のイデオロギーに、リベラリズムを歪めて以来、
一世紀以上の間、彼ら自身が文句を言っているような、
社会的不平等が持続し、コーポラティズム(政府と企業の協調主義)が繁茂し、
戦争が勢いを増している世界の大混乱は、自分たちが作り出したのを彼らは見ているのである。
西洋で20世紀の主要な政治設計者として、彼らは、
自分たち自身を除いて、責めるべき相手を持っていない。

国家への同意を引っ込めるような話は、国家統制主義の左派をギョっとさせるのだ。
信念に基づいて帝国と圧制に最も反対している者たちが、
明らかに経済干渉主義者ではなく、その哲学が、アナキズムと反連邦主義の間の、
どこかにあることにも、彼らは、まったく当惑している。

左派は、とても長い目で見れば、リバタリアニズムが、
自分たちの戦わねばならない哲学上の大敵であることを分かっているのである。
保守主義は、分類上、過去のイデオロギーである。
未来の衝突は、国家からの自由(フリーダム)を求めている者たちと、
国家を通した救済を求めている者たちの間で、そして、
国家を敵として見ている者たちと、国家が支配階級から大衆を守れると、
どういうわけだか思っている者たちの間で起こるのだ。
リバタリアンとして、我々の夢は、よりユートピア的、
そして、我々の理想は、より崇高であるが、現実についての我々の理解は、
もっとずっと、しっかりとした根拠のある、理にかなったものである。
自律主義(ボランタリズム)と市場(マーケット)は、
いかなる他の強制的なものよりも、遙かに人道的で生産的である。
国家は、弱者の敵である。
これが、人間の状態についての不変の真理である。





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1982年、マリー・ロスバード、「法、財産権、空気汚染」

 Murray Rothbard

リバタリアニズムの政治理論の基本原則は、どの人も、自己所有者であり、
自分自身の肉体に対する絶対的な支配権を持っていると考える。
実質的に、これは、他の誰も、別の人間を正当に侵略したり、
攻撃したりしてはならないという意味である。
したがって、各人が、占有したり、もしくは「自分の労働を混ぜる」、
以前には所有者のいない、どんな資産も正当に所有するということである。
この二つの原則、自己所有権と「入植」から、
自由社会における財産権の所有権システム全体の正当化が生じる。
このシステムが、すべての人間の自分自身の身体に対する権利、
寄贈、遺贈の権利(そして、付随して、遺贈物、相続財産を受け取る権利)、
財産の所有権を契約上で交換する権利を確立する。


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2013年7月24日、ルー・ロックウェル、「リバタリアニズムの逆説」

 Lew Rockwell

リバタリアニズムのメッセージは、単純である。
それは、原則的に、子供たちを含めて、ほぼ皆に共有されている、
道徳上の前提および直観を意味する。
誰も害するな。
誰からも盗むな。
お前自身のことに専念せよ。

「俺が、最初に、これを手に入れた」と、子供は言うだろう。
以前には未所有だったものの最初の使用者が、道徳上で、
後から来た者たちよりも優位に立つという、直感的な感覚があるのだ。
これも、リバタリアニズムの理論の中心的見地である。

ロックに続いて、マリー・ロスバード、その他のリバタリアニズムの哲学者たちは、
どのようにして財産が所有されるようになるのかについて、
道徳上、哲学上で擁護できる説明を確立しようとした。
ロックは、地球上のものは、最初は共有されていたと考え、
一方、ロスバードは、よりもっともらしく、
すべてのものは、最初は未所有だったと考えたが、
この違いは、彼らの分析に影響を与えない。
ロックは、どのようにして誰かが、彼個人が使用するために、
あるものを共有から外すことができるのかを正当化しようとし、
ロスバードは、どのようにして誰かが、未所有のものを獲得し、
彼個人が使用するために、それを要求することができるのかに関心があった。

ロックの答えは、よく知られていよう。
彼は、まず第一に、「すべての人が、彼自身の身体に財産を持っている」ことに言及した。
拡張して、誰もが、それら彼が彼の労働を混ぜたものを彼自身の財産として正当に保有する。
土地を耕すこと、リンゴを摘み取ること、いずれにせよ、
以前には個人所有者がいない自然状態にあった財産に入植した最初の人が、
彼自身をその所有者と呼べるのだと、我々は言う。

以前には自然状態にあったものが、いったん入植されたら、
その所有者は、彼の所有権を維持するために、
それに働きかけたり、それを変形したり、し続ける必要は無い。
その初めの入植過程が、いったん起これば、
未来の所有者たちが、その財産を取得できるのは、
それと自分たちの労働を混ぜること(その時点で、侵入である)によってではなく、
それをその正当な所有者から買うか、それを贈り物として受け取るかによってである。

この規則は、公正であることに加えて、争いも最小化する。
これは、すべての人々に等しく適用される原則に基づいた、誰もが理解できる規則である。


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1971年3月1日、マリー・ロスバード、「リバタリアニズム内の左派と右派」

 Murray Rothbard

リバタリアンは、もちろん、私有財産権に対する、
いかなる個人もしくは集団の攻撃にも反対しているが、
そのような権利に対する、何にもまさる攻撃者、
国家機関に間違いなく照準を合わせている。

民主制や君主制や独裁制を信じる者たちとは異なり、
リバタリアンは、国家が、いかなる神聖を、または、
一般道徳律より上にそれを置く他のいかなる是認を、
帯びていると見なすことを断固として拒否する。
もしも、一人の人もしくは一つの集団の人たちが、
ある人の身体もしくは財産に対して攻撃することが犯罪ならば、
自らを「政府」もしくは「国家」と呼んでいる一団が、
その同じことを行うことは、等しく犯罪である。


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1971年、マリー・ロスバード、「ミルトン・フリードマンを解体」

