リンカーンを援用する者たちは血なまぐさい


2013年6月2日、トーマス・ディロレンゾ、The Daily Bell

 Thomas J. DiLorenzo

リンカーン神話が、アメリカの国家統制主義のイデオロギー上の礎石です。
「人気の無いリンカーン氏、最も罵られたアメリカの大統領」と題された、
歴史家のラリー・タッグによる優れた本によれば、
彼は、実際には、すべてのアメリカの大統領たちの中で、その生涯で最も憎まれた者でした。
暗殺されてほしいという願いを、ニューヨーク・タイムズが社説にしたほど、
彼は、北部で憎まれていました。
これは、まったく理解できることです。
彼は、ヘイビアス・コーパス(人身保護令状)を不法にも停止しました。
そして、デュー・プロセス(適正手続)無しで、
北部の政治批判者たちを何万人も刑務所に入れました。
反対する300以上の新聞たちを閉鎖しました。
南部を侵略することによって、反逆罪を犯しました。
(憲法第三章第三節が、反逆罪を「諸州に対して戦争を始めること」
 または「その敵たちに援助および便宜を与えること」と定義しているが、
 もちろん、それが、まさしく、リンカーンが行ったことである。)
彼は、1863年に、ニューヨーク・シティーの徴兵抗議者たち何百人を殺して徴兵制を敷いて、
彼の軍隊からの脱走者たちを大量に死刑にしました。
彼は、議会にいる批判者たちを国外追放にしましたし、
銃器を没収しましたし、最高裁判所長官に逮捕令状を出しました。
その法学者が、法律上、議会のみが、
ヘイビアス・コーパス(人身保護令状)を停止できるという意見を述べた時にです。
彼は、この二年間に発表された新しい研究によれば、
85万人ものアメリカ人たちの死という結果になった不必要な戦争を遂行しました。
それは、こんにちの人口を基準にすれば、
四年間の戦争で、850万人のアメリカ人の死に相当します。



リンカーンは、共和党によって神格化されました。
その戦後半世紀、政府を独占した党です。
ピューリッツァー賞を受賞した小説家ロバート・ペン・ウォーレンが、
彼の本「南北戦争の遺産」の中で書きました。
いかに凶悪で帝国主義的であろうと、これまでに行ったことを何でも「正当化」するために、
アメリカ国家によって解釈された(そして、されている)「偽りの美徳」のイデオロギーを、
この神話集が創り出したと。
もしも、この「偽りの美徳」を信じるのなら、
それが、また、「アメリカ例外主義」のスローガンで通っているものですが、
リンカーンと彼の戦争についての真実は「忘れられなければならないのだ」と。

リンカーンは、国家主義者であり、帝国主義者でした。
彼は、アレグザンダー・ハミルトンの政治的息子でした。
大衆を犠牲にして金持ちのエリートたちに仕える政府を唱えた者です。
それゆえに、生涯にわたり、保護貿易主義の関税、企業福祉、
そのすべてに資金供給する中央銀行の擁護。
それは、前の世紀には、「重商主義」と呼ばれていたものであり、
アメリカの入植者たちが革命で戦った、まさしく、そのシステムでした。


 Anthony Wile

リンカーンについての最近のスティーブン・スピルバーグの映画について、どう思われましたか?
リンカーンを擁護する者たちが、ますます必死になっていると?


 Thomas J. DiLorenzo

はい、リンカーン・カルトは、必死になっています。
スピルバーグは、その映画についての自分の助言者として、
ドリス・カーンズ グッドウィンを雇いました。
自らそう認めた剽窃者です。
あの映画の主題は、歴史的真実とは、まさしく反対のものです。
あの主題は、リンカーンが、奴隷制を終わらせた修正第13条を議会通過させるのを助けるために、
彼の伝説的な政治的手腕を用いたというものです。
しかし、ハーバードのデイヴィッド・ドナルドによる、
リンカーンについて最も権威ある伝記を読めば、
リンカーンは、本当の廃止主義者たちを助けるために何もしなかっただけでなく、
彼らが、彼のところに行き、彼に助けを求めた時に、
文字通り、彼らを助けることを拒んだことが分かります。
リンカーンは、より早く提案された修正第13条を下院上院通過させるために、
彼の政治的手段を用いました。
それは、コーウィンの修正案と呼ばれ、
南部の奴隷制に干渉することも連邦政府に禁じるものでした。
ドリス・カーンズ グッドウィンですら、彼女の本「ライバルたちのチーム」の中で、
それについて書いていて、オハイオ州の議員の名前が付けられたその修正案が、
どのように、実は、エイブラハム・リンカーンの作品であったか、論じています。


 Anthony Wile

いったい、なぜ、そうなのですか?
より大きくなり、続けられている、現代の合衆国例外主義の神話に、
リンカーン神話が、中心的なものであると?
誰が、これらの神話を広めていて、誰が利益を得ているのですか?


 Thomas J. DiLorenzo

リンカーン神話が、「アメリカ例外主義」のイデオロギー上の礎石であり、
何でもあらゆることを「正当化」するために、両方の大政党たちによって援用されてきました。
オバマ大統領が、昨年九月、国連での演説の中で、また、二番目の就任演説の中で、
シリア、イラン、その他の場所で、さらに攻撃的な戦争を行う彼の行動計画を支持するために、
リンカーンを引用し言い換えました。
特に、彼は、ゲティスバーグの演説から、
「すべての人は平等に創られている」のくだりを繰り返しました。
必要なら銃を突きつけて、世界中すべて、
どこでも男たち女たちすべてに「自由(フリーダム)」を強いることが、
どういうわけか、アメリカ人たちの義務だと主張するためにです。
これが、「正当化」するためにリンカーン神話が用いられている、
人殺しの、破産している、帝国主義のゲームです。


 Anthony Wile

リンカーンを文脈に入れて、なぜ、続けられている神話が、
現在の英米圏の権力構造にとって、それほど重要なのですか?


 Thomas J. DiLorenzo

国家は、政府お仲間の資本主義(クローニー・キャピタリズム)を、
外国に銃を突きつけて押し付けることが出来るよう、
また、軍産複合体が、引き続き、何十億ドルかき集めることが出来るよう、
攻撃的で反憲法的な戦争で何千人死ぬために、
自分たちの息子たち娘たちを送って、自分たちを破産させていると、
人々に言うことは出来ません。
それを言えば、革命の危険を冒すかもしれません。
そこで、代わりに、アメリカの美徳とアメリカ例外主義、民主制(デモクラシー)という「神」など、
そういうものについての幸せ話を用いなければなりません。
そして、H.L. メンケンが「バカジョワジー」の一部と呼んだ平均的アメリカ人が、
それを信じているのです。


 Anthony Wile

リンカーンは、英国の「金権」に逆らって、政府紙幣(グリーンバック)を発行したのですか?
言い換えると、彼の戦争は、欧州の植民地主義に対する反乱行為として遂行されたのですか?
リンカーンは、ニューヨークの銀行エスタブリッシュメントの奴隷だったというのが、
我々の観点からは、もっともらしいですが。


 Thomas J. DiLorenzo

インターネット上では、どんな奇人でも、狂ったことを言い、異様な陰謀論を提示できます。

それらは、本物の経済学を学ぶ知能を持っていない人たちです。
だから、狂った陰謀論について、ぺちゃくちゃ話し続けるのです。

リンカーンは、1832年から自分の死ぬ日まで、
政府運営の銀行によって資金供給される低利信用を欲していた、
アメリカの銀行産業および北部の製造企業たちのためのロビイストとして、
自分の全生涯を政治に費やしました。
彼は、彼の政治的先祖であるハミルトンによって元々設立された、
腐敗し不安定だった合衆国銀行の復活のための演説に何十年間も費やしました。



バージニア大学の歴史家Michael Holtによれば、アメリカのホイッグ党の歴史に関する本の中で、
リンカーンほど、アメリカの銀行エスタブリッシュメントと親密なホイッグ党員はいなかったと。
ホイッグ党の行動計画は、それが、常に、リンカーンの行動計画でしたが、
Edgar Lee Masters(Clarence Darrowの法律事務所の共同経営者)によって、
彼の本「Lincoln the Man」の中で、鮮やかに記述されています。
その行動計画は、「政府に対する忠誠を勝ち取り維持するために、
強者たちに優遇を配分する政治システム」を擁護することでした。
それは、「独立できない企業たちに利益を得させるために課税される人民」を唱えました。
ホイッグ党が「発表する綱領を持たなかったのは、
その方針が、略奪に他ならなかったから」だと、Mastersが書いています。
リンカーン本人が、ホイッグ党の偶像であり長年にわたる指導者、ヘンリー・クレイから、
自分の政治思想すべてを得たと、かつて言いました。


 Anthony Wile

あなたの最近の本「偽りの美徳、アメリカを共和国から帝国に変えた神話」に話を切り替えましょう。
我々の読者たちにとって、それは、どういうものなのか、なぜ、あなたが、それを書かれたのか、
説明していただけますか?


 Thomas J. DiLorenzo

それは、私が、いまも取り組んでいるものです。
アメリカの帝国主義の外交政策を下支えするために、いかにして、リンカーン神話が、
過去150年ほどの間に用いられてきたかの話から、本にまとめる計画です。

その他にも、戦争の政治と経済についての本に取り組んでいます。

戦争は、その戦争に勝とうが負けようが、国の経済に対して常に破壊的です。
戦争は、資本主義の反対のものです。
資本主義は、国際的な分業に基づいた、市場価格での平和的な相互に有利な交換のシステムです。
戦争は、国際的な分業を破壊し、平和的、資本主義的な交換から死と破壊へと資源を逸らせます。
しかしながら、常に、戦争で暴利をむさぼる者たちがいます。
軍隊に売ったり資金供給することから利益を上げる人たちです。





 Anthony Wile

いくつかの、もしくは、それ以上の「これら連合諸州」にとって、
離脱が、やがて起こりそうだと、いまも信じておられますか?


