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リベラリズムの核心にある思想


2014年10月23日、デイヴィッド・ゴードン、「誕生日おめでとう、ラルフ!」

 David Gordon

今日は、ラルフ・ライコの78歳の誕生日だ。
古典的リベラリズム(自由主義)の一番重要な歴史家である。
ライコは、他の多くの著作の中でも、二つの傑出した小論集の著者である。
「古典的リベラリズムとオーストリア学派」および「大戦と大指導者たち」。
後者の題名が示唆しているとおり、彼は、修正歴史の大主張者である。
彼は、彼の著作すべての中で、深い学問、鋭い分析力、
自由(リバティー)への揺るぎない専心を示している。
彼は、マリー・ロスバードの最も近しい友人たちの一人であり、
サークル・バスティアの一員だった。
彼は、これまでに私が会った最も面白い人たちの一人でもある。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-729.html

2008年、ラルフ・ライコ、「ケインズは、リベラルだったか?」

 Ralph Raico

私が論じたように、もしも、リベラルの教義が歴史的に、
絶対主義の福祉国家の父親主義(パターナリズム)の拒否として特徴付けられるのであれば、
18世紀の絶対主義の重商主義の構成要素の拒否として特徴付けられることは、なおさらである。

私有財産の市場秩序の要素を保持しているシステムは、
どれも合理的にリベラルだと見なせるとは限らない。
近代史において、よく知られているように、
私有財産を含んでいて、市場が制限的に働くのを許されていたシステムがあった。
しかしながら、その監督者たちは、他のすべてに優先する国家の役割を主張した。
彼らは、それが無ければ経済生活は無秩序へと崩壊すると信じていた。
この重商主義と呼ばれるシステムに対する反応として、経済的リベラリズムは現れたのである。

ケインズの間違いが、自由市場の秩序に対する信頼を台無しにして、
国家権力の大規模な成長への道を開いた。

ケインズより前は、予算均衡は、政府の目標だった、少なくとも文明国たちの。
ケインズ主義が、この「財政の規約」を裏返した。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-682.html

2010年10月27日、ロバート・マーフィー

 

オーストリア派に背中を向けるな!


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-790.html

2011年、ラルフ・ライコ、「古典的リベラリズムとオーストリア学派」

 Ralph Raico

この本とその最初の小論の題名は、誤称である。
表面的な混乱を避けるには、残念ながら、そうせねばならないが。
すなわち、「古典的」リベラリズムは、存在しないのである。
始めから終わりまで、財産権と有機的に発展した自由市場に基づいた、
たった一つのリベラリズム(自由主義)しか存在しないのだ。

現今、この教義に対して、「現代」リベラリズムと呼ばれる対照的なものが存在している。
それは、実際、民主社会主義と区別が付かない。

私が、それは、イデオロギー上で吹き込まれた詐欺だと考える、十分な理由を与えると思っている。
ジョン・スチュアート・ミルとジョン・メイナード・ケインズのような著述家を
リベラリズムの万神殿に昇進させることに例示される詐欺なのである。

読者は、私が、時折、F.A.ハイエクについて、かなり批判的であることに気付くだろう。
ハイエクは、シカゴ大学で、大学院での私の指導教授であり、
私の博士論文の委員長だったので、おそらく、驚かれるであろう。
私は、これが、誰も誤り導くことはないと確信している。
私は、常に、ハイエクに対して最高の尊敬を抱いている。
オーストリア経済学の偉大な専門家の一人であり、素晴らしい学者である。
私と彼で、はっきりと意見が異なるのは、第一に、認められる彼の福祉国家に対する好み、
第二に、英国のリベラルの伝統に対する彼の過大評価、
フランスの伝統に対する彼の侮りであると私が理解するものに関係している。
もしも、この多様な小論集が、一つ大きな主題を持っているとすれば、
それは、我々に最良のリベラルの思想家たちを与えたのは、
英国ではなく、フランスだったことである。
一世紀以上にわたって、バンジャマン・コンスタンからグスタフ・ド・モリナリまで。

それから、私は、私の英雄の一人、ドイツのリベラル指導者、
オイゲン・リヒターについての小論も含めた。

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス彼自身のように、自分たちの時代の流れに逆らって、
「テルモピュライでのレオニダスのスパルタ人たちのように」
断固として立ち上がった自由の戦士たちに、私は、とても弱い。

私の祖父母は、南イタリアとシシリーから合衆国に船で渡った。
希望を持って、やがて、いくらか小さな成功を手にした。
私は、彼らに、そして、かつてそうであったものを求めて彼らがやって来たアメリカに感謝している。
最後の小論で、我々に今立ちはだかるこの準ファシスト国家に対する私の深い悲嘆を示す。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-790.html

2012年3月30日、ダニエル・サンチェス、「オーストリア経済学、レッセフェール、消費者第一位」

 Daniel J. Sanchez

最も早い日々から、社会主義者たちと干渉主義者たちが、
オーストリア派の洞察をとても恐れたのは、なぜだろうか?
ロスバードのもののような倫理の客観的な理論があっても無くても、
なぜ、オーストリア経済学は、とても自然に、
レッセフェール(為すに任せよ)の立場に向かうのか?
ライコによると、それは、その市場過程についての消費者志向の見方である。

 可能な最大量の物質財を創り出すとして資本主義システムを理解していた
 古典派経済学者たちとは対照的に、メンガーの見方では、
 それは、「消費者の選好によって働かされる経済統治の様態」だった。
 (後に、W.H.ハットが、その状態に「消費者主権」という言葉を造語した。)
 カーズナーが指摘したように、「市場経済についての社会主義者と干渉主義者の誤解に対する、
 ミーゼスの生涯の論争を育てたのが、この徹底的にメンガー主義の洞察だった」。
 そして、マルクス主義者たち、その他の社会主義者たちを今日まで挫いて激怒させたのが、
 この私有財産システムの本性に対する本質的な洞察だったと、付け加えられるかもしれない。

メンガーが、消費者を画面に連れ戻して、市場過程の船長席に置いた時に、市場を人間化して、
レッセフェールを擁護するミーゼスの功利主義の主張の道を開いたのである。

市場経済の並外れた傾向は、オーストリア派の観点から見られるように、
他者の要求の満足に自分たちが貢献した程度に応じて、
個人たちに対して、自分たちの要求の満足を与えることである。
市場過程を通して、消費者の満足に対する貢献に応じて、
各生産者に消費者たちが報いる傾向があるのだ。
こうして、市場経済において、個人たちは、
人間の要求の満足に対する自分たちの貢献を絶えず改善するように、
自分たちの役割と行為の選択を絶えず調整するよう、自分たち自身の利益で促されるのである。

この過程において、ある消費者たちの要求の相対的な重要性が、
他の消費者たちの要求よりも大きいことはある。
しかし、ミーゼスが強調したように、ある消費者の要求の相対的な重要性は、
その相対的な重要性が、市場において決定されたのである限り、
生産者としての彼の役割で、他の消費者たちの要求を満足させることに
どれだけ貢献したかという機能なのである。

資本主義の下では、人間の選択が、その相互作用を通して、
可能な限り十分に人間の福利を提供するよう、お互いを調整する。

市場の結び付きに対する国家の干渉ことごとく、
つまり、税金、規制、再分配、官僚機構の拡大ことごとく、
貢献と所得を結ぶ繋がりを弱めるのみであり、
それによって、生産者たちの消費者たちへの反応性を減じることによって、
市場の手段性を妨害して、従って、消費者の満足の減少へと導いているのだ。
そして、我々は、経済的規定に関しては、皆、何よりもまず、消費者であり、
生産者であるのは、次位でしかないので、減じる消費者満足は、減じる公衆福利を意味する。

これが、消費者第一位とも呼べるものによって特徴付けられる市場経済の描写である。
それは、メンガーが、ミーゼスを経済学者にした本(「経済学原理」)を書いた時に可能にしたのである。
そして、この描写が頭にあれば、レッセフェールのリベラルでないことは、ひどく難しいのだ。


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2011年、ルー・ロックウェル、「古典的リベラリズムとオーストリア学派」裏書き

 Lew Rockwell

リベラリズムの核心にある思想は、社会が、自己組織し、自己規制し、
糸を引く全体計画者は必要ないという信念であると、ライコは説明した。
そのエネルギーと秩序は、その分散化された働き、その変化への開放性、
その束縛されない個人主義から生まれるのである。
その組織たち、つまり、市民団体たち、宗教組織たち、慈善と芸術の財団たちも、
権利を持つ個人たちの自発的な連合に、その存在を負っているのである。
これが、啓蒙時代を通じ、現代を通じ、中世の経験によって学ばれた大きな教訓である。
すべての時と場所で、自由(リバティー)の敵たちによって否定された教訓である。
これが、ライコが決して倦むことなく説明した中心的真実である。
非自由の時代に、おそらく当たり前と考えられて、ほとんど忘れられているものだ。


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2012年4月19日、ギド・フルツマン、「リベラリズムの辞典」

 Jörg Guido Hülsmann

「古典的」リベラリズムというようなものは、決して存在したことがないと、
ラルフ・ライコが、最近、彼の素晴らしい「古典的リベラリズムとオーストリア学派」で強調した。
リベラリズム(自由主義)しか存在しなかったし、存在していないのである。
社会は、それだけで機能していて、強制的な政府によって支持や統治される必要がないという、
この考えを中心にした知的運動である。

まさしく、リベラリズムという語は、自由(リバティー)の様々な敵たちによって採用されて、
その伝統的な意味とは反対のものへと変えられてきた。
しかし、この言葉の曲解は、だいたい、アングロ-サクソン世界に限られている。
旧大陸では、自由(リバティー)とリベラリズムの貼り札を盗用しようとする、
社会民主主義者たち、その他の国家統制主義者たちによる最近の努力にもかかわらず、
リベラリズムは、いまなお、その元の意味で用いられている。
そして、リベラルの運動は、それら強制的な政府が偏在する国々でも栄えているのだ。

すなわち、639ページの「リベラリズム辞典」が、
名声ある出版社ラルースによって、フランスで出版されたばかりである。
マシュー・レネによって編集された、この概説は、
フランスその他の国々の63人の著者によって書かれた、
「Action humaine」から「Voltaire」までの267項目を取り上げている。
それは、はっきりとオーストリア派の風味を持った画期的な出版物である。


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2012年6月2日、ウォルター・ブロック、「リベラルのめっき」