 Murray Rothbard

リバタリアニズムの運動は、あまりに長く、知において怠惰な道でやってきた。
区別を付けるのを怠り、識別するのを怠り。
我々の仲間だとか同盟者だと主張する者たちの見解の中にある、
真実と誤りを識別するために厳密な調査を行うのを怠り。
それは、ほとんど、まるで、どんなジョーカーが回ってきても、
「自由」について、二、三、つぶやいたら、自動的に、
一つの大きなリバタリアニズムの家族の一員として、
我々の胸に抱きしめるというようなものだ。
我々の運動が、影響力を増すにつれて、
我々は、もう、この知における怠惰という贅沢をする余裕はない。





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2013年3月23日、ステファン・キンセラ、Liberty in the Pines

 

題名は、「ロックの大きな間違い、いかに労働財産理論が政治理論を台無しにしたか」です。
なぜ、私が、これが興味深く、また、自由(リバティー)のための我々の戦いに、
とても関係していると思うのか、説明を試みます。

彼の議論の一部が、政治理論で多くの深刻な問題を引き起こしました。

私が、25年以上の間、リバタリアニズムについて考えてきて、
私の意見では、我々が直面する一つの問題が、隠喩(メタファー)の過剰使用、
言語の不正確な使用と明快でない思考であるという、結論に達しました。

我々が、自己所有とリバタリアニズムについて語る時、
実際には、肉体所有について語っているのだと思います。
そこで、問いは、常に、誰が、あなたの肉体を所有しているのかです。
私なのか、それとも、他の誰かなのか。
あなたが信じているのは、あなた自身が、あなた自身を、
もしくは、私が言うべき、あなたの肉体を、支配することなのか、
それとも、奴隷制か、それが、基本的な選択です。
明快な言語で語れば、これらのものが、より明快になります。

人々が、自分は、強制に反対だと、自分は、リバタリアンだと、言います。
もしくは、自分は、暴力に反対だと。
いいえ、我々は、暴力に反対しているのではありません。
我々は、強制にも反対していません。
我々は、攻撃に反対しているのです。
攻撃とは、開始された力の使用、開始された暴力、開始された強制です。
強制は、力の一種でしかありません。
誰かに何かを行うよう強いるために、力を用いるという意味です。
誰かが、私の家に侵入しようとしたら、私は、そいつに強制しますよ。
そして、それは、正当なことです。
ですから、我々は、強制に反対していませんし、
我々は、力に反対していませんし、我々は、暴力に反対していません。
我々は、開始された力や強制や暴力に、つまり、攻撃に、反対しているのです。

また一つが、労働-対-行為です。
あなたの労働の果実を所有することについて、人々が、いつも語ります。
人々は、自分たちの労働を売る権利を持っているのだ、そういう類いのものです。
彼らは、労働が、特別なものであるかのように振る舞います。
あなたについては知りませんが、私にとっては、労働は、行為の一種でしかありません。
人間たちが、自分たちの肉体を所有しています。
我々は、何らかの仕方で行動するのです。
それが、人間行為です。
労働は、行為の一種でしかありません。

長年の間、リバタリアニズムの本質をどう定義するか考える際に、
私は、それについて考える最良の方法が、我々が、このことを認識することだと思います。
我々は、皆、お互いに社会で生きている人々であるということ。
我々は、我々の中で、皆、少なくとも、文明人たちであるということ。
我々は、概して、我々自身の生活が良くあってほしいと思っていますが、
我々は、平和と繁栄にも賛成します。
我々は、我々の隣人たちが、良くあってほしいと思っています。
そして、我々は、お互いに社会の中で暮らすことを好みます。
そして、我々は、皆、次のことを理解します。

行為は、あなたが、知性ある、理性ある人であることを意味します。
あなたは、世界について何かを理解しています。
あなたは、未来が来ることを知っています。
あなたは、あなたが満足していない、もしくは、変えたいと思っている、
起ころうとしていると思う未来について、何かを思い描いています。

そして、我々は、その未来に影響を及ぼせる能力を持っていることも理解しています。
どうやって?
不足手段とミーゼスが呼ぶものを用いることによってです。
それらは、あなたが未来の針路を変えるために用いることが出来る、世界の中にあるものです。
あなたの肉体を含めて、そして、あなたが見つけるもの、基本的に道具を含めてです。
そして、我々は、人間の文明から、過去の社会から、他の者たちから、学ぶことから、模倣から、
我々が蓄積してきた、いくらかの理解、いくらかの知識を我々の頭の中に持っています。
来ると我々が思っているものについて、
また、我々が行動を取らねば来るであろうものより、
我々を満足させるかもしれないと我々が思っているものについて、
また、どんな手段が利用可能なのかについて、
また、それらが、どのように原因として物事を変えるのかについて、
我々は、いくらかの知識を持っています。

ですから、これが、人間行為であるものです。
それは、理解すること、選択を行うこと、何らかの手段をつかみ取ること、
未来を変えるためにその手段を用いること。

そして、その枠組みの中では、我々は、リバタリアニズムが、
それらの手段が不足していることを我々が理解している思想であると理解できます。
不足しているとは、競合的という意味です。
それは、一度に、一人の人のみが、そのものを用いることが出来るという意味です。
そうでなければ、そのものをめぐって戦い、衝突し、
争いを持ち、暴力的喧嘩をする二人以上の人々がいるのです。

財産権の目的全体は、不足している行為手段の使用において、
争いを避けられるようにすることです。
ですから、我々は、皆、我々の日常業務や我々の計画に取り掛かることが出来ます。
お互いに協力し、お互いに取引し、お互いに助け合い、お互いに売り。
法的に認められた、それを支配する排他的権利で、我々自身の不足資源を用いて。
それが、財産権であるものです。
それが、所有権であるものです。

そして、我々は、財産権を支持しているんだと、言うことも出来ません。
なぜなら、それも、我々を区別しないからです。
なぜか?
なぜなら、財産権は、あらゆる人間社会、
これまでに存在したあらゆる政治システムに固有だからです。
共産主義者たちが、財産権を信じています。
社会主義者たちが、財産権を信じています。
ファシストたちが、財産権を信じています。
環境主義者たちが、財産権を信じています。
福祉リベラルたちが、財産権を信じています。
我々が、財産権を信じています。
その違いは、何か?