 Thomas J. DiLorenzo

以前のソビエト帝国の農奴たちにとっては、ありがたいことに、
リンカーンではなく、ゴルバチョフのような全体主義の共産主義者しか、
対処するのに、いませんでした。
平和的な離脱が、平均的アメリカ人にとって、この新しい奴隷制から抜け出る唯一の方法です。
そして、それは、我々が、リンカーンよりゴルバチョフに近い大統領を持つ場合に限り起こります。
それが、リンカーン神話を破壊する必要がある、もう一つの理由です。


 Anthony Wile

連邦政府と諸州の間の敵対は、深まっていますか?


 Thomas J. DiLorenzo

当分の間、アメリカのバカジョワジーは、
連邦政府が、どれほど奴隷化を自分たちに加えることを提案しても、幸せそうです。
しかしながら、ハイパーインフレがあったり、オバマの社会主義化医療によって、
自分たちの医療システムが破壊される時には、もしくは、
ずっと合衆国政府がいじめている小ちゃな比較的無防備な国々の一つが、
大きく報復する方法を考え出したら、それは、変わるかもしれません。
それが、バカジョワジーに、ついに、このような問いを尋ねさせるかもしれません。
CIAによって選ばれた異なる独裁者によって、シリアの人々が支配されるよう、
私の子供たちは、本当に、犠牲になって、死へと送られなければならなかったのか?





 Anthony Wile

離脱は、合法な、憲法上の権利なのではないですか?


 Thomas J. DiLorenzo

憲法第七章が、この文書は、独立宣言の中で、そう呼ばれた、
「自由な独立した諸州」によって批准されたのだと説明しています。
建国者たちの連合は、自発的でしたし、いくつかの州たちは、
将来、もしも、自分たちの権利について破壊的になれば、
その連合から脱退する権利を留保しました。
各州が、その連合の中で、等しい権利を持っていましたから、
それが、すべての州たちに当てはまることになりました。
だから、南北戦争の当初、北部の新聞たちの圧倒的多数が、
平和的な離脱に賛成する社説を書きました。
彼らのほとんどは、政府たちは、統治される者たちの同意から、その正当な権力を引き出す、
また、その同意が撤回される時には、その政府を廃止して、新たなものを形作るのが、
人民の義務だと言っている宣言から、ジェファソンを引用しました。

リンカーンが、このように、建国者たちの自発的な連合を破壊し、
将来、ジェファソンの主張をし、それに従って行動しようと試みる州には、
その一般市民たちに対して全面戦争が行われるという、脅迫で結合された、
ソビエト型の強制的な連合に置き換えたのです。
南北戦争の前夜に、離脱を違法化するいくつかの連邦法が提案されたことが、物語っています。
これが起こったのは、離脱は完全に合法であり憲法に則っていることを、
当時、誰もが理解していたからです。

力が、正義を作るのではありません。
ですから、はい、離脱は、どの自由社会の人々も持つべき権利です。





 Anthony Wile

西洋その他での大規模な戦争、種々選挙民の操作に関しては、
20世紀と19世紀よりは、21世紀は、希望が持てませんか?


 Thomas J. DiLorenzo

一つ、19世紀の良かった点は、公立学校で洗脳する官僚機構が、
まだ、あまり発達していなかったことです。
こんにちでは、それが、発達していることは、確かです。
それだから、アメリカは、こんな国家統制主義の羊の国になってしまったのです。


 Anthony Wile

アメリカは、より自由な、より自立したモデルへと立ち返りますか?


 Thomas J. DiLorenzo

平和的な離脱が起こるのを許された場合に限り。


 Anthony Wile

南北戦争前のモデルが、将来、より存立可能な社会の雛形ですか?


 Thomas J. DiLorenzo

もちろん、奴隷制を除いて。
連合および永遠の連合規約(Articles of Confederation and Perpetual Union)が、
それに取って代わった憲法より、遙かに優れていました。


 Anthony Wile

我々は、戻れますか?
歴史は、直線的ですか、循環的ですか?


 Thomas J. DiLorenzo

私は、そのような決定論を信じません。
我々は、間違いを正せるのです。
我々は、1980年代に、石油と運輸の規制撤廃を行いました。
社会主義は、1980年代と1990年代初めに崩壊し、より市場志向の体制に取って代わられました。


 Anthony Wile

他の意見や予測は?


 Thomas J. DiLorenzo

共和党は、さらにさらに意味がなくなり、力を失い続けるでしょう。
民主党のエスタブリッシュメントが、ついに、彼らの仮面を剥ぎ取り、
彼らが常にそうだった全体主義の社会主義者としての本性を現すでしょう。
そして、政治の未来は、若いロン・ポール主義者たちのものになるでしょう。








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高い度合いの集計で目くらまし


1992年、ロジャー・ガリソン、「ミルトン・フリードマンは、ケインズ主義者か?」

 Roger W. Garrison

彼は、そうではないが、彼は、そうである。

ある州立大学の地理学部で初任レベルの地位の面接を受けていた若い求職者についての話がある。現代の我々の教育システムについて特に高く評価していなかったの一人の年長の教授が、「ミシシッピー川は、どちらに流れていますか?」と、単純な問いを尋ねた。この他ならぬ地理学部の偏向について知らずに、自分の雇用見込みを危うくすることを恐れて、その求職者は、大胆にも、こう返答した。「私は、どちらでも、それを教えることが出来ます。」

この「ミルトン・フリードマンは、ケインズ主義者か?」という問いが、話題として、最初、私に持ちかけられた時、私は、つい、その中立の地理学者のことを考えてしまった。しかし、この場合、反対する答えは、いっさい大学人の体面を損なうことなく擁護できる。

私は、「ケインズ」と「フリードマン」の名を初めて聞いている学生たちに対して、大学二年レベルで教える時に、「ケインズ革命」と「マネタリスト反革命」の標準的な話から自然に出てくる型通りの対比を行う。この入門的な扱い方の文脈では、マネタリズムは、ケインズ主義の正反対のものである。そうでないと主張することは、大学人の不良行為を犯すことに近づくであろう。ケインズとフリードマンが書いたものについて、ちょっとした調査でも、入念な研究でも、この二人の理論家たちが対極にいる多くの論点を明らかにする。

けれども、フリードマンは、ケインズ主義者であり、仲良し学者のままだと主張することも出来る。Don PatinkinとHarry Johnsonの両者が、フリードマンの貨幣理論を、一般にケインズと結び付いている考えの延長として見ている。しかし、彼らの議論のいくつかは、オーストリア学派の議論に反しているが、それは、この章の基礎として役立つ。

そして、フリードマンが、彼自身の話で、「今や、我々は、皆、ケインズ主義者である」と言ったと文脈外で引用されたが、彼が文脈内で述べたことは、オーストリア主義の評価と完全に一致している。二十年以上前、タイム誌の記者とのインタビューの間に、フリードマンは、こう発言した。「ある意味では、今や、我々は、皆、ケインズ主義者です。別の意味では、もはや、誰も、ケインズ主義者ではありません。」この二つの意味は、その後の彼の詳述の中で確認された。「我々は、皆、ケインズの言語と装置を用います。我々は、もはや、誰も、初めのケインズの結論を受け入れません。」

PatinkinとJohnsonが、貨幣需要に対するフリードマンの注目および、特に彼が金利を貨幣需要の決定因子の一つとして含めることが、彼をケインズ以前の貨幣理論家たちよりもケインズに近づけているとおのおの論じている。フリードマンは、貨幣需要関数に金利を含めることは、自分の理論的枠組みの特徴のうちで小さめなものだと主張することによって応答した。

オーストリア主義の貨幣理論家たちは、金利に対して、フリードマンが払うより多くの注意を払い、ケインズが払った同程度に注意を払うが、金利の論点に関して異なる見方を持っている。ケインズとフリードマンの両者は、経済の資本構造に対する金利の変化の影響を無視した。オーストリア主義の観点からは、共通する「言語と装置」に由来するこの怠慢の罪が、ケインズ主義とマネタリズムの両方をオーストリア主義の同じ批判対象にする。


ケインズ主義: 「貨幣論」から「一般理論」まで

「今や、我々は、皆、ケインズ主義者である」と述べることが、マネタリズムとオーストリア主義の両方の観点から、本当であるという意味は、制限された「皆」を伴うことに注意することが重要である。マネタリストたちは、含まれている。オーストリア主義者たちは、含まれていない。これらの思想学派たちの間の本質的な違いを引き出すことは、フリードマンの貨幣数量説の再述以前に遡る、そして、ケインズの「一般理論」以前にすらも遡る、共通する「言語と装置」を考察することから始めることを要す。オーストリア主義者たちは、ケインズの最も初期のマクロ経済学に基づいて、ケインズの反対者と見なすことが出来る。

ケインズの二巻の「貨幣論」は、1930年に世に出たが、カール・メンガーとオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクから着想を受けた経済学者たちには、評判が良くなかった。ケインズの「貨幣論」に見られるマクロ経済学は、ケインズ理論として、こんにち容易に認識できないが、理論上の構成ブロックと構築方法は、大部分、同じである。貯蓄、投資、産出量のマクロ経済的集計量が、金利と価格水準に均衡値を確立する形で、お互いに対抗するのである。