 Walter Block

適切に用いられる言葉が、政治と経済についての対話には不可欠である。
しかし、自由企業制、制限された政府、私有財産権、資本主義のような良いものに賛成する我々が、
困ったことに、あまりにも多くの言葉を、異なる反対側にいる者たちに譲ってきた。

知における我々の敵対者たちによって我々から要求された言葉を用いることによって、
我々が、我々の主張を行わなければならないなら、そうすることが、いっそう困難である。
資本主義は、もはや、自由市場を指しておらず、
今や、それは、クローニー主義(政府お仲間えこひいき主義)と帝国主義を連想させる。
ある社会民主主義者たちは、今、「リバタリアニズム」の所有権すら奪おうとしている。
彼らは、ずっと以前に、「個人主義者」の獲得に走った。

  

しかし、「リベラル(自由主義者)」ほど、有効に我々から盗まれた言葉はない。
その後、その泥棒たちですら見限るほどまでに、ぼろぼろに破壊されて、
今、彼ら自身のことを「プログレッシブ(進歩主義者)」として描いている。
以前は、これ(リベラル)が、我々自身の所有物だったことが、多くの者たちを驚かすが、
いまなお、わずかに、そうである。「古典的リベラル」でのように。

彼(ラルフ・ライコ)が、このリベラルという語をその誘拐者たちから救い出し、
彼らがその上に積み重ねたゴミ屑を取り除き、
それから、その用語が、長く栄光ある血統を持っていて、
もう一度、輝かしい未来を持っていることを我々に確信させる。

ライコは、古典的な種類のリベラリズムをオーストリア学派の経済学と結びつけることから始める。
元は、オーストリア出身の経済学者たち、特に、カール・メンガー、
オイゲン・フォン・ベーム-バヴェルク、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、
F.A.ハイエクによって展開された、経済学への資本主義支持の接近法である。
その過程で、彼は、ミルトン・フリードマンに関連する自由市場のシカゴ学派の、
著しく劣った種類のリベラリズムに光を当てる。



多くの知識人たちが、本物のリベラリズムに反対するのは、
自由企業制と市場に反対しているからである。
それは、悪意の無い間違いから生じているというハイエクの見方がある。
知識人たちが楽で実入りのある政府の仕事を求めていることを強調するシュンペータ。
金儲けに対する憤慨と軽蔑に焦点を当てるミーゼス。

ケインズは、神話とは反対で、「資本主義を救う」試みすら行っていない。
どちらかと言えば、この経済学者は、ファシズムのほうに接近した。
彼の最も有名な本「雇用、利子、お金の一般理論」のドイツ語版のために、
彼が書いた序文が証明しているようにだ。
1936年に、その時、ヒトラー政権が、本物のリベラルを追い払ったはずだが、ケインズが書いた。
一般理論の中の考えは、「自由競争と大部分レッセフェールである状況のもとで」「よりも、
全体主義国家の状況に対して、ずっと簡単に適合させることが出来る」と。

ライコは、優れたオーストリア経済学者、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスのリベラリズムを解明する。
ナチスが支配したヨーロッパからニューヨーク・シティーに逃れたことは、
ミーゼスの最も優れたアメリカの学者、マリー・ロスバード、そして、
この著者と無数の他の者たちの中にいるこの書評者は言うまでもなく、
大統領候補者のロン・ポールの知的発展にとって幸運であったことを証明した歴史の出来事である。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-937.html

1947年、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、「計画された大混乱」

 Ludwig von Mises

資本主義は、現代の西洋文明の経済システムではあるが、
西洋諸国すべての政策は、まったく反資本主義の思想によって導かれている。

我々の時代は、大きな経済的困難に直面しなければならない。
しかし、それは、資本主義の危機ではない。
干渉主義の危機なのである。
資本主義を改良し、より良いシステムに代えるべく、計画された政策の危機なのだ。

干渉主義者たちは、経済問題の研究に科学的な公平さをもって接近しない。
彼らのほとんどは、所得が自分たちよりも多い者たちに対する、
嫉みの怒りによって駆り立てられている。
その偏向によって、彼らは、物事をありのままに見ることができない。
彼らにとって主要なことは、大衆の状況を改善することではない。

干渉主義者たちの目には、利益の存在が、ただ不愉快なのだ。
彼らは、その系であるもの、損失を扱うことなく、利益について語る。
彼らは、利益と損失が、すべての企業家の活動を消費者たちが厳しく制御する、
手段であることを理解していない。
ビジネスの方向において消費者を最高位にするのが、利益と損失である。

反資本主義の政策が、市場経済の資本主義システムの働きを妨害している。
干渉主義の失敗は、社会主義を採用する必要性を証明してはいない。
干渉主義の無益さを明らかにしているだけだ。
自称「進歩主義者」たちが、資本主義の失敗の証拠として解釈している害悪すべては、
市場に対して彼らが有益と言い立てて行っている干渉の結果なのである。
無知な者のみが、誤って干渉主義と資本主義を同一視し、
それらの害悪の治療法は社会主義だと信じているのだ。

干渉主義を唱える者たちが理解できていないことは、
自分たちが提案する様々な方策が、目指された有益な結果をもたらすことが出来ないことだ。
それどころか、それらを唱える者たちの立場から見ても、
それらが変えるべく計画された前の状態よりも悪化した事態を、それらが生み出すのである。
政府は、もしも、その最初の干渉の失敗に直面して、
その市場に対する干渉を取り消して自由経済に戻る用意が無ければ、
その最初の方策に、さらにさらに規制と制限を加えなければならない。
その道を一歩ずつ進んで、最後には、個人たちの経済的自由(フリーダム)が消失した地点に達する。
その時、ドイツ型の社会主義、ナチスの指令経済が現れる。

生産は、公衆の側での買いと買いの差し控えによって市場で決まる価格たちによって指示されるか、
政府の生産管理中央委員会によって指示されるか、どちらかしかあり得ない。
手に入る第三の解決策は存在しない。

市場に指示し価格たちを決定している唯一の要因が、目的を持った人間たちの行為である。
自動性は、存在していない。
選んだ目的を意識的に目指し、それらの目的達成のために明確な手段を取る、
人間たちが存在しているのだ。
神秘的な機械力は、存在していない。
様々なモノに対する自分の要求を満たす一人一人の意思が存在しているのだ。
匿名は、存在していない。
あなた、私、ビル、ジョー、残りすべての者たちが存在しているのだ。
そして、我々のそれぞれが、生産と消費の両方に従事している。
それぞれが、その人の分、価格決定に貢献する。

干渉主義者が目指すことは、消費者たちの選択を警察の圧力に代えることである。
国家は、これやあれを行うべきだという、この話すべては、究極的には、こういう意味である。
自発的に振る舞うのとは違うように振る舞うよう、警察が消費者たちに強いるべきであると。
我々に農場価格を引き上げさせろ、我々に賃金率を引き上げさせろ、
我々に利益を下げさせろ、我々に経営陣の給料を削減させろというような提案において、
その我々とは、究極的には、警察を指す。

ジレンマは、自動的な諸力と計画された行動の間にあるのではない。
個人誰もがその人の分を持つ民主的な市場過程と独裁機関の排他的支配の間にあるのだ。
市場経済で人々が行うことは何でも、その人自身の計画の実行である。
この意味では、人間行為は、すべて計画を意味している。
計画者を名乗る者たちが唱えていることは、
物事を放っておくことを、計画された行動に代えるのではない。
同胞の人たちの計画を、計画者自身の計画に代えるのだ。
計画者は、他のすべての人々から、
計画して自分自身の計画に従って行動する権限を奪いたがっている、
潜在的な独裁者である。
彼は、一つのことだけを目指している。
彼自身の計画の排他的で絶対的な優位性である。

それらの人たちの目には、ビジネスに対する政府干渉の、
望んでいなかった望ましくない結果は、資本主義によって引き起こされる。
まさしく、自分たちが嫌う状況は、政府の方策がもたらしたということが、
彼らにとっては、さらなる方策を正当化するものなのである。
例えば、彼らは、我々の時代において独占の企てが果たしている役割は、
関税や特許のような政府による干渉の結果であることが理解できない。
彼らは、独占を防止するために政府の行動を唱える。
これほど非現実的な考えは、ほとんど想像が出来ない。
彼らが独占と戦うよう求めている政府たちは、
同じく独占の原理に専念している政府たちなのである。

資本主義と社会主義の対立は、
確定的なモノの供給から、それぞれに割り当てられる部分の大きさに関する、
二つのグループの主張者たちの争いではない。
どんな社会の組織化のシステムが人間の福利に最も良く役立つのかに関する論争である。
社会主義と戦っている者たちが社会主義を拒絶しているのは、
社会主義の生産様式から引き出せるとされる利益で労働者たちを妬んでいるからではない。
社会主義と戦っているのは、まさしく、それが、大衆を貧しい農奴の地位に落として、
無責任な独裁者の全く為すがままになって、大衆を害すると確信しているからである。

経済的自由(フリーダム)の「過度」の唱道というようなものは存在しない。
一方において、あり得るのは、
生産が、最も適切な方法で消費者の最も緊急の要求を満たすように、
自分の行いを調整する各個人の努力によって指示される。
それが、市場経済である。
他方において、あり得るのは、
生産が、権威主義(政府が命令する主義)の法令によって指示される。
それらの法令が、経済構造のうち、いくつか単独の品目のみに関係していたら、
得ようとした目的は達成できず、それら自体を唱えた者たちが、それらの結果を好まない。
もしも、それらが、全面的な統制に達したら、全体主義の社会主義を意味する。

人々は、市場経済と社会主義の間で選択しなければならない。

自由(フリーダム)と自由(リバティー)は、
常に、警察の干渉からの自由(フリーダム)を意味する。

彼らは、法の支配によって統治される国家を福祉国家に代えることを唱える。
その福祉国家において、パターナル(父親的)な政府が、
公共の福祉に有益と考えることすべてを自由に成し遂げることが出来るべきであると。
啓明な支配者が一般福祉を促進する試みを「紙切れ」が抑制すべきでないと。
反対者たちはすべて、有益な政府の行動を妨げないよう、
無慈悲に押し潰されなければならないのだと。

福祉国家と計画を唱える者たちは、皆、潜在的な独裁者である。
彼が計画するものは、他の人々から権利すべてを奪うことであり、
彼自身と彼の友人たちの制限されていない全能を確立することである。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-704.html

2011年5月28日、トーマス・ウッズ、ロサンゼルス

 