それが、どのように割り当てられるのかです。
それが、違いです。
そこで、我々は、世界を見て、法システムによって、
誰かによって支配される必要がある不足資源を見ます。
それらが、平和的に、生産的に用いられるようにです。
そして、我々の規則は、単純です。
それが、ロックの規則です。
ロックの規則が、基本的に言っているのは、
誰であれ、ある資源に対する、より良い主張を示せる者が、それを得るんだと。
そして、その、より良い主張は、それを変形させた最初の人として定義されると。
はい、ある意味、彼の労働で。
もしくは、契約によって、他の誰かから、それを獲得したらです。
とても単純です。
契約、加えて、最初の占有です。

さて、最初の占有の理由は、何でしょうか?
ロックが、彼の議論の中で、それを詳しく説明しました。
もしも、誰も、ある資源を用いる最初の者になる権利を持っていなければ、
それは、決して、用いることが出来ません。
誰かが、世の中にあるその未知のものを用いる最初の者にならなければなりません。
そして、彼が、それを用いる権利を得たら、彼が、それを保持する権利を持ちます。
そうでなければ、二番目の人が、それを彼から取ることができ、
それは、財産権システムではありません。
それは、暴力的な衝突のシステムです。
ですから、これは、ほとんど、ミーゼスの貨幣遡及定理みたいです。
金(ゴールド)型式の貨幣の起源もしくは価値を、
その純粋な商品(コモディティー)、非貨幣的な使用にまで遡る時の。
これは、それみたいです。
今、誰が、ある資源を持っているのか見て、
その所有権を最初の能動的占有まで遡ることが出来るのです。
それが、我々の言っていることです。

さて、もう一つの規則を加えることが出来ます。
もしも、誰かが、攻撃行為、何らかの不法行為を犯したら。
あなたが、他の誰かを害したら、彼らの権利を侵害したら、
その行為を実行したのですから、あなたは、彼らに補償する義務を負います。
そこで、彼らは、それゆえに、あなたの財産に対する要求権を得るかもしれません。
ですから、我々は、この規則を修正できます。
その資源を所有する人は、それを契約によって所有者もしくはその最初の占有者から獲得した人、
もしくは、その元の所有者による何らかの犯罪行為ゆえに、それを獲得した人です。
それ以外に、財産を所有する他の方法は存在しません。

ロックは、何と言ったのか?
彼は、基本的に、こう言いました。
しかし、彼の議論には、いくらか余分なものがありますが。
ロックは、神が、この宇宙を創造したと言いました。
神が、この宇宙を所有していると。
神が、アダムとイブを創造しました。
彼が、彼らを所有していましたが、神は、彼の慈悲で、
彼が創造した未所有の資源すべてに対する支配権を人間に与えました。
それで、人間の領域内では、神が存在しようとしまいと、
神が奴隷所有者であることが気になろうと、それをどう見ようと、
要点は、設立されたシステムが存在するということ、
そこでは、もしも、それぞれの人間が、自己所有者であるなら。
ロックが、そう呼んだのですが、自己所有者と言うことの危険を思い出してください。
彼は肉体所有者であると言ったほうが、いいです。
なぜなら、それが、係争中の資源なのですから。

それから、ロックが言ったことは、こうです。
そして、そこに、ロックの議論での問題があると思います。
ロックは、もしも、あなたが、あなた自身を所有しているならば、
あなたが、あなたの肉体もしくはあなた自身で行った労働を所有する、と言いました。
最初に、言葉は何を意味しているのかしらと、批判的なリバタリアニズムの法理論家として、
現在、考えていて、収まらない感情は、あなたの労働を所有するとは、実際、どういう意味なのかと。
しかし、私は、それで進みます。

ロックは、それで、あなたが、この労働を所有している、と言いました。
今、私は、私自身から放射している物質のように考えています。
それで、もしも、それが、未所有のものと混ざれば、
ええ、私が、労働を所有していて、それで、その労働の所有権を保持できる唯一の方法が、
それが混ぜられたものを所有することです。
さもなければ、あなたは、私の労働を私から取り去っているのです。
これが、なぜ我々が未所有の資源を占有できるのかの、彼の議論です。

ヒュームは、このロックの議論は、過度に比喩的もしくは隠喩的であると指摘しました。
我々は、実際には、我々の労働を所有していません。
我々は、我々の肉体を所有しています。
あなたが、あなたの肉体を所有すれば、
それは、あなたが、それで望むどんな行為も行う権利を持っているという意味です。

ロックの議論は、それを単純化し、がらくたを取り除けば、機能します。
ロックの議論が、機能するのは、私が先ほど述べた理由、リバタリアニズムの理由によります。
係争中もしくは競合的な物体、不足資源がある時には、
それを占有した最初の者である人が、それに対する、より良い主張を持っている、
それ以外には、実際、他の答えが存在しないのです。
なぜなら、もしも、彼に、その権利を与えなければ、
言いましたように、そもそも、誰も何も占有することが出来ないか、
もしくは、それを暴力で占有するでしょう、それをめぐって人々が喧嘩して。
それは、やはり、争いの無いやり方で資源が用いられるようにする法システムを持つという、
目的にそぐわないです。