ケインズ主義の初期の説明について広げられた批評の中で、F.A. ハイエクが、多くの矛盾と曖昧を見つけたが、彼の最も基本的な不満は、ケインズの理論化の方法に由来していた。ケインズの「言語と装置」にである。「ケインズ氏の集計量は、基本的な変化の仕組みを隠す。」

ケインズは、利子率の変化は、投資部門全体の利益率には重要な影響を持たないと論じた。ハイエクの主張点は、部門全体的に計算される利益は、生産活動を統率する市場の仕組みの重要な部分ではないことだった。利子率の変化は、ある産業たちの利益予想は上がるが、他の産業たちの利益予想は下がることを意味するのだ。産業たちの間の利益率の系統的違いこそが、関連する「変化の仕組み」を構成しているものなのである。それらの率の平均や集計ではなくて。

「貨幣論」と「一般理論」の間の六年間に、ケインズの思考に根本的な変化があったが、ハイエクの批判に応答していると考えられるものは何も無かった。「一般理論」の中では、未来について見通せない不確実性が、投資家たちと財産保有者たちの決定過程を曇らせたのだと。金利は、完全にではなくとも大部分、経済的現実から離れた、慣習と心理の産物になったと。市場状況の変化は、価格や金利の調整よりも、むしろ、所得の調整によって、調節されるのだと。失業均衡が、標準的事態になったと。

彼が実際に書いたものについての選択的読みが、彼が書くつもりだったかもしれないものについての創造的読みは、もちろんのこと、ケインズのメッセージについて対立する解釈を生じさせてきた。多くの場合、マクロ経済の問いに対するケインズ主義の答えについての相違は、関連するマクロ経済の問いが何であるかについての相違に由来している。

ケインズは、特定において、どのように、市場たちが、実際に働くのか、尋ねているのか、それとも、一般において、なぜ、市場たちが、うまく働かないのか、尋ねているのか? より具体的には、利子・非弾力的な投資資金需要は、彼の理論の中に重要に入るのか、それとも、投資需要の不安定性は、実は、商業世界の「アニマル・スピリッツ」によって駆り立てられていて、どんな利子・非弾力性の考慮も圧倒するのか? 非常に利子・弾力的な貨幣需要は、彼の理論の中に重要に入るのか、それとも、貨幣需要の不安定性は、実は、「流動性の崇拝」に基づいていて、どんな利子・弾力性の考慮も圧倒するのか?

G.L.S. ShackleとLudwig M. Lachmannのような解釈者たちは、未来を包み隠す蔓延する不確実性と長期予想の全くの根拠の無さに焦点を当てるが、アニマル・スピリッツに大きな重要性を負わせるのは、それが投資市場における強気と弱気に影響を与えるからであり、流動性の崇拝に大きな重要性を負わせるのは、それが市場のいずれかの側に打ち込む意欲に影響を与えるからである。財産保有者たちは、流動性を手放すのに、乗り気な時もあれば、それほど乗り気でない時もある。投機家たちは、自分たちの投資決定において、強気な時もあれば、弱気な時もある。

そのような振る舞いは、連続的に変化する市場状況を生じさせ、連続的に変化する価格の型を生じさせる。市場経済における連続的な価格の型は、経済学者にも起業家にも予想できず、万華鏡の中の連続的なカットガラスの型にたとえられる。

この市場過程の見方では、価格、賃金率、金利が、時間上での生産活動の調整と一致する、もしくは、それらが、時が経てば、どの時点でも、労働者の完全雇用と一致するとすら、予想する理由が無いことは、確かである。このケインズ主義の要素が時々そう呼ばれる「ケインズ主義の万華鏡」は、市場経済の作用についての特定の理解というより、むしろ、何かそのような理解が可能であることの否定である。フリードマンが、この意味では、ケインズ主義者でないことは、明らかである。

John HicksとAlvin Hansenのような解釈者たちは、その焦点が、ケインズの不確実性の雲を貫通したが、その対応する均衡状態とともに、総所得と金利の決定値を含む、振る舞いの関係一式を識別した。最も基本的な公式化では、純投資は(I)は、純貯蓄(S)に等しくなければならない、そして、流動性需要(L)は、貨幣供給量(M)によって調節されなければならない。

このIS-LMの枠組みが、より広くは、所得・支出分析と呼ばれているが、多くの方面で、しかし、オーストリア主義の方面ではないが、マクロ経済理論すべてに共通する分析装置として考えられるようになった。投資と貨幣需要の安定性、金利の弾力性、価格と賃金の硬直性についての適切な前提が、ケインズ主義かマネタリズムどちらかの結論を引き出すことを可能にする。


フリードマン対、ケインズ

所得・支出分析の文脈内では、フリードマンのマネタリズムを、ケインズ主義の正反対であると考えることは、適切である。ケインズ主義者たちとマネタリストたちは、両方とも、オーストリア主義者たちが最も重要なものの一つと信じている論点を遮断するものである、同じ高い度合いの集計を受け入れているが、それらマクロ経済的集計量の間の関係の本質については、鋭い意見の相違を持っている。いくつか、そのような意見の相違は、多くが、フリードマンによって報告もしくは含意されており、次の一覧に含まれている。

1.
ケインズ主義者たちは、金利は、完全にではなくとも大部分、貨幣的現象であり、貨幣の需要と供給によって決まると信じている。マネタリストたちは、金利は、大部分、実質的現象であり、貸出可能資金の需要と供給によって、すなわち、投資部門での実際の機会と制約を忠実に反映している市場によって、決まると信じている。

2.
ケインズ主義の見方では、金利の変化は、(総)投資にほとんど影響を持たない。マネタリズムの見方では、金利の変化は、(総)投資に実質的効果を持っている。この違いは、ケインズ主義者たちの短期志向とマネタリストたちの長期志向を大いに反映している。

3.
ケインズ主義者たちは、金融政策が国民所得に影響を及ぼす狭い経路の仕組みを考える。具体的には、貨幣創出が、金利を下げて、それが、投資をそれゆえに雇用を刺激し、それが、次に、何弾もの支出増加と実質所得増加を生じさせる。効果の特定の経路に対するほとんど排他的な焦点が、投資需要は利子・非弾力的であるという信念とともに、経済活動を刺激もしくは遅らせる手段として、金融政策よりも財政政策を選ぶケインズ主義の好みを説明する。

政府支出は、雇用水準に直接影響する。貨幣創出は、間接で弱い影響しか持たない。マネタリストたちは、貨幣創出が、新しい投資財のみならず古い投資財にも、金融資産のみならず実物資産にも、投資財のみならず消費財にも、あらゆる方面で支出を刺激する極めて幅広い市場の仕組みを考える。名目所得は、貨幣創出の直接結果として、周りすべてで、より高くなるが、実質での安定した貨幣需要で、価格水準は、実質所得が影響を受けないよう、名目貨幣成長に正比例して上がる。

4.
ケインズ主義者たちは、長期利益予想は、いずれにせよ実際には何ら根拠を持っておらず、予期せぬ変化を受けやすいと信じている。経済繁栄は、根拠無き楽観主義に基づいていて、経済不況は、根拠無き悲観主義に基づいている。マネタリストたちは、利益予想は、大体において、実際に存在している消費者の選好、資源の制約、技術的要因を反映すると信じている。

5.
ケインズ主義者たちは、経済下降は、市場経済に特徴的な不安定さに起因すると信じている。商業界への不合理な説明できない信頼喪失によって引き起こされる、突然の投資資金需要の崩壊に続いて、何弾もの支出と収入の減少があるのだと。マネタリストたちは、経済下降は、無能もしくは誤り導かれた金融政策に起因していると信じている。不当な貨幣収縮が、より少ない貨幣供給量に名目賃金と物価が順応している期間に、所得および産出量水準に下向きの圧力をかける。

6.
ケインズ主義者たちは、経済全体の失業、遊休工場、売れ残り商品の状況では、物価と賃金が、それらの市場清算水準にまで下がって順応しないと信じている。もしくは、十分に早く順応しないと。もしくは、下がる物価と下がる賃金が共食いするので、そのような調整が行われる市場過程は、悪く働くのだと。

7.
マネタリストたちは、そのような悪いことは、仮に存在するとしても、市場過程で重要な役割を果たすとは信じていない。その代わり、物価と賃金は、市場状況に順応できるし順応すると信じている。そのような調整が完璧でも即座でもないことは、マネタリストの判断では、政府の干渉を擁護する何の根拠でもない。物価と賃金を存在する市場状況に調整する市場過程は、市場状況を存在する物価と賃金に調整しようとする政府の政策より好ましい。


共通する言語と装置に対するオーストリア主義の見方

HicksとHansenによって解釈されたケインズ主義と、フリードマンによって概説されたマネタリズムの間の対照は、彼らの共通する分析の枠組みに基づいている。この共通する枠組みについての認識が、「マネタリズムは、 ・・・ マクロ経済学の他の優勢な支流、ケインズ主義のそれとは、その基本的な接近法が異ならない」というGerald P. O'DriscollとSudka R. Shenoyによる評価の基礎にある。

しかし、ケインズ主義とマネタリズムの所得・支出分析は、ケインズの「貨幣論」での分析に劣らず、ハイエクの初期の批判対象である。その集計量は、最も基本的な変化の仕組みを隠すのだ。その対立する主張の多くは、ケインズ主義者たちとマネタリストたちの、それぞれ、短期と長期の志向の観点で、そして、彼らの哲学上の対照的な志向の観点で、和解が可能であるが、どちらの見方も、投資の集計内部での市場の仕組みの作用もしくは失敗を考慮に入れていない。