過激主義、この言葉が、いつも我々が受け取っているものです。
あら大変、あなたたちは、過激主義者ですと。

過激主義という言葉は、議論を打ち切るために用いられます。
過激主義者になりたいですか。
あなたは、間違っているのでしょうか。
いえ、いえ、いえ、あなたは、主流にならねばならないのだと。

我々の社会では、本当に実質的な論点について語りたければ、
あなたは、過激主義者になるのです。
もしも、主流の一部になれば、あなたは、彼らが我々に語らせたい、
まったく些末な論点で満足することになるのですから。
最高限界税率を39.5%にするべきか、35%にするべきか、どちらにするべきだろうかと。
毎年、どちらの可能な方法で、政府が我々を略奪するべきか、
彼らが、この部分から財産を略奪できるか、
また別の部分から財産を略奪できるか、さあ話し合えと。

もしも、あなたが、そもそも、そういう徴収が嫌いだったら、どう、その質問に答えますか?
あなたのための答えは、存在しないのです。
あなたは、過激主義者だぞぉ~と。

しかし、究極的には、これは、善悪、正邪の問いなのです。

これまでの結果は、どうだったでしょうか。
ひとしきり、世界中に素晴らしい自由(リバティー)が出現したでしょうか。
それとも、全体主義革命、全面戦争、返済不可能な債務、
圧倒的な負担、増大する官僚だったでしょうか。

そのうえ、間違った名前で呼ばれている「進歩主義」。
この構造を見て、これが社会を組織する最良で唯一の方法であり、
それに異議を唱える者は誰でも「過激主義者」でなければならないのだと言っています。
その人たちが、厚かましくも、「権威を疑う」という表現を用いています。
この人たちが、前回、なにかを疑ったのは、いつですか?

これは、精神異常みたいなものですよ。
もう、とてつもない、ぼろ儲けです。
これは、信じられないような、ぼろ儲けですよ。

人々を略奪して、搾取して、それから、その傷に恥の上塗りです。
それに喝采を送るように、子供たちを訓練しているのですから。

私は、信じません!
私は、この制度が、人間の進歩を抑え込んできたと思っています。
彼らが、我々をお互いに反目させて、内戦です。
誰もが、つかみ取ろうとしています。
我々の誰もが、なんらかの利益団体に巻き込まれています。
それは、職業、年齢、民族、階級。
誰もが、つかみ取ろう、つかみ取ろう、つかみ取ろう。
フレデリック・バスティアが言いました。
国家は、誰もが、それによって他人に負担させて生きようとしている、
大きな虚構(フィクション)なのだと。



それゆえに、私は、この制度は、非文明化工作員みたいなものだと信じています。
ですから、私は、あらゆる面で、それを止めたいのです。

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが言いました。

誰もが、社会の一部を、その肩に担っている。
他の者たちによって、自分の責任の負担から解放される者はいない。
もしも、社会が、破滅に向かってなだれこんでいるなら、
自分のために安全な道を見いだすことの出来る者はいない。
それゆえに、自分自身のために、誰もが、活発に、知の戦いに飛び込まねばならない。
無関心に傍観しておれる者はいない。
皆の利益は、その結果によって決まる。


 


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-823.html

1948年、ルードヴィヒ・フォン・ミーゼス、「経済学教育の目標」

 Ludwig von Mises

自由(フリーダム)と全体主義という二つの社会組織システムの間の闘いは、
民主国では、投票で決まる。

最終結果が、イデオロギー上の要因に依存することは、明らかである。
自由(フリーダム)の擁護者たちは、
自由の理想に完全に無条件に傾倒している市民たちによって、
支持されている場合に限り、勝つことが出来るのである。
もしも、自分たち自身の陣営で、世論を形成している者たちが、
全体主義の施策に対する共感に感染していれば、負けるのだ。
人は、自分の信念のために、死ぬまで戦う。
しかし、自分の目には半分だけ正しい主張に、真剣に献身する者はいない。
「私は、共産主義者ではない。しかし・・・」と言うような者は、
厳密に自由に賛成して共産主義に反対して戦うためには、当てに出来ない。

マルクス主義のポリロギズム(Polylogism)の教義によると、
人間の思想は、その人の階級的立場を必然的に反映しているのだと。
その人の階級の自己利益の変装以外の何物でもなく、
他の社会階級すべての利益とは、相容れずに対立するのであると。

「非正統的」教化の束縛から、人々を、特に知的な若者たちを解放する試みは、
哲学と認識論の水準で始まらなければならないことは、明らかである。

「理論」を扱うことに嫌気することは、
マルクスの弁証法的唯物論に従順に屈服しているに等しいのだ。
知における、自由(フリーダム)と全体主義の間の闘いは、
具体的な統計上の数字や歴史上の出来事の意味についての議論においてではなく、
認識論と知識論という根本的な論点の徹底的な考察において、決せられるであろう。

進歩主義者を名乗る者たちの間に、数多くの一貫したマルクス主義者たちがいることは確かである。
しかし、進歩主義者たちの大多数は、彼らのマルクスの評価において、穏健で折衷的である。

進歩主義の多くの目立つ擁護者たちは、自分たちが、最終的に、
自由企業制を社会主義に置き換えることを目的としていることを公然と宣言している。
しかし、他の進歩主義者たちは、提案された改革によって、自分たちは、資本主義を救いたいのだと、
もしも、改革されず、改善されなければ、それは、破滅する運命にあるのだと、
何度も繰り返し告知している。
彼らは、永続する社会の経済組織システムとして、干渉主義を唱えている。
穏健なマルクス主義のグループたちが、社会主義の漸進的実現のための手法として、
それを唱えるようにではないが。

ここでは、干渉主義の分析に入る必要はない。
干渉主義の方策は、変更のためにそれらが考案された以前の状況よりも、
(それらに頼る政府たち政党たちの視点から見ても)良好でない結果をもたらすということは、
論駁の余地なく示されてきた。
もしも、政府と政治家たちが、それらの失敗が教える教訓を学ばず、
商品価格、賃金、金利に対する干渉すべてを控えたがらないのであれば、
市場経済システム全体が、全面的計画と社会主義に取って代わられてしまうまで、
自分たちの最初の方策に、ますます統制を追加しなければならないのである。

それぞれが、あらゆる銘柄の競争相手の短所を論破することに熱心である。
しかし、干渉主義の企ての底にある教義、
矛盾と弊害は資本主義に固有なのだとする想定が、
概して、あらゆる種類の進歩主義で一様であり、
ほとんど何ら反対されることなく一般に受け入れられている。

その誤謬は、経済学の教育が、暴露せねばならない。
不健全な思想を健全な思想に置き換える試みの成否は、
最終的に、この任務を達成しようと試みる者たちの能力と個性に依る。
もしも、決断を下す時に、正しい人々が不足していれば、我々の文明は、おしまいの運命だ。
しかし、そのような先駆者たちが得られたとしても、
彼らの努力は、同胞市民たちの側での白けと無関心に会えば、無駄となる。
文明の生き残りが、個々の独裁者や総統や首領の悪行によって危険に晒されることがある。
しかし、その維持、再建、継続には、すべての善意の人々の共同努力が必要なのだ。





http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-382.html

2009年4月22日、ヒラリー・クリントン、下院外交委員会

 

 Hillary Clinton

私たちの時間が終わってしまう恐れがありますので、言っておきたいことがあるのですが、
昨年の大統領選挙運動をやっていて、あなたのところに、
私が今まで見たなかで、最も熱烈な支持者たちがいました。


 Ron Paul

私は、その話を聞くのが大好きです。


 Hillary Clinton

まあ!
私が行ったどこでも、彼らが、あなたのプラカードを持って、文字通り、道々にいました。
今まで、そのことを、あなたに言うチャンスが全くなかったのですが、
あなたのメッセージが、多くの人々に共感されていることは確かでした。


 Ron Paul

ありがとうございます。


 Howard Berman

あなたは、さらに彼を勇気づけてますね。


 Hillary Clinton

ガハハハハ


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-713.html

2007年7月23日、ヒラリー・クリントン、民主党大統領候補者討論会

 Hillary Rodham Clinton

ご存じのように、それ(リベラル)は、
もともとは、自由(フリーダム)を支持し、
自由(フリーダム)の達成を求めて、大きな権力に反対して、
個人のために立ち上がろうとするという意味の言葉でした。

残念ながら、それは、この30年、40年の間に、ひっくり返されて、
あたかも、大きな政府を表す言葉であるかのように作り上げられました。
19世紀、20世紀初めに意味していたものとは、まったく反対のものへと。

私は、むしろ、「進歩主義」という言葉を好みます。
それは、真のアメリカ的意味を持っていますが、
20世紀の始まりの進歩主義の時代へと戻りたいのです。





http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-752.html

2011年9月19日、ロバート・マーフィー、支援者サミット・ウィーン

 Robert P. Murphy

いわゆる「進歩主義者」が、自らを「リベラル」と名乗って、
それ(リベラル)が、今、悪い言葉になっていますが、
今は、「進歩主義者」という言葉を用いています。
我々は、あれは、後退主義者だろと言っていますけどね。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-815.html

2007年10月13日、ラルフ・ライコ、ミーゼス研究所25周年祝賀会

 Ralph Raico 

ええ、私は、信じませんけど。
実際には、私は、陰謀を信じています。
私の友人マリー・ロスバードが、よく言っていました。
陰謀は、どれも本当だと、ハハハ。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-654.html

2010年5月14日、ロン・ポール、「自由のための運動」地方会議、アイオワ州

 

時々、私たちは、陰謀を信じている人たちに近づき過ぎていると非難されます。
しかし、それに対する私の答えは、本当でない陰謀の話は信じるな、ハハハ。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-793.html

1982年、マリー・ロスバード、「法、財産権、空気汚染」

 Murray Rothbard

リバタリアニズムの政治理論の基本原則は、どの人も、自己所有者であり、
自分自身の肉体に対する絶対的な支配権を持っていると考える。
実質的に、これは、他の誰も、別の人間を正当に侵略したり、
攻撃したりしてはならないという意味である。
したがって、各人が、占有したり、もしくは「自分の労働を混ぜる」、
以前には所有者のいない、どんな資産も正当に所有するということである。
この二つの原則、自己所有権と「入植」から、
自由社会における財産権の所有権システム全体の正当化が生じる。
このシステムが、すべての人間の自分自身の身体に対する権利、
寄贈、遺贈の権利(そして、付随して、遺贈物、相続財産を受け取る権利)、
財産の所有権を契約上で交換する権利を確立する。