問題は、この考え方全体、この接近法全体が、彼の時代以来ずっと、
政治理論を汚染し感染してきた深く大きな混乱を引き起こしたことです。
おそらく、それは、少なくとも部分的に、労働価値理論と呼ばれる関連学説の台頭に寄与しました。
それは、経済思想以上のものであり、それは、リカードの思考、アダム・スミスの思考、
それから、マルクスの思考を汚染したものです。
労働価値理論は、生産物の価値が、それに入った労働に基づいているという、
この摩訶不思議な考えを持っています。

さて、そこには、いくつかの間違いがあります。
一番目、価値は主観的なのです。
ものには、価値は存在していません。
そこで、すぐに、彼は、固有(本来的)な価値の観点で考えているのです。
メンガーとオーストリア派たちが示したように、
それは、まったく何の意味も成していません。

さらには、あなたは、労働を所有していません。
労働は、物質ではありません。
そして、もちろん、この考え。
自分たちの労働を二つの物体に混ぜる二人の労働者たちがいて、
一つは、高品質で、一つは、低品質。
この人が、それに100時間投入し、この人は、それを10時間でしたら、
それらは、同じ価値を持つことにならないと。
そこで、自分の理論を逆分解しなければならず、
そして、ああ、今、我々は、この人の労働に乗算係数を持たねばならないと言う。
その時には、ねじ曲がった理論を持つのです。

 

とにかく、共産主義、何億人の死という結果になったのが、労働価値理論です。
もしも、それが、ロックの責任であるなら、
我々は、彼は少しばかり不注意であると言えるであろうと思います。

しかし、私は、その責任をロックに負わせません。
なぜなら、それらの思想は、1300年代のイスラム教の思想家たちに遡れるからです。
ずっと昔ということです。
しかし、人々が所有できるものとしての労働という考え、
この隠喩的な接近法が、マルクスの労働価値理論に至ったという、いくらかの証拠はあります。

しかし、ロックでの問題は、労働財産理論です。
あなたが、あなたの労働を混ぜるものを所有するという考え。
これが、本当でないことは、明らかです。
例えば、私が、ある会社の被雇用者であるとしたら、
マルクスは、それを廃止するのだと思いますが、
私が、賃金をもらって、私の労働を混ぜて、
雇用者の木と釘から椅子を組み立てたら、
ええ、私は、私の労働をそれと混ぜました。
なぜ、私は、それを所有していないのですか?
ええ、契約が存在したからであり、
そもそも、私は、決して、それを所有していませんから。

問いは、常に、誰が、この資源を所有しているのか?です。
なぜなら、その他のものをめぐっては、何も争い得ないのですから。
なぜなら、資源は、必然的に、それをめぐって争われるか競合的であり得ますから。
ですから、政治哲学のすべてにおける問いは、常に、常に、
もしも、あなたが、ある資源、二人以上の人が用いたいと望んでいるものを指差せるなら、
そして、それをめぐる争いの可能性があるのなら、
誰が、正当に、それを支配することが出来るのか、
それを所有できるのか、それに財産権を持てるのか?です。

私が、いくらかの原材料を所有していたら、
たとえば、いくらかの木と、いくらかの鉄、
そして、それらのもので椅子を作り上げたら、
私が、より価値のある物体を作った、ということは完全に本当です。
誰にとって、より価値があるのか?
私にとって、もしくは、もしかしたら、顧客になる可能性のある人にとってです。
思い出してください、椅子には、価値は存在していません。
価値は、固有(本来的)ではありません。
それは、客観的ではありません。
価値は、価値評価する行為する人間たちの間の主観的な関係なのです。

それで、とにかく、私が、より価値のある形に資源を変形します。
もしくは、経済用語では、私が、富を創り出したと、我々は言うことが出来ます。
なぜ、私が、富を創り出したのか?
なぜなら、私が、あるものを、私にとって、もしくは、他の誰かにとって、
より価値のあるものにしたからです。
実際、二人の人たちが、ただ、自分たちの物を交換したら、
二人の人たちが、リンゴとオレンジを交換したら、
彼らは、その取引によって、富を創り出したのです。
それは、古典派経済学者たちが言うような、価値が等しい水平交換ではありません。
実際には、自分のオレンジでリンゴを買う人は、
オレンジよりもリンゴを高く価値評価しているのであり、逆もまた同様です。
それだから、彼らは、その交換に従事したのです。
おのおのが、取引の後に、より良くなっているのです。
ですから、富は、ただ、純粋な交換によって創り出されます。

富は、自分たちの財産上で労働する人間たちによっても創り出されます。
富は、破壊されることもあり得ます。
もしも、あなたが、機械か何かを作ろうと試みて、間違いをし、
あなたの財産を台無しにしたら、あなたは、富を失いかねません。
しかし、財産権は、変化していません。
実際、私が椅子を作ることは、私が原材料を所有していることを前提しています。
私は、すでに、それらの原材料を所有しているのです。
どのようにして、私は、それらを得たのか?
最初の二つの方法の一つです。
私は、それらを以前の所有者から契約によって買ったか、
私が、自然状態から、それらに入植したか、どちらかです。
それだけです。
ですから、その所有権は、創造行為や生産行為より前に、すでに始まっているのです。
生産行為は、あなたがすでに所有している材料に対して、
労働する、確かに、あなたの労働を用いる行為です。
もしくは、それは、他の誰かの材料に対してでも可能です。
あなたが、他の誰かの材料に働いている被雇用者であれば。
その時には、あなたは、それを所有していません。
ですから、鍵は、常に、生産的労働に入る原材料を所有しているのは、誰なのかです。

創造、労働は、富の源ですが、財産権の源ではありません。

私は、私の行為を所有しているとか、私は、私の記憶を所有しているとか、
なぜなら、私が、それらを支配しているのだからと、実際問題として、言うことは出来るでしょう。
しかし、もしも、それを、そのように言えば、二重計算の間違いを犯すのです。
私は、私の肉体を所有し、そして、私は、私の行為を所有している、と言っているのですから。
いいえ、あなたは、あなたの肉体を所有しているから、
あなたは、どんな行為を実行するのかを支配できる能力を持っているのです。
それは、結果なのです。
それは、派生物なのです。
それは、別々の独立したものではありません。