オーストリア主義のマクロ経済学は、投資部門内部での、オーストリア主義の用語を用いると、経済の生産構造の内部での、金利の変化の差異効果に、その注意を払うことによって、ケインズ主義とマネタリズムの両方から区別される。例えば、金利の下落は、生産構造の組織的変化をもたらす。より低い金利は、より近い未来のための生産よりも、より遠い未来のための生産を奨励する。それは、比較的に、より耐久的な資本設備の生産および使用のみならず、より時間を消費もしくは迂回する生産方式を奨励する。

金利の下落によって作動する「変化の仕組み」は、異なる生産段階の間での利益差異で構成される。それらの差異を取り除く市場過程が、より後の生産段階から、より早い生産段階へと、資源を再配置する。それは、時間間の生産構造に未来志向をより与える。

この金利の低下によってもたらされる資本の再構成の最終結果は、その低下の根拠に根本的に依存している。もしも、より低い金利が、市場参加者たちの側で増した貯蓄意欲の反映であれば、その資本の再構成は、新しい時間間の選好に合うように生産過程を調整する役割を果たす。この種の絶え間ない再構成が、技術の進歩と並んで、経済成長の本質である。

しかしながら、もしも、より低い金利が、信用市場を通した、新しく創り出された貨幣の注入によってもたらされたなら、資本の再構成は、市場参加者たちの時間間の選好とは合致せず、必然的に不運をもたらす。人為的な低利信用の拡大によって特徴付けられる期間は、その後に続いて、累積的な信用需要が真正貯蓄を凌駕した時、高金利の期間がある。人為的な、信用によって誘発された好況は、必然的に不況に終わる。

オーストリア主義の景気循環理論は、人為的な好況を不況に変える市場過程を識別する。投資部門内部での資源の誤配置は、続いて起こる清算と再配置を必要とする。その誤配置が、広大なほど、その清算は、より混乱的である。

例えば、1920年代の低利信用が長引いた期間の後、比較的長期の計画から比較的短期のものへの相当な資本の再配置が、経済の健康回復には不可欠であった。通常よりも高い失業水準は、経済の過剰投資部門で自分たちの仕事を失った労働者たちが、他の部門へと吸収された期間を特徴付けた。

人為的な好況と結果として生じる不況を説明することは、ケインズ主義の所得・支出分析の一部ではないし、マネタリズムの分析の不可欠な部分でもない。好況と不況の間の重要な関係の不在は、投資部門を集計で扱うことの避けられざる結果である。その分析上の見落としは、ケインズ主義の分析における理論的定式化および、マネタリズムの分析における経験的観察に由来している。しかし、オーストリア主義の観点からは、その方法と実質の違いより、ケインズ主義とマネタリズムの共通する意味合いのほうが重要である。すなわち、マクロ経済的に重要な意味を持つ好況と不況の循環が存在しないということ。

「一般理論」では、ケインズが、彼自身の利子理論を古典理論と対比した第14章でのように、利子が、あたかも貨幣的考慮のみに依存しているかのように時々扱われる。貨幣の需要と供給(のみ)が、均衡利子率を決定し、それが、次に、投資水準をそれゆえに雇用水準を決定する。その本質的に一方向の決定性の連鎖は、貯蓄と投資の決定の型が、いかなる影響を金利に及ぼすことも考慮に入れない。

このケインズ主義のマクロ経済学の純化版は、「一般理論」から現代の教科書への翻訳を生き残らなかったが、それは、IS-LMの構成の特例として容易に表せる。LMの曲線が、流動性選好か貨幣供給量の変化で上下に動く水平線である場合である。より正式な用語を用いれば、利子率が、他の内生変数から独立して決定できるほど、連立方程式が、再帰的である。この枠組みの中には、オーストリア主義者たちによって思い描かれた、好況-不況の循環の余地は全く無い。

より一般的なIS-LMの枠組みでは、利子率と投資、貯蓄、所得の水準は、順次ではなく同時に決まるが、ケインズは、二方向の原因の連鎖の結果であるかもしれない、これらの大きさにおけるどんな循環運動も軽視する。その代わり、彼は、経済停滞の、すなわち、永続する長期失業の可能性を強調する。「一般理論」の第18章、彼の棚卸しの章で、ケインズは、経済の完全雇用の潜在能力を大幅に下回る所得水準のあたりで、所得のそれゆえに雇用の小さめの変動が存在する経済を思い描く。

ケインズが、資本主義の本質に固有と考えられた循環的変動を説明しようとしたのは、彼の「一般理論によって示唆される短い覚書」においてのみである。危機、つまり、上位転換点は、商業界に動機を与える長期利益予想の、すなわち、「移り変わり当てにならない証拠に基づいた」、「突然の激しい変化を受けやすい」予想の、変化によって引き起こされる。回復、つまり、下位転換点は、危機の時に存在した資本の耐久性によって支配される。しかし、このケインズの見方では、経済は、その完全雇用の潜在能力までではなく、ある失業の均衡水準までしか回復しないのだ。

さらに述べると、ケインズは、政策変数としての貨幣供給量から、政策目標としての投資(およびそれゆえに雇用)への一方向の原因の連鎖を認識する。貨幣当局が、貨幣供給量を増やす。金利が、貨幣需要が供給量を使い果たすまで下がる。投資が増えて、雇用も同様に。金利が、永久的に、より低く、投資と雇用の水準が、永久的に、より高いという新しい均衡が確立される。所得・支出の枠組みでは、投資の時間的な型が、その分析の中に入らず、本物の好況と人為的な好況の区別は、それ自体、人為的な区別なのだ。


フリードマンの引っ張りモデル

ケインズ主義の分析は、信用によって誘発される好況が不況に至るというオーストリア主義の考えを反証しない。高い度合いの集計を採用することによって、この論点に焦点を合わせることが出来ないだけである。オーストリア主義の考えは、マネタリストたちによっても反証されない。好況と不況の間の関係についての手掛かりのために、高度に集計された統計分析に頼ってる。典型的な下降を特徴付ける総産出量の水準は、先立つ上昇と相関しないが、下降の大きさは、「続いて起こる」上昇の大きさに関係しているようだと。マネタリストたちの経験的分析では、好況-不況ではなく、不況-好況の循環があるらしい。

 

フリードマンは、1879年-1961年の期間の経済の産出量の、彼が「引っ張りモデル」と呼ぶものを提示した。斜面の下側に糊でくっついた紐を想像せよ。傾斜度は、産出量の長期成長を表す。斜面に沿って、どの点でも、紐がくっついていたら、それは、循環的な問題を全く持たない経済を表すのである。実際に経験されるような種類の循環的な問題は、斜面に沿って、無作為の間隔で、紐を下に引っ張ることによって表せる。

経済の実際の成長経路についてのこの表現では、我々に健康な長期成長を与える経済過程が、時折、「はがれ」落ちる。その結果として生じる経済活動の下落は、その前の成長には関係がないが、潜在的成長経路への回復は、下落の程度に必ず関係している。しかし、軽度の傾斜のため、下降と後に続いて起こる回復の間には、一対一の関係があるであろう。

このマネタリズムの表現に基づいて、オーストリア主義の考えが退けられる。示される答えに基づいてではなく、むしろ、尋ねられる問いに基づいて。好況を不況に変える市場過程は、何なのか? そのような過程が何か働いていることを示唆する経験的証拠はないと。落ち込みを回復に変える市場過程は、何なのか? これが、マネタリストたちの見解では、経験的に適切な問いなのだ。その模範解答は、教科書のケインズ主義の風味を持っているが、制度的な価格と賃金の硬直性に直面する型通りの市場諸力の作用を伴う。

フリードマンが明らかに認識しているように、好況-不況の循環の可能性を退けることと、不況-好況の循環の経験的識別は、両方とも、潜在的な成長経路からの逸脱の固有な非対称性に由来する。経済の産出量が、その潜在的水準を著しく下回ることはあっても、それを著しく上回ることはないのだ。しかしながら、フリードマンの定式化が、総産出量の観点であることが、初期のケインズ主義に対するオーストリア主義の批判が、現代のマネタリズムにも等しく当てはまることを示唆する。フリードマン教授の集計量は、最も基本的な変化の仕組みを隠すと。

経済の産出量は、消費財の産出量プラス投資財の産出量から成っている。人為的な低金利は、前者の範疇から後者の範疇へと資源を移すことが出来る。より重要なのは、それが、より遠い未来のための生産へと、投資活動の型を歪めることが出来る。それは、比較的長期の計画に投資部門を割り当て過ぎることが出来るのである。そのような貨幣によって誘発される歪みは、フリードマンが研究した九十年間にわたる「総」産出量の変化と、まったく整合しているのだ。

引っ張りモデルの観点では、マネタリストたちは、ある部分の紐は、しっかりと斜面にくっついているが、他の部分は、そうではないと観察する。しかし、彼らのマクロ経済的集計量の観点では、紐の本質には、何も無いのだ。もしくは、我々が、くっついた部分に沿って、はがれた部分へと進む時に、なぜ糊がへたるのかを説明するものが、糊の本質には、何も無いのだ。その代わり、マネタリストたちは、紐が下降を成す部分でのみ働いているある力(無能な中央銀行)によって、引っ張り下げられていると考えるのである。