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2013年7月24日、ルー・ロックウェル、「リバタリアニズムの逆説」

 Lew Rockwell

リバタリアニズムのメッセージは、単純である。
それは、原則的に、子供たちを含めて、ほぼ皆に共有されている、
道徳上の前提および直観を意味する。
誰も害するな。
誰からも盗むな。
お前自身のことに専念せよ。

「俺が、最初に、これを手に入れた」と、子供は言うだろう。
以前には未所有だったものの最初の使用者が、道徳上で、
後から来た者たちよりも優位に立つという、直感的な感覚があるのだ。
これも、リバタリアニズムの理論の中心的見地である。

ロックに続いて、マリー・ロスバード、その他のリバタリアニズムの哲学者たちは、
どのようにして財産が所有されるようになるのかについて、
道徳上、哲学上で擁護できる説明を確立しようとした。
ロックは、地球上のものは、最初は共有されていたと考え、
一方、ロスバードは、よりもっともらしく、
すべてのものは、最初は未所有だったと考えたが、
この違いは、彼らの分析に影響を与えない。
ロックは、どのようにして誰かが、彼個人が使用するために、
あるものを共有から外すことができるのかを正当化しようとし、
ロスバードは、どのようにして誰かが、未所有のものを獲得し、
彼個人が使用するために、それを要求することができるのかに関心があった。

ロックの答えは、よく知られていよう。
彼は、まず第一に、「すべての人が、彼自身の身体に財産を持っている」ことに言及した。
拡張して、誰もが、それら彼が彼の労働を混ぜたものを彼自身の財産として正当に保有する。
土地を耕すこと、リンゴを摘み取ること、いずれにせよ、
以前には個人所有者がいない自然状態にあった財産に入植した最初の人が、
彼自身をその所有者と呼べるのだと、我々は言う。

以前には自然状態にあったものが、いったん入植されたら、
その所有者は、彼の所有権を維持するために、
それに働きかけたり、それを変形したり、し続ける必要は無い。
その初めの入植過程が、いったん起これば、
未来の所有者たちが、その財産を取得できるのは、
それと自分たちの労働を混ぜること(その時点で、侵入である)によってではなく、
それをその正当な所有者から買うか、それを贈り物として受け取るかによってである。

この規則は、公正であることに加えて、争いも最小化する。
これは、すべての人々に等しく適用される原則に基づいた、誰もが理解できる規則である。


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1971年3月1日、マリー・ロスバード、「リバタリアニズム内の左派と右派」

 Murray Rothbard

リバタリアンは、もちろん、私有財産権に対する、
いかなる個人もしくは集団の攻撃にも反対しているが、
そのような権利に対する、何にもまさる攻撃者、
国家機関に間違いなく照準を合わせている。

民主制や君主制や独裁制を信じる者たちとは異なり、
リバタリアンは、国家が、いかなる神聖を、または、
一般道徳律より上にそれを置く他のいかなる是認を、
帯びていると見なすことを断固として拒否する。
もしも、一人の人もしくは一つの集団の人たちが、
ある人の身体もしくは財産に対して攻撃することが犯罪ならば、
自らを「政府」もしくは「国家」と呼んでいる一団が、
その同じことを行うことは、等しく犯罪である。


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1971年、マリー・ロスバード、「ミルトン・フリードマンを解体」

 Murray Rothbard

リバタリアニズムの運動は、あまりに長く、知において怠惰な道でやってきた。
区別を付けるのを怠り、識別するのを怠り。
我々の仲間だとか同盟者だと主張する者たちの見解の中にある、
真実と誤りを識別するために厳密な調査を行うのを怠り。
それは、ほとんど、まるで、どんなジョーカーが回ってきても、
「自由」について、二、三、つぶやいたら、自動的に、
一つの大きなリバタリアニズムの家族の一員として、
我々の胸に抱きしめるというようなものだ。
我々の運動が、影響力を増すにつれて、
我々は、もう、この知における怠惰という贅沢をする余裕はない。





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2013年3月23日、ステファン・キンセラ、Liberty in the Pines

 

題名は、「ロックの大きな間違い、いかに労働財産理論が政治理論を台無しにしたか」です。
なぜ、私が、これが興味深く、また、自由(リバティー)のための我々の戦いに、
とても関係していると思うのか、説明を試みます。

彼の議論の一部が、政治理論で多くの深刻な問題を引き起こしました。

私が、25年以上の間、リバタリアニズムについて考えてきて、
私の意見では、我々が直面する一つの問題が、隠喩(メタファー)の過剰使用、
言語の不正確な使用と明快でない思考であるという、結論に達しました。

我々が、自己所有とリバタリアニズムについて語る時、
実際には、肉体所有について語っているのだと思います。
そこで、問いは、常に、誰が、あなたの肉体を所有しているのかです。
私なのか、それとも、他の誰かなのか。
あなたが信じているのは、あなた自身が、あなた自身を、
もしくは、私が言うべき、あなたの肉体を、支配することなのか、
それとも、奴隷制か、それが、基本的な選択です。
明快な言語で語れば、これらのものが、より明快になります。

人々が、自分は、強制に反対だと、自分は、リバタリアンだと、言います。
もしくは、自分は、暴力に反対だと。
いいえ、我々は、暴力に反対しているのではありません。
我々は、強制にも反対していません。
我々は、攻撃に反対しているのです。
攻撃とは、開始された力の使用、開始された暴力、開始された強制です。
強制は、力の一種でしかありません。
誰かに何かを行うよう強いるために、力を用いるという意味です。
誰かが、私の家に侵入しようとしたら、私は、そいつに強制しますよ。
そして、それは、正当なことです。
ですから、我々は、強制に反対していませんし、
我々は、力に反対していませんし、我々は、暴力に反対していません。
我々は、開始された力や強制や暴力に、つまり、攻撃に、反対しているのです。

また一つが、労働-対-行為です。
あなたの労働の果実を所有することについて、人々が、いつも語ります。
人々は、自分たちの労働を売る権利を持っているのだ、そういう類いのものです。
彼らは、労働が、特別なものであるかのように振る舞います。
あなたについては知りませんが、私にとっては、労働は、行為の一種でしかありません。
人間たちが、自分たちの肉体を所有しています。
我々は、何らかの仕方で行動するのです。
それが、人間行為です。
労働は、行為の一種でしかありません。

長年の間、リバタリアニズムの本質をどう定義するか考える際に、
私は、それについて考える最良の方法が、我々が、このことを認識することだと思います。
我々は、皆、お互いに社会で生きている人々であるということ。
我々は、我々の中で、皆、少なくとも、文明人たちであるということ。
我々は、概して、我々自身の生活が良くあってほしいと思っていますが、
我々は、平和と繁栄にも賛成します。
我々は、我々の隣人たちが、良くあってほしいと思っています。
そして、我々は、お互いに社会の中で暮らすことを好みます。
そして、我々は、皆、次のことを理解します。

行為は、あなたが、知性ある、理性ある人であることを意味します。
あなたは、世界について何かを理解しています。
あなたは、未来が来ることを知っています。
あなたは、あなたが満足していない、もしくは、変えたいと思っている、
起ころうとしていると思う未来について、何かを思い描いています。

そして、我々は、その未来に影響を及ぼせる能力を持っていることも理解しています。
どうやって?
不足手段とミーゼスが呼ぶものを用いることによってです。
それらは、あなたが未来の針路を変えるために用いることが出来る、世界の中にあるものです。
あなたの肉体を含めて、そして、あなたが見つけるもの、基本的に道具を含めてです。
そして、我々は、人間の文明から、過去の社会から、他の者たちから、学ぶことから、模倣から、
我々が蓄積してきた、いくらかの理解、いくらかの知識を我々の頭の中に持っています。
来ると我々が思っているものについて、
また、我々が行動を取らねば来るであろうものより、
我々を満足させるかもしれないと我々が思っているものについて、
また、どんな手段が利用可能なのかについて、
また、それらが、どのように原因として物事を変えるのかについて、
我々は、いくらかの知識を持っています。

ですから、これが、人間行為であるものです。
それは、理解すること、選択を行うこと、何らかの手段をつかみ取ること、
未来を変えるためにその手段を用いること。

そして、その枠組みの中では、我々は、リバタリアニズムが、
それらの手段が不足していることを我々が理解している思想であると理解できます。
不足しているとは、競合的という意味です。
それは、一度に、一人の人のみが、そのものを用いることが出来るという意味です。
そうでなければ、そのものをめぐって戦い、衝突し、
争いを持ち、暴力的喧嘩をする二人以上の人々がいるのです。

財産権の目的全体は、不足している行為手段の使用において、
争いを避けられるようにすることです。
ですから、我々は、皆、我々の日常業務や我々の計画に取り掛かることが出来ます。
お互いに協力し、お互いに取引し、お互いに助け合い、お互いに売り。
法的に認められた、それを支配する排他的権利で、我々自身の不足資源を用いて。
それが、財産権であるものです。
それが、所有権であるものです。

そして、我々は、財産権を支持しているんだと、言うことも出来ません。
なぜなら、それも、我々を区別しないからです。
なぜか?
なぜなら、財産権は、あらゆる人間社会、
これまでに存在したあらゆる政治システムに固有だからです。
共産主義者たちが、財産権を信じています。
社会主義者たちが、財産権を信じています。
ファシストたちが、財産権を信じています。
環境主義者たちが、財産権を信じています。
福祉リベラルたちが、財産権を信じています。
我々が、財産権を信じています。
その違いは、何か?