不足手段は、目的を果たすために我々が用いるものです。
それらが、所有できるものです。

世の中にある、以前には未所有だったものは、
我々が、それらを所有するのは、
我々が、最初の占有か、その後の何らかの契約を持つからです。


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2011年、ラルフ・レイコ、「リベラリズム:本物と偽物」

 Ralph Raico

実際、リベラリズムについての文献を調査すれば、概念上の混乱状態が明らかになる。
この一つの根本的原因が、「リベラル」を自称した重要な政治的集団たち、
すべてを収容しようとする頻繁な試みである。

そのような変化は、民主的選挙の政治の力学によって容易に説明される。
集産主義の思想の競争に直面して、リベラル政党たちは、
新しい種類の「政治的起業家たち」を生み出した。
「たかり」選挙民たち、すなわち、
国家を用いて自分たちの経済的立場を高める者たちを、
動員する技に長けた者たちである。



この分野で一般的な混乱の多くは、ジョン・スチュアート・ミルに遡れる。
英語を話す人々によって受け入れられているリベラリズムの概念において、
非常に膨らまされた立場を占めているのだ。

ミルは、起業家たちと労働者たちを含む、
すべての社会階級の利益の長期的調和というリベラルの考えを拒絶した。

国際問題では、ミルは、外国の戦争に不干渉というリベラルの原則を拒否した。

最悪なことは、ミルが自由(リバティー)の概念を醜く変形させたことだった。
自由(リバティー)は、国家やその他の団体たち個人たちの側の、
物理的攻撃によってのみ、脅かされる状況ではないようだと。
むしろ、「社会」が、しばしば、個人の自由(フリーダム)に対して、
もっと重大な危険をもらたすのだと。

彼は、自分が何も知らない多数の人々の、
習慣、態度、選好、道徳的規準に対して絶えず判断を下した。

受け入れられている宗教、伝統、社会規範に敵対する姿勢に、
リベラリズムを繋げる決定的な結合は、
他の誰より、ジョン・スチュアート・ミルのせいである。
それが、残念ながら、標準になってしまった。

一方に、国家の強制、他方に、社会的圧力、正統的意見、慣習、
その間の区別を付けないのである。

ミルの見解は、「社会的不承認を被ることと投獄を被ること」の間の、
かなり決定的な区別を消す傾向にあり、リベラリズムを、
無実の非強制的な伝統的価値観や取り決め、特に宗教的なものに立ち向かわせることになる。
それは、リベラリズムと国家の間で、攻撃同盟も作り出す。
もしかしたら、ミルの意図に反するとしても、伝統的な規範は、
政治的権力の大規模な使用による以外、根絶できる方法は、想像が難しいのだから。

リベラルの通俗的な意味が、時間とともに大幅に変わってきたことは、争点になっていない。
1900年あたりで、英語を話す国々その他の場所で、この用語が、
本質的に社会民主主義者である著述家たちに捕らえられたことは、良く知られている話である。

修正主義の社会主義の創始者、エドゥアルト・ベルンシュタインの、この言葉を考えてみよ。
「自由な個性の開発と保護が、すべての社会主義の方策の目標である。
 たとえ、それらが、表面的に、強制であるように見えてもである。
 社会における自由(フリーダム)の総量を増やし、
 より幅広い集団に対して、それが取り去るよりも、より多くの自由を与えることが、
 強制の問いであることは、より綿密な考察が、常に示している。」

これが、過去一世紀それ以上の間の「新しいリベラルたち」の立場と、どう違うのか?
リベラリズムを反対のイデオロギーたちから分けるものが、
まさしく、その実質的な施策、擁護する手段である。
すなわち、私有財産、市場経済、そして、国家および国家後援の団体の権力の最小化である。

リベラリズムの概念が、市場経済と私有財産の支持者を締め出すべく変形された後、
「個人主義」も、その同じ目的のために、再定義されることになったのである。

こんにちの絶え間なく拡大する福祉国家に魅了されている著述家たちが、
それをリベラルの伝統に融合させようと試みてきたことは、驚くに当たらない。

その結果は、歴史的なリベラルの柱である、私有財産、法の前での平等、
契約と言論と結社の自由の、計画的な転覆である。

こんにち、ハーバート・スペンサーが、一世紀以上前に表明した不満が、
これまでにも増して真実味を持っている。
「そんなことが、リベラルの名を主張する党の行っていることなのだ。
 拡張された自由(フリーダム)を唱える者であるとして、リベラルを自称している!」

厳しく制限された国家を設立するというリベラルの施策が、根本的な矛盾を隠していて、
物事の本質上、必然的に、包括的な権力で武装した国家に道を譲るというのは、もっともらしい。
これは、ハンス・ハーマン・ホップによって、説得力を持って論じられてきた。
「自由(リバティー)と財産を保護するという元のリベラルの意図に反して、
 どの最小政府も、最大政府になる生来の傾向を持っているのである。」と。

リベラリズムが、包括的な社会哲学として、18世紀に形成された時、
それは、欧州で一般的だった重商主義と官房主義のシステムの正反対のものとして現れたのである。

人々に対するパターナル(父親的)な気づかいが、国政術の最高目的だった。
それが、この、経済を、同じく、残りの社会生活を、管理するシステムだった。
その意図が、善意だとされることは、
それを専制的であると激しく非難するリベラルたちにとっては、関係なかった。
警察国家(Polizeistaat)は、偶然にも、「福祉国家」として最良に訳される言葉であるが、
リベラリズムは、それに反発して成長したのである。