オーストリア主義者たちは、低い度合いの集計で働いていて、紐(投資部門内の資源配置)と糊の粘度(その好況の間に資源配置が基づいていた金利と価格たちの型)の構成を調べる。もしも、金利が、貨幣的拡大によって人為的に低く保たれていたのであれば、時間間の資源配置は、実際の時間間の選好と資源の利用可能性とは一致していないと結論する。その紐は、はがれる運命にあるのだ。


対照的な利子理論

フリードマンの引っ張りモデルは、それが表しているマクロ経済的集計量の一般的動きよりも、それが無視している市場過程の面で、より注目に値する。金利の動きとそれらの動きのマクロ経済的集計量内の資源配置に対する結果は、マネタリズムでもケインズ主義でも何も役割を果たさない。

実際、まさに、ある特定の度合いの集計を選択することが、市場過程のどの面がマクロ経済理論に含めるだけの意味があるかについての判断を反映しているのである。その集計量「間」の関係は、意味があると。その集計量「内」の関係は、そうではないと。ケインズによって選択された集計量が、フリードマンによって受け入れられたのであり、この二人の理論家たちは、この点について同じ判断を行ったことを示している。

しかしながら、彼らの判断の基礎は、同じものではない。利子率およびその率の変化の本質と重要性について、対立する見解が、ケインズとフリードマンによる決定の根底にあり、オーストリア主義のマクロ経済学では大変に支配的な考慮を無視する。

三つの見解は、スウェーデンの経済学者クヌート・ヴィクセルによって初めて詳述された金利の動態の観点で、すべて識別できる。ヴィクセルによってそう呼ばれた自然利子率は、経済の資本構造と資源基盤と一致した金利である。もしも、広く優勢になることを許されれば、それが、貯蓄と投資の間の均衡を維持する。そして、一般的な価格水準も一定に保つ。

それに対して、銀行利子率は、銀行政策の直接結果である。信用拡大が、銀行利子率を下げる。信用収縮が、それを引き上げる。ヴィクセルによると、マクロ経済的均衡は、銀行利子率を自然利子率に等しく保つ金融政策によってのみ維持できる。従って、(銀行利子率を自然利子率より低く保つことによって)低利信用政策を遂行する銀行システムは、経済をマクロ経済的不均衡に投げ込む。

ミーゼスから始まるオーストリア主義者たちは、ヴィクセルの定式化を自分たち自身の理論化の基礎として採用し、信用によって誘発されるマクロ経済的不均衡の結果という観点でのみ、それから外れたが、ケインズ主義者たちもマネタリストたちも、銀行利子率と自然利子率の間の関係について、ヴィクセルの関心を共有しない。
要約して言えば、ケインズは、自然利子率という概念が、何か重要性を持つことを否定し、フリードマンは、その概念を受け入れたが、自然利子率から、何か重要性を持った逸脱があり得ることを否定した。

ケインズは、ヴィクセルの自然利子率の修正版を彼の「貨幣論」の中に組み込んだが、彼の「一般理論」の中には、そのための場所を見つけることが出来なかった。初めのほうの著作では、完全雇用が、標準だった。そして、(自然)利子率が、投資を利用可能な貯蓄に合わせた。後のほうの著作では、利子率は、貨幣供給量と連動していているが、不合理な心理(流動性の崇拝)によって決まる。そして、雇用水準は、その金利に順応する。ケインズは、「仮想の各雇用水準に異なる自然利子率 ・・・  が存在する」と論じ、「『自然』利子率という概念は、 ・・・ 我々の分析に寄与する、とても有用もしくは重要な〔ものを何も〕持って〔いない〕」と結論した。

フリードマンのマネタリズムでは、労働市場での競争が、市場清算的な賃金率を生じさせる。それは、ケインズの仮想の雇用水準から、労働供給が労働需要と等しい一つの水準を選び出す。自然利子率という概念、すなわち、貸付市場を清算し、投資を貯蓄に合わせる利子率は、ヴィクセルの考えに適合するのと同様に、マネタリズムの考えに自然に適合する。実際、フリードマンは、ヴィクセルの貸付市場分析と彼自身の労働市場分析の類似を利用して、「自然失業率」という言葉を造語した。

ヴィクセルによれば、銀行利子率と自然利子率の乖離は、対応する、貯蓄と投資の乖離を生じさせる。
フリードマンによれば、実際の失業率と自然失業率の乖離は、対応する、雇い主たちによって認識される実質賃金率と従業員たちによって認識される実質賃金率の乖離を反映する。マクロ経済的不均衡は、最終的に、(ヴィクセルにとっては)貸付市場における、また、(フリードマンにとっては)労働市場における、そのような乖離を取り除くようにして、それ自体を働き尽くす。

労働市場におけるヴィクセル型の動態は、マネタリストたちにとって、いくらか関心を持つものだったが、対応する、貸付市場の動態は、マネタリズムでは、まったく役割を果たさない。銀行利子率は、何か重要なマクロ経済的結果を持つほど長くは、決して自然利子率から逸脱しないのだ。

それら小さめで短命な逸脱の効果は、どんなものがあっても、「第一弾の効果」として、フリードマンによって、取るに足らないとされる。すなわち、初めのお金の貸し付け、第一弾は、一年あたり20から30に達するかもしれない、それに何弾も続く支出に比べたら、取るに足りないのだと。フリードマンは、現代のケインズ主義者たち(トービン)および、オーストリア主義者たち(ミーゼス)によって詳述された、そのような金利効果すべてを即座に払いのけ、彼自身のマクロ経済学は、「第一弾の効果には、ほとんど何の重要性も」与えないことによって特徴付けられると断言する。

オーストリア主義のマクロ経済学は、ヴィクセルの自然利子率の概念を受け入れること、および、自然利子率からの銀行利子率の逸脱の結果に注意することによって、ケインズとフリードマン両方のマクロ経済学とは区別される。しかしながら、最も関連すると思われる特定の結果という観点では、ヴィクセルのマクロ経済学とは区別される。

ヴィクセルにとって、二つの利子率の間のずれは、一般的な価格水準に上向きの圧力をかける。例えば、もしも、自然利子率が、技術開発の結果として上がれば、銀行利子率が上向きに調整されるまで、インフレが持続する。比較的低い銀行利子率は、自然利子率とは一致しないような形で、資本が再配置される「傾向」を創り出すかもしれないが、その傾向は、ヴィクセルの公式な分析では、現実にはならない。実物的要因が、資本の配置を支配し続ける一方で、銀行政策は、一般的な価格水準に影響を与えるのみである。

しかし、スウェーデン派とオーストリア主義の定式化は、両方ともベーム=バヴェルクの資本理論に基づいているので、そのヴィクセルによって識別された特定の「傾向」は、ハイエクによって詳述された最も関連する「変化の仕組み」にぴったり一致する。ヴィクセルの非公式の討論も、彼の公式の解説に伴うが、資本構造内の実際の数量調整に、より大きな余地を与える。

オーストリア主義者たちにとって、低利信用政策の一般的な価格水準に対する効果は、せいぜい、二次的な重要性しか持っていない。もしも、ヴィクセルがそう信じたように、実際、二つの利子率の乖離が、技術開発に起因するなら、結果として生じる経済の実質生産量の増加が、価格に下向きの圧力をかけて、全部ではなくとも大部分、信用拡大の価格水準に対する効果を相殺するだろう。

あるいは、ミーゼスがそう信じるようになったように、その乖離が、より典型的に、インフレ主義のイデオロギーに起因するなら、思いがけない技術開発が無くとも、信用拡大が、概して価格に上向きの圧力をかけるだろう。それでもやはり、オーストリア主義者たちにとって、この一般的な価格上昇、この貨幣の購買力の下落は、人為的に低い銀行利子率に起因する相対的な価格変化よりは、関心が低い。

ヴィクセルによって認知された資本部門内での再配置の「傾向」が、オーストリア主義の見解の中では、「現実」となる。全体的な資源制約と一致しない投資決定を不可能にするほど、市場過程は、フェイルセーフ{間違った操作をしても安全なように制御する}ではない。人為的な低金利で起業家たちの手に置かれた新しく創り出された貨幣は、基底にある経済的現実と最終的に衝突する生産過程を始めることを彼らに許す。ヴィクセルが、再配置への傾向は、現実にはならないと主張したところで、オーストリア主義者たちは、信用拡大によって誘発される実際の再配置が、持続不可能だと主張する。人為的な好況は、不況に終わるのだ。

金利効果についてのケインズ主義とオーストリア主義の関心に関する彼の議論で、フリードマンは、第一弾の効果に比べた最終的な効果の重要性は、経験的な問いだと主張する。オーストリア主義者たちは、好況、不況、回復の後、「最終的に」、経験的な分析は、自然利子率と比較した銀行利子率に対する初期の信用拡大の長引く効果を何も明らかにしないことを認識した。

経済全体は、好況-不況の循環を被ったため、より裕福でなくなる。それゆえに、自然利子率そのものが、より高くなっているだろう。しかし、初期と最終の効果の相対的な大きさは、それらを作り出した市場過程を無視する何の根拠でもない。第一弾の効果は、資本と資源の市場内でそれ自体を働き尽くす市場過程の初期部分を成す。富の喪失と自然利子率のあり得る上昇が、その同じ市場過程の最終的な効果である。


持続不可能な好況の動態

フリードマンは、実は信用拡大の影響を受ける金利に対する彼の扱い方の中では、過程分析に従事していないが、実は価格水準のインフレの影響を受ける賃金率に対する彼の扱い方の中で、彼は、過程分析に従事している。第一弾の影響は、二つの賃金率の間の乖離から成る。労働者たちによって認識される賃金率と、雇い主たちによって認識される賃金率である。