それが、どのように割り当てられるのかです。
それが、違いです。
そこで、我々は、世界を見て、法システムによって、
誰かによって支配される必要がある不足資源を見ます。
それらが、平和的に、生産的に用いられるようにです。
そして、我々の規則は、単純です。
それが、ロックの規則です。
ロックの規則が、基本的に言っているのは、
誰であれ、ある資源に対する、より良い主張を示せる者が、それを得るんだと。
そして、その、より良い主張は、それを変形させた最初の人として定義されると。
はい、ある意味、彼の労働で。
もしくは、契約によって、他の誰かから、それを獲得したらです。
とても単純です。
契約、加えて、最初の占有です。

さて、最初の占有の理由は、何でしょうか?
ロックが、彼の議論の中で、それを詳しく説明しました。
もしも、誰も、ある資源を用いる最初の者になる権利を持っていなければ、
それは、決して、用いることが出来ません。
誰かが、世の中にあるその未知のものを用いる最初の者にならなければなりません。
そして、彼が、それを用いる権利を得たら、彼が、それを保持する権利を持ちます。
そうでなければ、二番目の人が、それを彼から取ることができ、
それは、財産権システムではありません。
それは、暴力的な衝突のシステムです。
ですから、これは、ほとんど、ミーゼスの貨幣遡及定理みたいです。
金(ゴールド)型式の貨幣の起源もしくは価値を、
その純粋な商品(コモディティー)、非貨幣的な使用にまで遡る時の。
これは、それみたいです。
今、誰が、ある資源を持っているのか見て、
その所有権を最初の能動的占有まで遡ることが出来るのです。
それが、我々の言っていることです。

さて、もう一つの規則を加えることが出来ます。
もしも、誰かが、攻撃行為、何らかの不法行為を犯したら。
あなたが、他の誰かを害したら、彼らの権利を侵害したら、
その行為を実行したのですから、あなたは、彼らに補償する義務を負います。
そこで、彼らは、それゆえに、あなたの財産に対する要求権を得るかもしれません。
ですから、我々は、この規則を修正できます。
その資源を所有する人は、それを契約によって所有者もしくはその最初の占有者から獲得した人、
もしくは、その元の所有者による何らかの犯罪行為ゆえに、それを獲得した人です。
それ以外に、財産を所有する他の方法は存在しません。

ロックは、何と言ったのか?
彼は、基本的に、こう言いました。
しかし、彼の議論には、いくらか余分なものがありますが。
ロックは、神が、この宇宙を創造したと言いました。
神が、この宇宙を所有していると。
神が、アダムとイブを創造しました。
彼が、彼らを所有していましたが、神は、彼の慈悲で、
彼が創造した未所有の資源すべてに対する支配権を人間に与えました。
それで、人間の領域内では、神が存在しようとしまいと、
神が奴隷所有者であることが気になろうと、それをどう見ようと、
要点は、設立されたシステムが存在するということ、
そこでは、もしも、それぞれの人間が、自己所有者であるなら。
ロックが、そう呼んだのですが、自己所有者と言うことの危険を思い出してください。
彼は肉体所有者であると言ったほうが、いいです。
なぜなら、それが、係争中の資源なのですから。

それから、ロックが言ったことは、こうです。
そして、そこに、ロックの議論での問題があると思います。
ロックは、もしも、あなたが、あなた自身を所有しているならば、
あなたが、あなたの肉体もしくはあなた自身で行った労働を所有する、と言いました。
最初に、言葉は何を意味しているのかしらと、批判的なリバタリアニズムの法理論家として、
現在、考えていて、収まらない感情は、あなたの労働を所有するとは、実際、どういう意味なのかと。
しかし、私は、それで進みます。

ロックは、それで、あなたが、この労働を所有している、と言いました。
今、私は、私自身から放射している物質のように考えています。
それで、もしも、それが、未所有のものと混ざれば、
ええ、私が、労働を所有していて、それで、その労働の所有権を保持できる唯一の方法が、
それが混ぜられたものを所有することです。
さもなければ、あなたは、私の労働を私から取り去っているのです。
これが、なぜ我々が未所有の資源を占有できるのかの、彼の議論です。

ヒュームは、このロックの議論は、過度に比喩的もしくは隠喩的であると指摘しました。
我々は、実際には、我々の労働を所有していません。
我々は、我々の肉体を所有しています。
あなたが、あなたの肉体を所有すれば、
それは、あなたが、それで望むどんな行為も行う権利を持っているという意味です。

ロックの議論は、それを単純化し、がらくたを取り除けば、機能します。
ロックの議論が、機能するのは、私が先ほど述べた理由、リバタリアニズムの理由によります。
係争中もしくは競合的な物体、不足資源がある時には、
それを占有した最初の者である人が、それに対する、より良い主張を持っている、
それ以外には、実際、他の答えが存在しないのです。
なぜなら、もしも、彼に、その権利を与えなければ、
言いましたように、そもそも、誰も何も占有することが出来ないか、
もしくは、それを暴力で占有するでしょう、それをめぐって人々が喧嘩して。
それは、やはり、争いの無いやり方で資源が用いられるようにする法システムを持つという、
目的にそぐわないです。

問題は、この考え方全体、この接近法全体が、彼の時代以来ずっと、
政治理論を汚染し感染してきた深く大きな混乱を引き起こしたことです。
おそらく、それは、少なくとも部分的に、労働価値理論と呼ばれる関連学説の台頭に寄与しました。
それは、経済思想以上のものであり、それは、リカードの思考、アダム・スミスの思考、
それから、マルクスの思考を汚染したものです。
労働価値理論は、生産物の価値が、それに入った労働に基づいているという、
この摩訶不思議な考えを持っています。

さて、そこには、いくつかの間違いがあります。
一番目、価値は主観的なのです。
ものには、価値は存在していません。
そこで、すぐに、彼は、固有(本来的)な価値の観点で考えているのです。
メンガーとオーストリア派たちが示したように、
それは、まったく何の意味も成していません。

さらには、あなたは、労働を所有していません。
労働は、物質ではありません。
そして、もちろん、この考え。
自分たちの労働を二つの物体に混ぜる二人の労働者たちがいて、
一つは、高品質で、一つは、低品質。
この人が、それに100時間投入し、この人は、それを10時間でしたら、
それらは、同じ価値を持つことにならないと。
そこで、自分の理論を逆分解しなければならず、
そして、ああ、今、我々は、この人の労働に乗算係数を持たねばならないと言う。
その時には、ねじ曲がった理論を持つのです。

 

とにかく、共産主義、何億人の死という結果になったのが、労働価値理論です。
もしも、それが、ロックの責任であるなら、
我々は、彼は少しばかり不注意であると言えるであろうと思います。

しかし、私は、その責任をロックに負わせません。
なぜなら、それらの思想は、1300年代のイスラム教の思想家たちに遡れるからです。
ずっと昔ということです。
しかし、人々が所有できるものとしての労働という考え、
この隠喩的な接近法が、マルクスの労働価値理論に至ったという、いくらかの証拠はあります。

しかし、ロックでの問題は、労働財産理論です。
あなたが、あなたの労働を混ぜるものを所有するという考え。
これが、本当でないことは、明らかです。
例えば、私が、ある会社の被雇用者であるとしたら、
マルクスは、それを廃止するのだと思いますが、
私が、賃金をもらって、私の労働を混ぜて、
雇用者の木と釘から椅子を組み立てたら、
ええ、私は、私の労働をそれと混ぜました。
なぜ、私は、それを所有していないのですか?
ええ、契約が存在したからであり、
そもそも、私は、決して、それを所有していませんから。

問いは、常に、誰が、この資源を所有しているのか?です。
なぜなら、その他のものをめぐっては、何も争い得ないのですから。
なぜなら、資源は、必然的に、それをめぐって争われるか競合的であり得ますから。
ですから、政治哲学のすべてにおける問いは、常に、常に、
もしも、あなたが、ある資源、二人以上の人が用いたいと望んでいるものを指差せるなら、
そして、それをめぐる争いの可能性があるのなら、
誰が、正当に、それを支配することが出来るのか、
それを所有できるのか、それに財産権を持てるのか?です。

私が、いくらかの原材料を所有していたら、
たとえば、いくらかの木と、いくらかの鉄、
そして、それらのもので椅子を作り上げたら、
私が、より価値のある物体を作った、ということは完全に本当です。
誰にとって、より価値があるのか?
私にとって、もしくは、もしかしたら、顧客になる可能性のある人にとってです。
思い出してください、椅子には、価値は存在していません。
価値は、固有(本来的)ではありません。
それは、客観的ではありません。
価値は、価値評価する行為する人間たちの間の主観的な関係なのです。

それで、とにかく、私が、より価値のある形に資源を変形します。
もしくは、経済用語では、私が、富を創り出したと、我々は言うことが出来ます。
なぜ、私が、富を創り出したのか?
なぜなら、私が、あるものを、私にとって、もしくは、他の誰かにとって、
より価値のあるものにしたからです。
実際、二人の人たちが、ただ、自分たちの物を交換したら、
二人の人たちが、リンゴとオレンジを交換したら、
彼らは、その取引によって、富を創り出したのです。
それは、古典派経済学者たちが言うような、価値が等しい水平交換ではありません。
実際には、自分のオレンジでリンゴを買う人は、
オレンジよりもリンゴを高く価値評価しているのであり、逆もまた同様です。
それだから、彼らは、その交換に従事したのです。
おのおのが、取引の後に、より良くなっているのです。
ですから、富は、ただ、純粋な交換によって創り出されます。

富は、自分たちの財産上で労働する人間たちによっても創り出されます。
富は、破壊されることもあり得ます。
もしも、あなたが、機械か何かを作ろうと試みて、間違いをし、
あなたの財産を台無しにしたら、あなたは、富を失いかねません。
しかし、財産権は、変化していません。
実際、私が椅子を作ることは、私が原材料を所有していることを前提しています。
私は、すでに、それらの原材料を所有しているのです。
どのようにして、私は、それらを得たのか?
最初の二つの方法の一つです。
私は、それらを以前の所有者から契約によって買ったか、
私が、自然状態から、それらに入植したか、どちらかです。
それだけです。
ですから、その所有権は、創造行為や生産行為より前に、すでに始まっているのです。
生産行為は、あなたがすでに所有している材料に対して、
労働する、確かに、あなたの労働を用いる行為です。
もしくは、それは、他の誰かの材料に対してでも可能です。
あなたが、他の誰かの材料に働いている被雇用者であれば。
その時には、あなたは、それを所有していません。
ですから、鍵は、常に、生産的労働に入る原材料を所有しているのは、誰なのかです。

創造、労働は、富の源ですが、財産権の源ではありません。

私は、私の行為を所有しているとか、私は、私の記憶を所有しているとか、
なぜなら、私が、それらを支配しているのだからと、実際問題として、言うことは出来るでしょう。
しかし、もしも、それを、そのように言えば、二重計算の間違いを犯すのです。
私は、私の肉体を所有し、そして、私は、私の行為を所有している、と言っているのですから。
いいえ、あなたは、あなたの肉体を所有しているから、
あなたは、どんな行為を実行するのかを支配できる能力を持っているのです。
それは、結果なのです。
それは、派生物なのです。
それは、別々の独立したものではありません。