歴史的に、君主絶対主義が、国家は、社会のエンジンであり、
その臣民の宗教的、文化的、特に、経済的生活の必要な監督者だと主張してきたところで、
リベラリズムが、最も望ましい体制は、市民社会、すなわち、
私有財産と自発的な交換に基づいた社会秩序全体が、
全般的に自らを運営するものだと、際立って対照的な見解を立てたのである。

リベラリズムの理念型を構築するなら、
「国家に対する社会」というリベラルの断言の象徴的表現に頼るだろう。
最も簡潔なものが、重農主義者のスローガンである。
「レッセフェール(為すに任せよ)、レッセパッセ(行くに任せよ)、世界は、ひとりでに進み続ける」

リベラリズムは、本質的に、社会の自己規制、有益な自生的秩序を生み出すその能力の教義である。


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2009年7月28日、ラルフ・レイコ、ミーゼス大学

 

ハイエクは、シカゴ大学で、私の教授でしたけど、
彼は、好きな人が多すぎました。


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2010年6月10日、ハンス・ハーマン・ホップ、「財産と自由のソサイエティー、五年後の反省」

 Hans-Hermann Hoppe

モンペルラン・ソサイエティーに関しては、当初から懐疑があった。
ハイエクの教師で友人だったルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが、
ハイエクの初めの招待者たちを見ただけで、彼の計画に関して厳しい疑いを表明していた。
認定された国家干渉主義者たちでいっぱいのソサイエティーが、
どうやって、自由で繁栄する国という目標を促進できるのだろうかと。

しかし、ミーゼスは、初めの疑念にもかかわらず、
モンペルラン・ソサイエティーの創立会員になった。
しかしながら、彼の予想は、正しいことが分かった。
有名な話だが、初期のモンペルラン・ソサイエティーの会合で、
ミーゼスは、演説者たちと討論者たちを社会主義者どもめと非難して退席した。
それが、本質的に、私がモンペルラン・ソサイエティーと接触した時、私の最初の印象でもあった。
そして、その印象が、それ以来、確証されてきた。
モンペルラン・ソサイエティーは、右翼の社会民主主義者が皆くつろげるソサイエティーである。
確かに、時折、変わったのが演説するよう招待されているが、
認定された国家干渉主義者たちによって会合は占められ、容認される対話の範囲が線引きされた。

このすべてが、ハイエクのせいに出来ないことは言うまでもない。
彼は、1992年の彼の死のずっと以前に、すでに、ますます、
モンペルラン・ソサイエティーを制御できなくなっていた。

とはいえ、ハイエクが、モンペルラン・ソサイエティーが成ってしまったものに大いに関係していた。
ミーゼスが、その時、すでに知ることが出来たように、そして、
ハイエクの「自由の条件」の出版で、1960年に、ついに明らかになったように、
ハイエク自身が、明らかな干渉主義者だったのだから。
この有名な本の第三部で、ハイエクは、スカンジナビア-ドイツ様態の社会民主主義の穏健派なら、
皆が容易に賛同できる干渉主義の計画にまみれた「自由」社会のための計画を練ったのである。

当時、私が、理解するようになったことが、これである。
古典的リベラルの観点から判断して、
モンペルラン・ソサイエティーの嘆かわしい展開は、偶然事ではないと。
むしろ、それは、ハイエクだけでなく、究極的には、
最小国家という彼の考えでミーゼスも犯していた、
根本的な理論上の欠陥の必然的な結果であったのだと。

この欠陥は、モンペルラン・ソサイエティーをさいなんだだけではなかった。
その子孫として、1960年代以来、西洋、合衆国に支配された世界中で現れた、
「制限された政府」のシンクタンク産業全体をさいなんだのである。
モンペルラン・ソサイエティーは、その「国際的」機能を引き受けたのである。
「制限された」もしくは「憲法に則った」政府という目標は、
フリードリヒ・ハイエク、ミルトン・フリードマン、ジェームズ・ブキャナン、その他、
モンペルラン・ソサイエティーの大公たちが、促進を試み、
こんにちの「自由市場」シンクタンクが、自らの目標として宣言しているが、不可能な目標なのだ。
円を四角にしようと試みることが、不可能な目標であるのと同じくらいに。
まず法と秩序の領土的独占を確立して、それから、その独占者が、
自分自身に有利に、その素敵な立法特権を使用することはないと、
期待することは出来ないのである。
同様に、紙幣製造の領土的独占を確立して、その独占者が、
ますます、お金を刷るその権限を用いることはないと、
期待することは出来ないのである。



国家の権力を制限することは、いったん、立法の領土的独占が与えられたら、
不可能な、自己矛盾した目標なのである。
それを競争に晒すこと、すなわち、そもそも、
いかなる種類の独占特権の発生も許さないことによる以外、
政府の権力を制限することが可能であると信じることは、
人間の本性が政府の設立の結果として変わると想定することである。
(社会主義が始まれば起こると社会主義者たちが信じている人間の奇跡的変容のようなものだ。)

すべては、制限された政府が、幻想的な目標であるということである。
それが可能だと信じることは、奇跡を信じることである。





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1952年、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、「自由のための計画」

 Ludwig von Mises

もしも、人間の誤りやすさと道徳的弱さを理由に、
レッセフェール(為すに任せよ)を退けるのであれば、
同じ理由で、あらゆる種類の政府の活動も退けなければならない。


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2004年9月、ハンス・ハーマン・ホップ、Najwyzszy czas

 Hans-Hermann Hoppe

確かに、ハイエクは、古典的リベラルを自称しています。
しかし、彼の「自由の条件」の第三部と「法と立法と自由」の第三巻を見れば、
まったく異なる印象を抱くことになるでしょう。

このすべてに照らして、ハイエクと、たとえば、
スウェーデンの社会民主主義者との違いは、どこですか?
ハイエクが、八十歳になった時に、
当時のドイツの社会民主主義のヘルムート・シュミット首相が、
彼に送った祝賀電報が、「今や、我々は、皆、ハイエク主義者だ」ですよ。
確かに、シュミットは、ハイエク主義者でしたが、
シュミットもハイエクも、古典的リベラルじゃないですよ!