そのような乖離は、インフレの初期段階において起こる。なぜなら、雇い主は、自分が労働者に支払っている価格と、自分が生産する一つの製品の新しく増した価格の間の違いを即座に認識する一方で、労働者たちは、自分たちが消費財に支払っている価格の一般的な増大を認識するが、遅れるからだ。価格水準のインフレの最終的な効果が、上昇する名目賃金であり、それが、〔雇い主たちと労働者たちの両方によって(正しく)気付かれる〕実質賃金を自然失業率と一致するように維持する。

フリードマンは、これらの労働市場の動態に関連して、「第一弾の効果と比較した最終的な効果の重要性は、経験的な問いである」と主張できた。もしも、賃金率に対する異なる認識についてのデータが得られるのなら、直接の経験的な試験が、最終的な効果が支配的になることを示すであろうことは、疑いない。しかし、フリードマンは、経験的試験についての修辞的な問いで、彼自身の分析を払いのけない。その代わり、彼は、第一弾の効果を労働市場内部でそれ自体を働き尽くす市場過程の初期部分と見て、そして、自然失業率の再成立をその同じ過程の最終的な効果と見た。

労働市場に対するマネタリストの扱い方と、信用市場に対するオーストリア派の扱い方の、両方と一致する経験的な証拠はある。インフレによって誘発される労働市場の好況と、信用によって誘発される資本市場の好況の持続不可能性は、金融政策とは独立している自然利子率と自然失業率によって示唆されている。インフレ率と失業率についての過去数十年間のデータは、貨幣的拡大が、実質の大きさに初期効果は持っているが、長続きするものではない何らかの市場過程の観点から説明されなければならない。

最も関連する市場過程が、労働市場を通して働いているものなのか、それとも、資本市場を通して働いているものなのかは、論理的一貫性、もっともらしさ、歴史的妥当性の問題である。そして、もちろん、マネタリストの労働市場の動態と、オーストリア派の資本市場の動態は、より幅広く考えられた同じ市場過程の部分的、相補的な説明として見ることは出来る。

持続不可能な好況の動態という文脈における、マネタリズムとオーストリア主義の比較は、この学派の間に、ケインズ主義に対する同盟を創り出しているように思える。それ自身の破壊の種を含んでいる人為的な好況という同盟している説明は、商業界への突然で基本的に説明できない信頼喪失に起因する不況というケインズの説明とは、対照を成す。

しかし、この同盟は、戦術上のものでしかない。好況-不況の景気循環についてのどんな理論も、フリードマンの引っ張りモデルとは、両立しない。それは、そのような説明される循環は存在しないと示唆しているのだ。

フリードマンが、インフレによって誘発される労働市場の動態についての彼の説明を提示した元の文脈は、つじつまの合わないことを理解できるようにする。フリードマンは、彼自身のマネタリズムにきちんと適合する市場過程を識別しようとしたのではない。その代わり、彼は、インフレと失業の間に永続的な二律背反(トレードオフ)が存在するという政治的に人気のあるケインズ主義の信念の誤謬を論証していた。

1950年代後半のA.W. Phillipsによって行われた経験的な研究に基づいて、多くのケインズ主義者たちは、上昇する名目賃金と失業の間の逆相関関係が、社会選択のメニューとなり、インフレと失業の最も好ましい組み合わせへと経済を動かすことによって、政策担当者たちが選挙民の好みを認めるべきだと信じるようになった。

フリードマンは、ケインズ主義の最適化者たちと、あえて彼ら自身の縄張りの上で戦おうとした。彼は、賃金についての誤解という観点で、その逆相関関係を説明して、その主張されている二律背反(トレードオフ)は、短期においてのみ存在し、従って、政策的処方の健全な基礎にはならないことを示すことが出来た。しかしながら、彼が、それらの労働市場の動態を彼自身のマクロ経済学の不可欠な一部と考えたという証拠はない。幾人かのマネタリストたち、特に、Edmund S. Phelps、そして、ほとんどの教科書執筆者たちは、それをまさしくそのように見なしたが。

IS-LM分析によって代表されるケインズ主義も、フリードマンの引っ張りモデルに代表されるマネタリズムも、好況-不況の景気循環を我々のマクロ経済的経験の一部として認めない。オーストリア主義は、この点で、他の二学派から区別される。そして、より低い度合いの集計で、基本的に異なる枠組みを採用することによって、オーストリア主義者たちは、そのような循環を理解するのに欠かせない資本市場の動態を識別することが出来たのである。


要約した評価: ヴィクセルの分水嶺とオーストリア主義の篩(ふるい)

銀行利子率と自然利子率の間に一時的だが重要な乖離が存在し得るというヴィクセルの主題が、マクロ経済思想の歴史の大きな流れの中で、重要な分水嶺を成す。20世紀のマクロ経済学の重要な部分が、このヴィクセルの主題の変種として分類できる。議論の余地無く、この範疇に含まれるのが、スウェーデンのヴィクセル信奉者たち、G. CasselとE. Lindahlと、B. Ohlinと、G. Myrdalである。そして、ヴィクセルに触発されたオーストリアの理論家たち、ミーゼスと、彼の後に従って、ハイエクである。そして、通貨学派の伝統の中で働いていた英国の理論家たち、R.G. Hawtreyと、R. M. Robertsonと、オーストリア主義者たちから手掛かりを得て、初期のRobbinsである。

この範疇から除外されるのが、ヴィクセルの主題を否定するか無視するか軽視する理論家たちである。典型的には、その主題が、そのどんな変種でも現れるには、あまりに高すぎる度合いのマクロ経済的集計を採用することによる。それらの理論家たちの好例となっているのが、アーヴィング・フィッシャーと、彼の後に従って、フリードマンである。



Patinkinは、価格水準調整の動態についてヴィクセルの考えに大いに頼っているが、それでも、このグループに属している。彼が選んだ集計の度合いは、消費財と投資財を商品と呼ばれる一つの集計に合体し、銀行利子率と自然利子率の間の乖離の些細ならざる結果を最初から排除している。

Axel Leijonhufvudが、よく似た、理論家たちのグループ分けに基づいて、ケインズを解釈している。ヴィクセルとフィッシャーは、「貯蓄-投資理論」と「数量理論」と名付けられる二つの別の伝統の源流にいるのだ。

Leijonhufvudは、ケインズをヴィクセル派であるかように言うが、彼が、そうするのは、「貨幣論」と「一般理論」から選択的に取った考えで継ぎ合わせて新しい理論を作ることによるしかない。このケインズの二つの本の間に挿入されたものが、「Z理論」と呼ばれている。それは、最初の本から引き出して、銀行利子率が分岐し得る自然利子率を考慮に入れる。それは、二番目の本から引き出して、その結果として生じる不均衡が、価格調整を通してよりも数量調整を通して、それ自体を働き尽くすのを考慮に入れる。

Leijonhufvudの混成ケインズ理論は、ヴィクセルの主題を働かせ、「貯蓄-投資」理論の一覧に適合する。Leijonhufvudが、彼の「Z理論」の説明で、彼自身がヴィクセル派であると確認したことは、明らかである。しかしながら、ケインズ自身が、ヴィクセル派だったと主張することは、反事実の学説史に従事することである。「貨幣論」の中では、銀行利子率と自然利子率の間の乖離は、貯蓄-投資の関係に重要な影響を持っていなかった。「一般理論」の中では、貯蓄-投資の関係に対する著しい撹乱が、その二つの利子率の間の乖離に起因していなかった。

ヴィクセル派としてケインズの立候補を支持して彼のZ理論を提示することによって、Leijonhufvudは、ケインズが、実際には、まず、一方の側で、それから、もう一方の側で、ヴィクセルの考えを何とかして回避したということを暗黙に認めているのだ。この章で擁護している、理論家たちの分類は、ケインズが、実際に彼が書いたものを基づいて、ヴィクセルの分水嶺の向こう側へと移されるというLeijonhufvudのものとは、重要に異なっている。ケインズが選んだ集計の度合いは、ヴィクセルの資本市場の動態についての彼の無視とともに、フィッシャー、フリードマン、Patinkinへの重要な近似を確立する。

ハイエクの初期の「貨幣の純粋理論についての考察」は、「ケインズは、数量理論家か?」と題せただろう。ハイエクは、「貨幣論」についての彼の批判の後、半世紀近く経ってから、「今は、ミルトン・フリードマンに関係している学派だが、何世紀も昔の数量理論学派の、ありふれた支流として、ケインズの経済学」を明確に分類した。ハイエクによれば、ケインズは、「数量理論家だが、さらにいっそう集計的、集産主義的、マクロ経済的な傾向で改造されている。」

Leijonhufvudによって用いられた、ヴィクセルの分水嶺は、幅広い理論範疇間で主題に基づいて一次区別を付ける。一つの範疇では、その主題は、貯蓄と投資であり、そして、それらのマクロ経済的大きさがお互いに対抗する市場過程である。もう一つの範疇では、その主題は、貨幣の数量であり、そして、貨幣の供給もしくは需要の変化が他の実質および名目のマクロ経済的大きさに影響を及ぼす市場過程である。

代わりとなる一次区別は、もっとケインズについてのハイエクの批判精神の中にあり、代わりとなる度合いのマクロ経済的集計に基づいたものである。ヴィクセルの分水嶺という概念は、オーストリア主義の篩(ふるい)という概念によって補われるだろう。一つの幅広い理論範疇の中では、その集計の度合いが、ヴィクセルの主題の実り多い探求を許すだけ十分に低い。もう一つの範疇では、集計の度合いが、そのような探求を不可能にするほど高い。