不足手段は、目的を果たすために我々が用いるものです。
それらが、所有できるものです。

世の中にある、以前には未所有だったものは、
我々が、それらを所有するのは、
我々が、最初の占有か、その後の何らかの契約を持つからです。


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2011年、ラルフ・ライコ、「リベラリズム:本物と偽物」

 Ralph Raico

実際、リベラリズムについての文献を調査すれば、概念上の混乱状態が明らかになる。
この一つの根本的原因が、「リベラル」を自称した重要な政治的集団たち、
すべてを収容しようとする頻繁な試みである。

そのような変化は、民主的選挙の政治の力学によって容易に説明される。
集産主義の思想の競争に直面して、リベラル政党たちは、
新しい種類の「政治的起業家たち」を生み出した。
「たかり」選挙民たち、すなわち、
国家を用いて自分たちの経済的立場を高める者たちを、
動員する技に長けた者たちである。



この分野で一般的な混乱の多くは、ジョン・スチュアート・ミルに遡れる。
英語を話す人々によって受け入れられているリベラリズムの概念において、
非常に膨らまされた立場を占めているのだ。

ミルは、起業家たちと労働者たちを含む、
すべての社会階級の利益の長期的調和というリベラルの考えを拒絶した。

国際問題では、ミルは、外国の戦争に不干渉というリベラルの原則を拒否した。

最悪なことは、ミルが自由(リバティー)の概念を醜く変形させたことだった。
自由(リバティー)は、国家やその他の団体たち個人たちの側の、
物理的攻撃によってのみ、脅かされる状況ではないようだと。
むしろ、「社会」が、しばしば、個人の自由(フリーダム)に対して、
もっと重大な危険をもらたすのだと。

彼は、自分が何も知らない多数の人々の、
習慣、態度、選好、道徳的規準に対して絶えず判断を下した。

受け入れられている宗教、伝統、社会規範に敵対する姿勢に、
リベラリズムを繋げる決定的な結合は、
他の誰より、ジョン・スチュアート・ミルのせいである。
それが、残念ながら、標準になってしまった。

一方に、国家の強制、他方に、社会的圧力、正統的意見、慣習、
その間の区別を付けないのである。

ミルの見解は、「社会的不承認を被ることと投獄を被ること」の間の、
かなり決定的な区別を消す傾向にあり、リベラリズムを、
無実の非強制的な伝統的価値観や取り決め、特に宗教的なものに立ち向かわせることになる。
それは、リベラリズムと国家の間で、攻撃同盟も作り出す。
もしかしたら、ミルの意図に反するとしても、伝統的な規範は、
政治的権力の大規模な使用による以外、根絶できる方法は、想像が難しいのだから。

リベラルの通俗的な意味が、時間とともに大幅に変わってきたことは、争点になっていない。
1900年あたりで、英語を話す国々その他の場所で、この用語が、
本質的に社会民主主義者である著述家たちに捕らえられたことは、良く知られている話である。

修正主義の社会主義の創始者、エドゥアルト・ベルンシュタインの、この言葉を考えてみよ。
「自由な個性の開発と保護が、すべての社会主義の方策の目標である。
 たとえ、それらが、表面的に、強制であるように見えてもである。
 社会における自由(フリーダム)の総量を増やし、
 より幅広い集団に対して、それが取り去るよりも、より多くの自由を与えることが、
 強制の問いであることは、より綿密な考察が、常に示している。」

これが、過去一世紀それ以上の間の「新しいリベラルたち」の立場と、どう違うのか?
リベラリズムを反対のイデオロギーたちから分けるものが、
まさしく、その実質的な施策、擁護する手段である。
すなわち、私有財産、市場経済、そして、国家および国家後援の団体の権力の最小化である。

リベラリズムの概念が、市場経済と私有財産の支持者を締め出すべく変形された後、
「個人主義」も、その同じ目的のために、再定義されることになったのである。

こんにちの絶え間なく拡大する福祉国家に魅了されている著述家たちが、
それをリベラルの伝統に融合させようと試みてきたことは、驚くに当たらない。

その結果は、歴史的なリベラルの柱である、私有財産、法の前での平等、
契約と言論と結社の自由の、計画的な転覆である。

こんにち、ハーバート・スペンサーが、一世紀以上前に表明した不満が、
これまでにも増して真実味を持っている。
「そんなことが、リベラルの名を主張する党の行っていることなのだ。
 拡張された自由(フリーダム)を唱える者であるとして、リベラルを自称している!」

厳しく制限された国家を設立するというリベラルの施策が、根本的な矛盾を隠していて、
物事の本質上、必然的に、包括的な権力で武装した国家に道を譲るというのは、もっともらしい。
これは、ハンス・ハーマン・ホップによって、説得力を持って論じられてきた。
「自由(リバティー)と財産を保護するという元のリベラルの意図に反して、
 どの最小政府も、最大政府になる生来の傾向を持っているのである。」と。

リベラリズムが、包括的な社会哲学として、18世紀に形成された時、
それは、欧州で一般的だった重商主義と官房主義のシステムの正反対のものとして現れたのである。

人々に対するパターナル(父親的)な気づかいが、国政術の最高目的だった。
それが、この、経済を、同じく、残りの社会生活を、管理するシステムだった。
その意図が、善意だとされることは、
それを専制的であると激しく非難するリベラルたちにとっては、関係なかった。
警察国家(Polizeistaat)は、偶然にも、「福祉国家」として最良に訳される言葉であるが、
リベラリズムは、それに反発して成長したのである。

歴史的に、君主絶対主義が、国家は、社会のエンジンであり、
その臣民の宗教的、文化的、特に、経済的生活の必要な監督者だと主張してきたところで、
リベラリズムが、最も望ましい体制は、市民社会、すなわち、
私有財産と自発的な交換に基づいた社会秩序全体が、
全般的に自らを運営するものだと、際立って対照的な見解を立てたのである。

リベラリズムの理念型を構築するなら、
「国家に対する社会」というリベラルの断言の象徴的表現に頼るだろう。
最も簡潔なものが、重農主義者のスローガンである。
「レッセフェール(為すに任せよ)、レッセパッセ(行くに任せよ)、世界は、ひとりでに進み続ける」

リベラリズムは、本質的に、社会の自己規制、有益な自生的秩序を生み出すその能力の教義である。


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2009年7月28日、ラルフ・ライコ、ミーゼス大学

 

ハイエクは、シカゴ大学で、私の教授でしたけど、
彼は、好きな人が多すぎました。


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2010年6月10日、ハンス・ハーマン・ホップ、「財産と自由のソサイエティー、五年後の反省」

 Hans-Hermann Hoppe

モンペルラン・ソサイエティーに関しては、当初から懐疑があった。
ハイエクの教師で友人だったルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが、
ハイエクの初めの招待者たちを見ただけで、彼の計画に関して厳しい疑いを表明していた。
認定された国家干渉主義者たちでいっぱいのソサイエティーが、
どうやって、自由で繁栄する国という目標を促進できるのだろうかと。

しかし、ミーゼスは、初めの疑念にもかかわらず、
モンペルラン・ソサイエティーの創立会員になった。
しかしながら、彼の予想は、正しいことが分かった。
有名な話だが、初期のモンペルラン・ソサイエティーの会合で、
ミーゼスは、演説者たちと討論者たちを社会主義者どもめと非難して退席した。
それが、本質的に、私がモンペルラン・ソサイエティーと接触した時、私の最初の印象でもあった。
そして、その印象が、それ以来、確証されてきた。
モンペルラン・ソサイエティーは、右翼の社会民主主義者が皆くつろげるソサイエティーである。
確かに、時折、変わったのが演説するよう招待されているが、
認定された国家干渉主義者たちによって会合は占められ、容認される対話の範囲が線引きされた。

このすべてが、ハイエクのせいに出来ないことは言うまでもない。
彼は、1992年の彼の死のずっと以前に、すでに、ますます、
モンペルラン・ソサイエティーを制御できなくなっていた。

とはいえ、ハイエクが、モンペルラン・ソサイエティーが成ってしまったものに大いに関係していた。
ミーゼスが、その時、すでに知ることが出来たように、そして、
ハイエクの「自由の条件」の出版で、1960年に、ついに明らかになったように、
ハイエク自身が、明らかな干渉主義者だったのだから。
この有名な本の第三部で、ハイエクは、スカンジナビア-ドイツ様態の社会民主主義の穏健派なら、
皆が容易に賛同できる干渉主義の計画にまみれた「自由」社会のための計画を練ったのである。

当時、私が、理解するようになったことが、これである。
古典的リベラルの観点から判断して、
モンペルラン・ソサイエティーの嘆かわしい展開は、偶然事ではないと。
むしろ、それは、ハイエクだけでなく、究極的には、
最小国家という彼の考えでミーゼスも犯していた、
根本的な理論上の欠陥の必然的な結果であったのだと。

この欠陥は、モンペルラン・ソサイエティーをさいなんだだけではなかった。
その子孫として、1960年代以来、西洋、合衆国に支配された世界中で現れた、
「制限された政府」のシンクタンク産業全体をさいなんだのである。
モンペルラン・ソサイエティーは、その「国際的」機能を引き受けたのである。
「制限された」もしくは「憲法に則った」政府という目標は、
フリードリヒ・ハイエク、ミルトン・フリードマン、ジェームズ・ブキャナン、その他、
モンペルラン・ソサイエティーの大公たちが、促進を試み、
こんにちの「自由市場」シンクタンクが、自らの目標として宣言しているが、不可能な目標なのだ。
円を四角にしようと試みることが、不可能な目標であるのと同じくらいに。
まず法と秩序の領土的独占を確立して、それから、その独占者が、
自分自身に有利に、その素敵な立法特権を使用することはないと、
期待することは出来ないのである。
同様に、紙幣製造の領土的独占を確立して、その独占者が、
ますます、お金を刷るその権限を用いることはないと、
期待することは出来ないのである。



国家の権力を制限することは、いったん、立法の領土的独占が与えられたら、
不可能な、自己矛盾した目標なのである。
それを競争に晒すこと、すなわち、そもそも、
いかなる種類の独占特権の発生も許さないことによる以外、
政府の権力を制限することが可能であると信じることは、
人間の本性が政府の設立の結果として変わると想定することである。
(社会主義が始まれば起こると社会主義者たちが信じている人間の奇跡的変容のようなものだ。)

すべては、制限された政府が、幻想的な目標であるということである。
それが可能だと信じることは、奇跡を信じることである。





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1952年、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、「自由のための計画」

 Ludwig von Mises

もしも、人間の誤りやすさと道徳的弱さを理由に、
レッセフェール(為すに任せよ)を退けるのであれば、
同じ理由で、あらゆる種類の政府の活動も退けなければならない。


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2004年9月、ハンス・ハーマン・ホップ、Najwyzszy czas

 Hans-Hermann Hoppe

確かに、ハイエクは、古典的リベラルを自称しています。
しかし、彼の「自由の条件」の第三部と「法と立法と自由」の第三巻を見れば、
まったく異なる印象を抱くことになるでしょう。

このすべてに照らして、ハイエクと、たとえば、
スウェーデンの社会民主主義者との違いは、どこですか?
ハイエクが、八十歳になった時に、
当時のドイツの社会民主主義のヘルムート・シュミット首相が、
彼に送った祝賀電報が、「今や、我々は、皆、ハイエク主義者だ」ですよ。
確かに、シュミットは、ハイエク主義者でしたが、
シュミットもハイエクも、古典的リベラルじゃないですよ!