しかしながら、私は、そこで、もっと邪悪なものが働いているのではないかと思います。
社会主義者の二重戦略と呼べるかもしれないものです。
多くの人々の頭の中では、「リベラル」という言葉は、常に肯定的な含意があったのです。
結局のところ、誰が、自由(リバティー)に反対したいですか?!
そして、筋金入りの、ソビエト式の、社会主義の壮観な崩壊の後、
リベラリズムの良い名は、ずっと良くなりましたが。
今時、誰が、社会主義者と呼ばれたがりますか?!
当時のハイエクのような良く知られた知識人が、不正確に、リベラルとして見なされるなら、
これによって、最も筋金入りの社会主義者を除いて、誰でも、リベラルに改名できます。
そして、ハイエクを「急進的」リベラルと呼ぶことで、
社会主義者出身のリベラルたちは、ハイエクによって唱えられているものよりも、
さらにもっと左翼の見解を採用して、それでも、リベラルであると主張し、
それと同時に、ミーゼスやマリー・ロスバードのような、
本物の古典的リベラルたちやリバタリアンたちを過激派として、
世の中の「ちゃんとした」意見の範囲の完全な外側に締め出すことが可能になります。


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2007年10月13日、ラルフ・レイコ、ミーゼス研究所25周年祝賀会

 Ralph Raico 

ええ、私は、信じませんけど。
実際には、私は、陰謀を信じています。
私の友人マリー・ロスバードが、よく言っていました。
陰謀は、どれも本当だと、ハハハ。


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2010年5月14日、ロン・ポール、「自由のための運動」地方会議、アイオワ州

 

時々、私たちは、陰謀を信じている人たちに近づき過ぎていると非難されます。
しかし、それに対する私の答えは、本当でない陰謀の話は信じるな、ハハハ。


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1978年、マリー・ロスバード、「新しい自由のために」

 Murray Rothbard

リバタリアニズムの信条は、西洋世界における17世紀、18世紀の
「クラシカル・リベラリズム」(古典的自由主義)の運動から、
特に17世紀のイギリス革命から現れた。
この急進的なリバタリアニズムの運動は、
その誕生の地、英国では部分的に成功しただけであったが、それでも産業と生産を、
国家統制の窒息的な制限と都市部の政府支援のギルド(特権的同業者組合)たちから
解き放つことによって、産業革命へと導くことが出来た。
西洋世界中で、クラシカル・リベラリズム(古典的自由主義)の運動が、
旧秩序と呼べるもの、何世紀の間その従属民たちを支配していたアンシャン・レジーム
(旧体制)に対する、力強いリバタリアニズムの「革命」だったからだ。
そのレジーム(体制)は、16世紀に始まる近世において、
封建的土地独占と都市部のギルドによる支配と制限という、より古い制限の蜘蛛の巣の上に、
絶対的な中央国家と神権による王の支配を押しつけた。
その結果が、統制、税金、中央(および地方)政府がお気に入りの生産者たちに授けた
生産および販売の独占特権という、活動を妨げる蜘蛛の巣の下でのヨーロッパの停滞であった。
新たな官僚的、戦争作りの中央国家の、特権商人たちとの同盟、
すなわち後の歴史家たちによって「重商主義」と呼ばれた同盟、
そして、支配する封建領主階級たちとの同盟が、旧秩序を構成していた。
それに対して、クラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちと急進主義者たちが、
17世紀と18世紀に立ち上がり反抗したのである。

クラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちの目標は、
個人の自由(リバティー)をその相互関係的な全側面においてもたらすことだった。
経済においては、皆と大勢の消費者たちを益する交換で創造し生産すべく、
税金が徹底的に減らされ、統制と規制が除去され、
人間のエネルギー、企業、市場が解放されることになった。
起業家たちは、ようやく、自由に競争、開発、創造できることになった。
統制の束縛は、同様に、土地、労働、資本からも解かれることになった。
個人的自由(フリーダム)と市民的自由(リバティー)が、
王やその手下たちの略奪と圧制に対して保証されることになった。
宗教は、何世紀の間、宗派たちが国家の支配を得ようと戦う時には
血まみれの戦争の原因であったが、あらゆる宗教たち、もしくは、非宗教たちが、
平和に共存できるように、国家の押しつけや干渉から解放されることになった。
平和も、新しいクラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちの外交政策の信条だった。
帝国と国家の権力と金(かね)の増強という昔ながらのレジーム(体制)が、
平和とすべての国家たちとの自由貿易という外交政策に取り替えられた。
そして、戦争は、常備の陸軍と海軍によって、常に拡大を求めている軍事力によって、
引き起こされると見なされたので、それらの軍事的設立物は、地方の民兵に、
自分たち自身の特定の家々と近隣の者たちを守るために戦いたいと願うのみの市民-民間人に、
取り替えられた。

このように、よく知られている「政教分離」の主題は、
「国家から経済の分離」、「国家から言論と出版の分離」、「国家から土地の分離」、
「国家から戦争と軍事の分離」として要約できる多くの相互関連する主題の一つに過ぎなかった。
実に、事実上あらゆるものからの国家の分離であった。

要するに、国家は、とても低い、ほとんど無視してよい予算で、
極めて小さくしておかなければならなかった。
古典的リベラル(自由主義者)たちは、決して、課税の理論を開発しなかったし、
増税とあらゆる新種の税金には、激しく戦った。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-815.html