彼らの高い度合いの集計に基づけば、ケインズ主義とマネタリズムは、両方ともオーストリア主義の篩(ふるい)を通過できない。これが、ケインズは数量理論家であるというハイエクの主張および、それに対応する、フリードマンはケインズ主義者であるという主張の意味である。


 


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1949年、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、「Human Action」

 Ludwig von Mises

「ヒューマン・アクション ― 人間行為の経済学」(村田稔雄〔訳〕)

p293

市場については、非人間的ないし神秘的なものは、何一つない。
市場のプロセスは、すべて人間行為の結果である。
あらゆる市場現象は、市場社会の構成員による、明確な選択にまで遡及することができる。

市場プロセスとは、市場社会の諸構成員の個別行為を、相互協力の要件に適合させることである。
市場価格は、生産者に、何を、どのように、いくら生産すべきかを教える。
市場は、各人の活動が集まる中心点であり、それを中心として、各人の活動が発散するのである。

p774

レッセ・フェールとは、魂のない機械力の作用にゆだねよ、という意味ではない。
それは、社会的分業の中で、各人の好みの協業方法を各人に選択させよ、ということを意味し、
企業家が、何を生産すべきかを消費者に決定させよということを意味する。
計画とは、政府のみに選択させ、強圧と強制という方法によって、
その決定を実行させよ、という意味である。





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2012年3月16日、フランク・ショスタック、「予想:モデル解決」

 Frank Shostak

人気のある考え方によると、理論を選択する基準は、その予測力によらねばならないという。
そのモデルが「機能」する限り、経済の状態を評価する有効な枠組みと見なされるのである。
もしも、そのモデルが、正確な予想を生み出せなければ、取り替えられるか修正される。
その理論の暫定的な性質は、現実世界についての我々の知識が、
捉えどころのないものであるということを暗示している。
その人気のある見方に反して、我々は、人間行為が、意識的で目的を持つものであるという、
この根本的な明言を用いて、経済学の全体を引き出すことが出来るのである。
そこで引き出される知識は、根本的な真なる明言に基づいているので、
この知識は、暫定的ではなく、捉えることが出来、絶対的に確定している。
その結果として、我々は、この経済理論を確証するために、様々な統計的手法を必要としない。
それは、人間行為が、意識的で目的を持つものであるという事実から引き出されるのである。
現実の諸事実を確かめるために、統計的手法に頼る者たちは、
間違った分析を生み出す危険を冒しているのである。





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2012年9月20日、ロジャー・ガリソン、「ケインズ革命を再考する」の書評

 Roger W. Garrison

維持できない好景気の間の資本の誤配置、
その後に、不況と資本の再配置が続くが、そこにハイエクが当てた焦点が、
オーストリア主義の景気循環理論として知られるようになったものである。
明らかに、時間間の資本配置に対する金利の効果に、
ケインズが注意せず、ハイエクが注意したことが、
ケインズとハイエクの根本的な相違を説明している。

優勢なマクロ理論は、こんにち、「動学的確率的一般均衡」モデルという形を取っていて、
最も名声ある経済学術誌たちの中では、依然として、うまくやっているワルラスの枠組みであるが、
現実世界の経済が、どのように、正しい方に進むのか、間違った方に進むのか、
または、間違った方に進んだ経済は、どのように、正すことが出来るのか、
説明するための基礎は、なんら提供しない。


   


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2010年1月23日、ハイエク、"Fear the Boom and Bust"、EconStories.tv

 

「景気刺激」なんて言っているが、それが、事態をさらに悪化させる。
それは、ただ、同じことをさらにやるだけ。さらに駆り立てる、でたらめへ。

 

支出ばかりに目を向けて、ひもを押すことに。
長い目で見れば、友よ、死んでいるのは、君の理論だね。
これが、悪口みたいに聞こえたら、すまないが、
私のオーストリア学派の見方で、教育を受ける覚悟を決めてくれ。


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2005年12月26日、ミルトン・フリードマン

 

 Charlie Rose

あなたは、グリーンスパンが、連邦準備制度の、
最も偉大な議長であると思っておられると、これまでで。


 Milton Friedman

これまでで、その通りです。


 Charlie Rose

なぜなら、彼は、金融政策の効果の信奉者だったからだと。
なぜなら、彼は、注意深く、金利を調整し、
金融政策を用いて、インフレを小さく保ったからだと。


 Milton Friedman

まったく、その通りです。
彼が、インフレを抑えていました。
連邦準備制度の最重要の任務として。


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2011年7月26日、ロジャー・ガリソン、「オーストリア学派の景気循環理論」

  


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2007年11月、ロジャー・ガリソン、「ハイエクとフリードマン」

 Roger W. Garrison

投資景気を特徴付けている不均衡、すなわち、その持続不可能性は、
その景気が、生産計画と消費者の選好の組織的不整合によって、
ついに終えさせられるまで、その正体を現さない。

ハイエクは、まさしく、経済学者の役割は、
「訓練されていない目から隠されている」事態の、そのような面を見分けることだと指摘した。


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2010年11月6日、ベン・バーナンキ、ジキル島

 

「量的緩和」や資産購入が、なにか全く異質な、
新しい、奇妙なものだという認識が、世の中にあります。
いったい何が起こるのか分からないとか。
予期しない、予想できない政策だとか。

まったく反対です。
これは、金融政策に過ぎません。

私は、ミルトン・フリードマンを受け継いでいるのです。
ミルトン・フリードマンが、我々に行わせるであろう、
すべてのものを我々は行っていると思っています。

インフレが、高すぎることは望みませんが、
インフレが、低すぎることも望みません。


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2010年12月5日、ベン・バーナンキ、CBS「60 Minutes」

 

ええ、私は、自分が、全知で、この危機が来るのが分かっていたらなあと思います。


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2011年7月28日、ロジャー・ガリソン、「ケインズとハイエクの対決」

  


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2009年5月、ロジャー・ガリソン、「オーストリア要約した主流マクロ」

 Roger W. Garrison

主流のマクロ経済学の焦点全体が、
オーストリア経済学者たちの焦点とは根本的に異なるのである。

ケインズは、そもそも、経済が、どのようにして不景気に至ったのかについて
思い悩むことなく、進行している不景気の救済策を提案した。

ハイエクは、先行する好況の力学に焦点を当てた。
どのようにして経済が不景気に至るのかの問いが、最も興味深く挑戦的な問いであると考え、
その問いに対する満足な答えが、どのように不景気な経済に対処するか(そして、対処しないか)を
解き明かす厳しい必要条件と信じたのだ。

主流のマクロが、その現在の道に沿って展開する限り、
オーストリア主義の考えは、苦しみ続ける。
そして、経済の苦しみが続くのだ、激しくなるのだ。
政策立案者たちが、彼らの政治的本能に従って、主流の経済学者たちの支持を享受して、
膨れ上がる債務を財源として、さらに大きな刺激策を選ぶ限り。







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試したがらないわけ


2013年6月4日、トーマス・ウッズ、「リバタリアンたちには答えられない問い」

 Thomas E. Woods, Jr.

どういうわけか、サロン誌の物知りたちは、この記事で自分たちが我々を参らせたと思っている。
「もしも、お前の接近法が、それほど優れているなら、
 なぜ、人々は、それを試したがらないのか?」

これが、答えられない問いだって?
これについて、何が、そんなに難しいとされているのか?
リバタリアンたちが書いているものの90%は、少なくとも暗黙に、それに答えている。

答えを引き出すために、ちょっと、この問いを言い換えてみよう。
正しく述べられたら、この問いが、そうならない暗黙のものを含んでいることに気付くだろう。

(1)
もしも、お前の接近法が、そんなに優れているなら、
なぜ、地方警察は、麻薬戦争から生じるお金、支給品、権限を放棄したがらないのか?

(2)
もしも、お前の接近法が、そんなに優れているなら、
なぜ、金融大会社たちは、自分たちの実力で盛衰することを好まずに、救済措置を好むのか?

(3)
もしも、お前の接近法が、そんなに優れているなら、
なぜ、人々は、正直な生産よりも、特権を用いて、生計を稼ぐことを好むのか?

(4)
もしも、お前の接近法が、そんなに優れているなら、
なぜ、軍産複合体は、その回転ドアで出入りする取り決めと、
前倒しと政治工作の二重戦略によって納税者から巻き上げる現在の戦略を好むのか?

(5)
もしも、お前の接近法が、そんなに優れているなら、
なぜ、経営者たちは、しばしば、補助金と特権を好むのか?

(6)
もしも、お前の接近法が、そんなに優れているなら、
なぜ、ある人々は、自分たちの目標を戦争を通して達成することを好むのか?

(7)
もしも、お前の接近法が、そんなに優れているなら、
なぜ、政治階級は、他者の労働に寄生し、他の皆に対して莫大な権力を行使することを好むのか?

(8)
特別利益団体たちが、自分たちのために特別利益を勝ち取るのは、
それらの利益が、集中されていて著しいからである。
その費用は、一般大衆の間に分散されて、どの特定の人に著しいということはないため、
一般大衆は、それに反対する組織化を行う際の既得利益団体を持っていない。
オレンジ・ジュース1ガロンあたり25セント増しは、
反対することに人生をかける価値は、ほとんどないが、
会社たちにとって利益で一年あたり1億ドル増しが、
ロビー活動する時間を費やす価値があることは、確かである。

もしも、お前の接近法が、そんなに優れているなら、
なぜ、これが起こるのか?