しかしながら、私は、そこで、もっと邪悪なものが働いているのではないかと思います。
社会主義者の二重戦略と呼べるかもしれないものです。
多くの人々の頭の中では、「リベラル」という言葉は、常に肯定的な含意があったのです。
結局のところ、誰が、自由(リバティー)に反対したいですか?!
そして、筋金入りの、ソビエト式の、社会主義の壮観な崩壊の後、
リベラリズムの良い名は、ずっと良くなりましたが。
今時、誰が、社会主義者と呼ばれたがりますか?!
当時のハイエクのような良く知られた知識人が、不正確に、リベラルとして見なされるなら、
これによって、最も筋金入りの社会主義者を除いて、誰でも、リベラルに改名できます。
そして、ハイエクを「急進的」リベラルと呼ぶことで、
社会主義者出身のリベラルたちは、ハイエクによって唱えられているものよりも、
さらにもっと左翼の見解を採用して、それでも、リベラルであると主張し、
それと同時に、ミーゼスやマリー・ロスバードのような、
本物の古典的リベラルたちやリバタリアンたちを過激派として、
世の中の「ちゃんとした」意見の範囲の完全な外側に締め出すことが可能になります。


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1978年、マリー・ロスバード、「新しい自由のために」

 Murray Rothbard

リバタリアニズムの信条は、西洋世界における17世紀、18世紀の
「クラシカル・リベラリズム」(古典的自由主義)の運動から、
特に17世紀のイギリス革命から現れた。
この急進的なリバタリアニズムの運動は、
その誕生の地、英国では部分的に成功しただけであったが、それでも産業と生産を、
国家統制の窒息的な制限と都市部の政府支援のギルド(特権的同業者組合)たちから
解き放つことによって、産業革命へと導くことが出来た。
西洋世界中で、クラシカル・リベラリズム(古典的自由主義)の運動が、
旧秩序と呼べるもの、何世紀の間その従属民たちを支配していたアンシャン・レジーム
(旧体制)に対する、力強いリバタリアニズムの「革命」だったからだ。
そのレジーム(体制)は、16世紀に始まる近世において、
封建的土地独占と都市部のギルドによる支配と制限という、より古い制限の蜘蛛の巣の上に、
絶対的な中央国家と神権による王の支配を押しつけた。
その結果が、統制、税金、中央(および地方)政府がお気に入りの生産者たちに授けた
生産および販売の独占特権という、活動を妨げる蜘蛛の巣の下でのヨーロッパの停滞であった。
新たな官僚的、戦争作りの中央国家の、特権商人たちとの同盟、
すなわち後の歴史家たちによって「重商主義」と呼ばれた同盟、
そして、支配する封建領主階級たちとの同盟が、旧秩序を構成していた。
それに対して、クラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちと急進主義者たちが、
17世紀と18世紀に立ち上がり反抗したのである。

クラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちの目標は、
個人の自由(リバティー)をその相互関係的な全側面においてもたらすことだった。
経済においては、皆と大勢の消費者たちを益する交換で創造し生産すべく、
税金が徹底的に減らされ、統制と規制が除去され、
人間のエネルギー、企業、市場が解放されることになった。
起業家たちは、ようやく、自由に競争、開発、創造できることになった。
統制の束縛は、同様に、土地、労働、資本からも解かれることになった。
個人的自由(フリーダム)と市民的自由(リバティー)が、
王やその手下たちの略奪と圧制に対して保証されることになった。
宗教は、何世紀の間、宗派たちが国家の支配を得ようと戦う時には
血まみれの戦争の原因であったが、あらゆる宗教たち、もしくは、非宗教たちが、
平和に共存できるように、国家の押しつけや干渉から解放されることになった。
平和も、新しいクラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちの外交政策の信条だった。
帝国と国家の権力と金(かね)の増強という昔ながらのレジーム(体制)が、
平和とすべての国家たちとの自由貿易という外交政策に取り替えられた。
そして、戦争は、常備の陸軍と海軍によって、常に拡大を求めている軍事力によって、
引き起こされると見なされたので、それらの軍事的設立物は、地方の民兵に、
自分たち自身の特定の家々と近隣の者たちを守るために戦いたいと願うのみの市民-民間人に、
取り替えられた。

このように、よく知られている「政教分離」の主題は、
「国家から経済の分離」、「国家から言論と出版の分離」、「国家から土地の分離」、
「国家から戦争と軍事の分離」として要約できる多くの相互関連する主題の一つに過ぎなかった。
実に、事実上あらゆるものからの国家の分離であった。

要するに、国家は、とても低い、ほとんど無視してよい予算で、
極めて小さくしておかなければならなかった。
古典的リベラル(自由主義者)たちは、決して、課税の理論を開発しなかったし、
増税とあらゆる新種の税金には、激しく戦った。


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2009年12月18日、ブライアン・ドーアティ、「二つのリバタリアニズムの話」

 Brian Doherty

(ロン・)ポールの運動は、戦争、お金、政府の役割について、
明白なリバタリアニズムの思想によって動機付けられた、戦後最大の民衆運動である。
認めれる知的指導者たち、アメリカのリバタリアニズムに影響を及ぼした者たちの、
他の誰の信念や流儀に直接影響されているというより、遙かにロスバード主義である。
ポールの聴衆は、ロスバードが彼の活動家人生全体について夢見たような、
反戦、反国家、反フィアット・マネー(法定不換紙幣)の大衆運動である。

彼らの大多数は、自分たちのリバタリアニズムを直接ポール自身から、
そして、ポールを囲むインターネット・コミュニティから、ほどんど学んでいる。

ロスバードが、彼の生涯で決して公表しなかった、また、そのつもりもなかった言葉の中で、
自由と政治秩序についてのハイエクの最も記念碑的な声明書を、
「驚くほどに、痛ましいほどに、極めて悪く、私ならば、有害な本とすら言うだろう。」と呼んだ。
この「有害」な部分は、それがリバタリアニズムの運動に与えると彼が考えた打撃から来ている。

ロスバードは、ハイエクの立場が、より急進的なリバタリアンたちにとって、
「ハイエクですら・・・を認めている」という弁論上の問題を創り出すと感じたのだ。
(それは、ある程度、その通りだった。)

実際、ハイエクは、中央計画の失敗、自由市場の価格システムの力に対する彼の信念、
そして、「社会的正義」の彼の取り壊しと、とても結びついているので、
彼に慣れ親しんでいる多くの人々は、ロスバードが彼を酷評した、
(アナーキー資本主義から見て)悪いことのほとんどを、
ハイエクが信じていたということを知って驚くのだ。


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2011年6月17日、ロン・ポール、The Mike Church Show

 

 Mike Church

ハイエクですか、ミーゼスですか?


 Ron Paul

ミーゼスです。


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2005年9月9日、ラルフ・ライコ、「革命家ミーゼス」

 Ralph Raico

実際、人間の歴史における階級、身分、地位、特権の状況は、どうだったのか?
前資本主義の歴史は、最も下劣な形態の中の、
奴隷制、農奴制、カーストと階級の特権の歴史である。
それは、奴隷所有者たち、武士貴族たち、宦官を作る者たちによって、
王たち、その妾たち、廷臣たちによって、
聖職者たち、その他の官吏である知識人たちによって、
様々な寄生者たちと抑圧者たちによって、作られた歴史である。
資本主義が、社会の重心全体を変えた。

陳腐だが本当であって社会学的に非常に重要な説明の中にある。
すべてのドルは、社会的気品を全く欠く者が所有しようと、
「卑しい生まれ」の者が所有しようと、ユダヤ人が所有しようと、
黒人が所有しようと、誰も聞いたことのない者が使用しようと、
他のすべてのドルと同等物であって、
有能な人々が提供すべく自分たちの生活を構築しなければならない、
市場における製品とサービスを指揮するのだ。

社会主義がもたらすエセ革命は、再び身分社会の出現に至り、
再び大衆が歩の駒の地位に零落する可能性が遙かに高いと、ミーゼスは主張した。
人間が意識的に彼自身の歴史を作るという、
自らを英雄的メロドラマの主題役に割り当てるエリートに管理されるのだ。


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2013年3月5日、ラルフ・ライコ、「クラウス?」

 Ralph Raico

済まないが、LRC(LewRockwell.com)の私の仲間たち数人には、不賛成を言わねばならない。
私に言わせれば、ヴァーツラフ・クラウスは、まったく自由(フリーダム)の英雄ではなかった。
1940年代半ば、 ドイツ国防軍(Wehrmacht)が、ボヘミアとモラビアから撤退した。
そして、ピーピーも言っていなかったチェコ人たちが、(いくらかレジスタンス兵たちが、
英国から空輸されなければならなかった。)突然、自分たちが成人であることに気づいた。
エドヴァルド・ベネシュに率いられて、
すべてのドイツ人たちが、ズデーテンラントの自分たちの先祖代々の土地から、
プラハその他から、追い出された。
「チェコスロバキア」は、最初から、ヴェルサイユでデッチアゲられた詐欺だった。
それは、スロバキア人たちよりも多くのドイツ人たちを含んでいた。
そして、スロバキア人たちは、チェコ人たち有利に差別されていた。
(ドイツ人たちと一緒に追い出された)ハンガリー人の少数派のように。
おそらく、150万人のドイツ人たちが、冷酷な追放で死んだ。
ほとんどすべての女性たち、子供たち、老人たちだ。
何年か前、チェコの大統領ヴァーツラフ・ハヴェルは、
世論を無視して、その犯罪に対して謝罪した。
ヴァーツラフ・クラウスは、これ見よがしに、そうすることを拒んだ。
だから、クラウスは、決して自由(フリーダム)の戦士ではない。
よくいる道徳不在の中道右派の政治屋である。