2009年12月18日、ブライアン・ドーアティ、「二つのリバタリアニズムの話」

 Brian Doherty

(ロン・)ポールの運動は、戦争、お金、政府の役割について、
明白なリバタリアニズムの思想によって動機付けられた、戦後最大の民衆運動である。
認めれる知的指導者たち、アメリカのリバタリアニズムに影響を及ぼした者たちの、
他の誰の信念や流儀に直接影響されているというより、遙かにロスバード主義である。
ポールの聴衆は、ロスバードが彼の活動家人生全体について夢見たような、
反戦、反国家、反フィアット・マネー(法定不換紙幣)の大衆運動である。

彼らの大多数は、自分たちのリバタリアニズムを直接ポール自身から、
そして、ポールを囲むインターネット・コミュニティから、ほどんど学んでいる。

ロスバードが、彼の生涯で決して公表しなかった、また、そのつもりもなかった言葉の中で、
自由と政治秩序についてのハイエクの最も記念碑的な声明書を、
「驚くほどに、痛ましいほどに、極めて悪く、私ならば、有害な本とすら言うだろう。」と呼んだ。
この「有害」な部分は、それがリバタリアニズムの運動に与えると彼が考えた打撃から来ている。

ロスバードは、ハイエクの立場が、より急進的なリバタリアンたちにとって、
「ハイエクですら・・・を認めている」という弁論上の問題を創り出すと感じたのだ。
(それは、ある程度、その通りだった。)

実際、ハイエクは、中央計画の失敗、自由市場の価格システムの力に対する彼の信念、
そして、「社会的正義」の彼の取り壊しと、とても結びついているので、
彼に慣れ親しんでいる多くの人々は、ロスバードが彼を酷評した、
(アナーキー資本主義から見て)悪いことのほとんどを、
ハイエクが信じていたということを知って驚くのだ。


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2011年6月17日、ロン・ポール、The Mike Church Show

 

 Mike Church

ハイエクですか、ミーゼスですか?


 Ron Paul

ミーゼスです。


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2005年9月9日、ラルフ・レイコ、「革命家ミーゼス」

 Ralph Raico

実際、人間の歴史における階級、身分、地位、特権の状況は、どうだったのか?
前資本主義の歴史は、最も下劣な形態の中の、
奴隷制、農奴制、カーストと階級の特権の歴史である。
それは、奴隷所有者たち、武士貴族たち、宦官を作る者たちによって、
王たち、その妾たち、廷臣たちによって、
聖職者たち、その他の官吏である知識人たちによって、
様々な寄生者たちと抑圧者たちによって、作られた歴史である。
資本主義が、社会の重心全体を変えた。

陳腐だが本当であって社会学的に非常に重要な説明の中にある。
すべてのドルは、社会的気品を全く欠く者が所有しようと、
「卑しい生まれ」の者が所有しようと、ユダヤ人が所有しようと、
黒人が所有しようと、誰も聞いたことのない者が使用しようと、
他のすべてのドルと同等物であって、
有能な人々が提供すべく自分たちの生活を構築しなければならない、
市場における製品とサービスを指揮するのだ。

社会主義がもたらすエセ革命は、再び身分社会の出現に至り、
再び大衆が歩の駒の地位に零落する可能性が遙かに高いと、ミーゼスは主張した。
人間が意識的に彼自身の歴史を作るという、
自らを英雄的メロドラマの主題役に割り当てるエリートに管理されるのだ。


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2013年3月5日、ラルフ・レイコ、「クラウス?」

 Ralph Raico

済まないが、LRC(LewRockwell.com)の私の仲間たち数人には、不賛成を言わねばならない。
私に言わせれば、ヴァーツラフ・クラウスは、まったく自由(フリーダム)の英雄ではなかった。
1940年代半ば、 ドイツ国防軍(Wehrmacht)が、ボヘミアとモラビアから撤退した。
そして、ピーピーも言っていなかったチェコ人たちが、(いくらかレジスタンス兵たちが、
英国から空輸されなければならなかった。)突然、自分たちが成人であることに気づいた。
エドヴァルド・ベネシュに率いられて、
すべてのドイツ人たちが、ズデーテンラントの自分たちの先祖代々の土地から、
プラハその他から、追い出された。
「チェコスロバキア」は、最初から、ヴェルサイユでデッチアゲられた詐欺だった。
それは、スロバキア人たちよりも多くのドイツ人たちを含んでいた。
そして、スロバキア人たちは、チェコ人たち有利に差別されていた。
(ドイツ人たちと一緒に追い出された)ハンガリー人の少数派のように。
おそらく、150万人のドイツ人たちが、冷酷な追放で死んだ。
ほとんどすべての女性たち、子供たち、老人たちだ。
何年か前、チェコの大統領ヴァーツラフ・ハヴェルは、
世論を無視して、その犯罪に対して謝罪した。
ヴァーツラフ・クラウスは、これ見よがしに、そうすることを拒んだ。
だから、クラウスは、決して自由(フリーダム)の戦士ではない。
よくいる道徳不在の中道右派の政治屋である。

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アメリカ帝権の創立者


2014年8月8日、ルー・ロックウェル、「誕生日おめでとう、トム・ディロレンゾ」 

 Lew Rockwell

トムが、今日で60歳である。
彼を見て、そうは決して言えないだろうけれども。
経済学とアメリカ史の素晴らしい教師であり学者である。
業績を一つだけ取り上げるならば、
彼が、リンカーンについての意見の雰囲気を変えた。
我々の自由(フリーダム)を、その上、世界の大半を、
台無しにすることに取りかかったアメリカ帝権の創立者である。



この体制による聖エイブラハムについての嘘を繰り返し語る際に、
安全を感じられる教授やジャーナリストは、トムのおかげで居るまい。
あまりに多くのアメリカ人たち、特に学生たちが、真実を知っている。
トム、お誕生日おめでとう、おめでとう。








 





  


 





 









































 


 


  





 


 


 







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