(9)
もしも、お前の接近法が、それほど優れているなら、
なぜ、人々は、それを試したがらないのか?
17年間(幼稚園・小・中・高と大学四年間)ノンストップで、
それに反対するプロパガンダを受けた後で。







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規制の捕獲


2013年5月31日、トーマス・ディロレンゾ、「資本主義のフリードマン腐敗」

 Thomas J. DiLorenzo

新しい本「大奇形: アメリカにおける資本主義の腐敗」を通して、
デイヴィッド・ストックマンが、シカゴ学派を酷評している。
特に、その20世紀後半の知的指導者、ミルトン・フリードマンを。
その前書きページで真っ先に、いわゆる自由市場シカゴ学派の皮肉を捉えている。
「クローニー・キャピタリスト(政府お仲間資本家)勢力による、
 国家、特に、その中央銀行の捕獲は、自由市場と民主制に非常に反している。」と。

これは、非常に皮肉である。
なぜなら、トラック運送業、航空業、その他のことであれば、「規制の捕獲理論」を書いたのは、
ジョージ・スティグラーのような、シカゴ学派の経済学者たちだったからだ。
すなわち、表向き「公益のために」産業を規制するために創り出された政府の規制機関たちが、
どのようにして、ほとんどの場合、その産業自体に「捕獲」され、
それから、公衆を保護するためではなく、カルテル価格協定を実施するために用いられるか、
彼らが、論証する何十の学術論文を生んだのである。

これは、すべて、優れた充実した応用自由市場経済学だったが、
それと同時に、シカゴ学派の者たちは、とりわけ最も大きく最も重要な規制捕獲を無視した。
連邦準備制度の創設である。
シカゴ学派は、連邦準備制度が、銀行業のために、
政府のカルテル実施機構として創り出されたという明白な事実を全く無視した。
他の多くの種類の規制機関たちも、
その同じ目的(「自然独占」規制)のために創り出された時代だった。

シカゴ学派は、その規制についての「捕獲理論」の研究の伝統から、
この紛れもない省略を無視しただけではなかった。
フリードマンに続いてノーベル賞を受賞した二人の最も有名なシカゴ学派の者たち、
ジョージ・スティグラーとゲーリー・ベッカーの研究の重要部分であった、
政治的意思決定の現実的な経済分析をも無視したのだ。
スティグラーとベッカーは、公共選択として、よく知られている分野、
政治的意思決定についての経済学で、いくつかの重要な論文を発表した。
フリードマン本人は、長年、共和党の政治家たちの助言者だった。
だから、シカゴ学派の経済学者たちが、政治の現実について、
世間知らずの馬鹿だとは、誰も確からしく主張できなかった。



しかしながら、フリードマン主義のマネタリズムが、何かであるなら、
それは、政治的現実について世間知らずの馬鹿だった。
3~4%の範囲で貨幣供給量の一定成長というフリードマンの有名な「貨幣規則」の致命的な欠陥は、
機械のような連邦準備制度の議長が、フリードマンの貨幣規則を実施することによって、
無私で公益を追求するという仮定を前提にしていた。
フリードマンによれば、「貨幣供給量が、
年率3%のような固定された揺るがない成長率に繋がれたら、
インフレは、急速に消える」のだと、ストックマンが書いている。
これが、マネタリズムの背後にある基本的な仮定だった。
そして、それは、シカゴ学派の者たちが、
政治の現実について知っていると称したものすべてに相反していた。
言い換えると、フリードマンのマネタリズムは、現実的な可能性として、決してあり得ないのだ。
フリードマン本人が、連邦準備制度を除く他の政府機関すべてについて、しばしば言ったように、
政治的でない政府機関があり得るのは、犬のように吠える猫くらいの可能性なのだから。
フリードマンの貨幣規則は、「基本的に大学人の戯言」だったと、ストックマンが結論している。
「貨幣規則」という考えを、「FOMC[連邦公開市場委員会]が、M1の計器を見張り、
3%の目標からの、いかなる逸脱にも、どちらかの方向に巧みにダイヤルを調整する、
忠実な貨幣宦官たちのように機能するという考え」として、嘲っている。
これは、「途方もない幻想」だったと、そして、
「政治について世間知らずの馬鹿」の極端な例だと、ストックマンは言っている。

ストックマンは、「フリードマンは、大恐慌を徹底的に誤解し、
1929年~1933年の間、連邦準備制度が金本位規則を過度に考慮したことが、
積極的な政府債務の公開市場購入を怠る結果になったと、間違って結論した」と、
書くことによっても、フリードマンとシカゴ学派を論難している。
ストックマンは、その期間に「流動性の不足は無かった」こと、そして、
「商業銀行たちは、貸し付けを行ったり、要求払預金(M1)を生み出す能力に、
まったく制約は無かった」ことに注目するだけで、
連邦準備制度が銀行システムに十分な流動性の注入を怠ったという、この考えの正体を暴露した。
「すでに過剰準備を持っていた何千の銀行たちは、
マネタリストの福音の命令に従って、貸し付けと預金創出を開始するまで、
さらにもっと準備金を浴びせるべきだったと」「主張することにおいて、
フリードマンは、このように、中央計画者たちの側についた。」と、ストックマンは書いている。
歴史的事実の問題として、「銀行システムの中の過剰準備は、その45ヶ月間に劇的に成長し、」
貨幣逼迫(すなわち、フリードマンの主なる主張)とは正反対であることを意味していた」と、
ストックマンは指摘している。
したがって、「貨幣逼迫が、大恐慌を引き起こしたという事実は、まったく無い」のだと。



現在の連邦準備制度議長のベン・バーナンキは、このフリードマンの偽りの大恐慌理論に、
自分の大学キャリアを基づかせたと、ストックマンは書いている。
バーナンキの「この実に倒錯した主張に対する唯一の貢献が、
主として濃密な数学方程式から成る少しの小論だった。
それらは、GDPの崩壊と貨幣供給量の間の否定できない相関を示したが、
原因は、いっさい証明していない。」
したがって、「統計を用いた嘘のつき方」についての古言が、
「数学モデルを用いた欺き方」に匹敵していたのだ。

ストックマンは、オーストリア学派の景気循環理論のほうが、
大恐慌について、遙かに頼りになる理解源であると主張する。
「1929-1933年の大収縮は、1929年までに築かれた債務バブルと金融投機に根差していた。」
「バブルが崩壊した後に連邦準備制度によって犯された間違いにではなく」と、彼は書いている。
言い換えると、フリードマンの貨幣理論は、「実証経済学」や歴史的現実に基づいているのではなく、
「偉大な」ミルトン・フリードマンが、それを著したというだけで、
「アプリオリな真実」と考えられているのだ。
いずれにせよ、フリードマンの大恐慌理論全体は、
彼の知的弟子、ベン・バーナンキによって「粉砕」されてしまった。
実体経済には、ほとんど、もしくは、まったく認識できる効果なしで、
合衆国の銀行システムの過剰準備を、400億ドルから2012年時点で1兆7000億ドルまで増やした。



ストックマンによると、おそらく、フリードマンの最大の罪が、
貨幣印刷に対する金本位の抑制を取り除いた、
リチャード・ニクソンの行政命令の背後にいた「ブレーン」であったことだった。
それゆえに、「政治家たちが課税せずに慢性的に支出できるようにした体制」の制度化を、
フリードマンが支援したのだと、彼は書いている。
皮肉なことに、「この国の最も有名な現代の保守主義の経済学者が、
大きな政府、慢性的な赤字、国の財政破産の父になった。」
「国の貨幣供給の基礎を金(ゴールド)から国債(T-bill)に変えたのが、
事実上、フリードマンだった。」

ストックマンは、フリードマンの政治について世間知らずの馬鹿さは、圧倒的だと描写している。
「中央銀行が、いったん、その金準備を守るという厳しい規律から解放されたら、
それは貨幣活動家たちと中央計画者たちの手に落ち」、連邦準備制度が、「金融市場に対する、
ひっきりなしの弄くり回しと干渉の正当化の源泉になるという可能性を決して考慮しなかった。」
無謀な思いのままにドルを刷って、1970年代に、
連邦準備制度が、コモディティ・ブームに燃料を注いだ。
それに破綻と崩壊が続き、それから、続く数十年間、株式と不動産市場で同じことを行った。





2013年5月20日、リチャード・ドーティー、「ケインズ骨相学」

 Richard Daughty

私は、経済の未来について、ますます腹を立てている。
特に、私が、おそらく、まだ生きていて、それに苦しむという部分にだ。
無事に死んでしまっていて、我々、不潔な親父たち、役立たずの夫たち、
精彩を欠いた従業員たち、なんでも怠惰な野郎たちのために取ってある、
ダンテの地獄の、どの界隈からであろうと、軽蔑を込めて笑っているというのではなしに。

ハハハ!、私は、怒鳴る。
さあ、苦しめ!
苦しむのだ、
ケインズ経済学の白痴が大惨事に終わらないと実際に信じたお前たち、馬鹿たれどもめ。
我は、地獄の中心から、汝を打つのだ!

そのメシウマが、ものすごく満足であるのは、確かだろうけど、
陰鬱な事実は、私が、まだ生きているということ、そして、
とてつもない価格インフレ、破産、悲惨、飢え、荒廃、欠乏を見て生きるということだ。
それは、常に、とにかく、過去2500年間、返済不可能な債務を重ねた白痴の国々、
特に、政府の大規模な赤字支出を支払うために、
自分たちの法定不換紙幣(フィアット・マネー)の供給量を膨大に増やすことによって、
そうした者たちのエピソードに続くのだ。







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