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アメリカ帝権の創立者


2014年8月8日、ルー・ロックウェル、「誕生日おめでとう、トム・ディロレンゾ」 

 Lew Rockwell

トムが、今日で60歳である。
彼を見て、そうは決して言えないだろうけれども。
経済学とアメリカ史の素晴らしい教師であり学者である。
業績を一つだけ取り上げるならば、
彼が、リンカーンについての意見の雰囲気を変えた。
我々の自由(フリーダム)を、その上、世界の大半を、
台無しにすることに取りかかったアメリカ帝権の創立者である。



この体制による聖エイブラハムについての嘘を繰り返し語る際に、
安全を感じられる教授やジャーナリストは、トムのおかげで居るまい。
あまりに多くのアメリカ人たち、特に学生たちが、真実を知っている。
トム、お誕生日おめでとう、おめでとう。








 





  


 





 









































 


 


  





 


 


 







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私はリバタリアンである


2014年5月6日、ローレンス・ヴァンス、「私はリバタリアンである」

 Laurence M. Vance

私は、リバタリアンである。
私は、民主党員や共和党員ではない。
私は、リベラルや保守主義者ではない。
私は、左派や右派ではない。
私は、穏健派や進歩主義者ではない。
私は、リバタリアン党員ではない。
私は、連合主義者ではない。
私は、憲法主義者ではない。

私は、リバタリアンである。
私は、厚派や薄派ではない。
私は、獣派や人道派ではない。
私は、全体派や唯我派ではない。
私は、道徳派や帰結派ではない。
私は、開放派や閉鎖派ではない。
私は、形式的、国際的、文化的、体制的、洗練的な、つまり政府界隈リバタリアンではない。
私は、出血心臓(大げさな同情)を持っていない。
私は、新や第二波や千年紀のリバタリアンではない。
私は、分かりやすい古いリバタリアンである。
ラベルが必要なく、ただし書きを付けず、言い訳をしないものだ。

私は、リバタリアンである。
リバタリアニズムは、力や暴力の許容される使用に関係している政治哲学である。
それは、制限された政府が最良の種類の政府であると言う政治哲学ではない。
それは、社会的にリベラルで経済的に保守主義の政治哲学ではない。
それは、政府は民間部門よりも効率的ではないと言う政治哲学ではない。
それは、政府のある政策を他の政策よりも推進することによって、
自由(フリーダム)が獲得できると言う政治哲学ではない。
それは、低税リベラリズムである政治哲学ではない。
リバタリアニズムは、人種差別、性差別、ホモ嫌い、外人嫌い、民族主義、土着主義、
階級主義、権威主義、家父長制、不平等、階層が無いことではない。
リバタリアニズムは、多様性や行動主義ではない。
リバタリアニズムは、平等主義ではない。
リバタリアニズムは、寛容や尊重ではない。
リバタリアニズムは、社会的態度や生活様式や美的感性ではない。



私は、リバタリアンである。
私は、マリー・ロスバードの言葉では、
「暴力の唯一適切な役割は、暴力から身体と財産を守ることであり、
そのような全くの防衛を超える暴力のいかなる使用も、
それ自体、攻撃、不正、犯罪である」と言う、非攻撃の原則に同意する。
従って、リバタリアニズムは、誰もが、暴力的な侵害が無いべきであり、
他の者の身体と財産を侵害する以外は、その人が適当と思うことを、
自由に行えるべきであると述べる理論である。
私は、行為に関心がある。
私は、考えには関心がなく、
私は、考えの否定的結果にのみ関心があるのだ。
私は、非攻撃の原則は政府にまで及ぶと信じている。
従って、リバタリアンたちは、政府たちの国内外に対する干渉と介入に反対すべき、
あるいは、そうでなければ制限しようとするべきである。
非攻撃の原則に対する最大の違反者たちである。

私は、リバタリアンである。
私は、黄金律を信じている。
私は、「Live and Let Live」(本人が生きたいように生きることを許せ)を信じている。
私は、人は、その人の行いが平和的である限り、
本人が望むことは何でも自由に行えるべきであると信じている。
私は、悪徳は犯罪ではないと信じている。

私は、リバタリアンである。
我々の敵は、国家である。
我々の敵は、宗教や企業たちや団体たちや財団たちや組織たちではない。
それらは、それらが国家と繋がりを持つせいで我々を害する力を持つのみである。
そして、戦争は、国家の健康であるので、
国家の軍隊、戦争、対外干渉は、徹底的に反対されなければならない。

私は、リバタリアンである。
私は、レッセ・フェール(為すに任せよ)を信じている。
誰でも、国家からの免許、許可、禁止、干渉なしで、
いかなる経済活動にも自由に従事できるべきである。
政府は、経済に対して何等も干渉すべきでない。
自由貿易協定、教育バウチャー、社会保障の民営化などは、
僅かたりともリバタリアニズムの考えではない。



私は、リバタリアンである。
最良の政府は、政府無しである。
最小統治の政府は、次善の政府であるということ。
政府とは、ボルテールが言ったように、
その最良の状態で、必要悪であり、
その最悪の状態で、耐えがたきものである。
どの政府も行える最良のことが、単に我々を放っておくことである。

私は、リバタリアンである。
税金は、政府による盗みである。
政府は、人の所得の一定パーセントに要求権を持ってはいないのである。
税法は、簡易化したり、短くしたり、より公平にしたり、
より侵入的でなくしたり、する必要はない。
税率は、より低くしたり、より公平にしたり、より平等にしたり、
より累進的でなくしたり、する必要はない。
所得税は、さらなる、もしくは、より大きな、
控除や抜け穴や隠れ蓑や減額や免除は必要ない。
腐ったシステム全体を廃止する必要があるのだ。
人々は、自分が稼いだものを保持し、
自分のお金で行うことは、自分自身で決める権利を持っている。
それを使ったり、それを無駄にしたり、それを浪費したり、
それを寄付したり、それを遺贈したり、
それを退蔵したり、それを投資したり、
それを燃やしたり、それを賭けたり。



私は、リバタリアンである。
私は、放蕩者(リバティーン)ではない。
私は、快楽主義者ではない。
私は、道徳相対主義者ではない。
私は、ある代替生活様式の愛好者ではない。
私は、革命家ではない。
私は、虚無主義者(ニヒリスト)ではない。
私は、そうである者たちと交際したいとも攻撃したいとも思わない。
私は、交際と差別の絶対的自由(フリーダム)を信じている。

私は、リバタリアンである。

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厚いリバタリアニズムの危険


2014年5月1日、ルー・ロックウェル、「リバタリアニズムの未来」

 Lew Rockwell

マルクス主義者たちは、最も些細な違いでの内紛で有名だった。
あるグループが脱退して、脱退したグループの語順を逆さにして、
自らを新しい純粋なグループだと宣言する。
最初のグループは、来るべき労働者たちの勝利を抑え込むための、
ファシストの陰謀の一部なのだと、新しいグループが世界に宣言する。
その二つのグループの違いは、専門家にとってすら、まったく検知不可能であったけれども。

「厚い」リバタリアンであるべきか、「薄い」リバタリアンであるべきかに関して、
リバタリアンたちの間で近ごろ起こってる非公式の討論は、異なる性質を持っている。
それは、リバタリアニズムが何であるかについての、まさに核心を突いている。

「薄い」リバタリアンは、非攻撃の原則を信じている。
人は他人に対して物理的力を開始してはならないということを。
薄いリバタリアンは、自らを単純に(形容語の付かない)リバタリアンだと思っている。
ほとんどの「厚い」リバタリアンたちも、非攻撃の原則を同様に信じているが、
彼らは、自由(リバティー)のための闘いが首尾一貫するには、
リバタリアンたちが他の見解にも傾倒しなければならないと信じている。

「厚い」リバタリアニズムの提唱者たちは、
リバタリアンたちは非攻撃の原則を超えるものを擁護しなければならないと言う。
リバタリアニズムは、それだけのものを超えた傾倒を意味するのだと。
そのような提唱者の一人が最近このように言った。
「力の適切な使用と不適切な使用にのみ、
 リバタリアニズムの哲学が関係していると信じることに、
 私は、困難を感じ続けている。」
しかし、その人が信じることが、どんなに難しかろうと、
それが、まさしく、リバタリアニズムなるものであり、それだけのものなのだ。

この何ヶ月、我々は、あるリバタリアンたちに、こう告げられてきた。
はい、はい、リバタリアニズムとは、非攻撃とか、私有財産とか、そういうことに関するものだと。
しかし、それは、実際には、国家が押しつけたのであろうとなかろうと、
あらゆる形の抑圧に反対する、より大きな計画の一部なのだと。
これは、厚いリバタリアンにとって、二つの意味合いを持つ。
第一に、国家に反対することは、十分ではないと。
たとえ、物理的攻撃を伴っていなくても、
本物のリバタリアンは、他の様々な形の抑圧に反対しなければならないのだと。
第二に、国家の縮小もしくは廃止は、
多くの厚いリバタリアンたちが支持する他の種類の結果をもたらすから、
リバタリアニズムが支持されるべきなのだと。
より小さな会社たち、より労働者主導の協調、より経済的平等など。

これらの意味合いを一つずつ検討しよう。

リバタリアンが攻撃に反対することは十分ではないと主張することは、
最初に古典的リベラリズムを破壊し、それを現代リベラリズムに変形した、罠に陥ることである。
結局、どのようにして、18世紀と19世紀のリベラリズムが、
国家に夢中の20世紀と21世紀のリベラリズムになったのか?
そもそも、どうやって、かつては栄光ある言葉だった「リベラリズム」が倒錯してしまったのか?
まさしく、厚い主義ゆえである。
20世紀のリベラルたちは、こう言ったのだ。
我々は、自由(リバティー)に賛成だ、
しかし、単なる消極的自由すなわち、国家に対する制限だけでは、
十分に平等主義の結果をもたらさないように思われるので、
我々には、それ以上のものが必要だと。
ある国家活動に対する制限に加えて、
我々には、他の形の国家活動の「拡大」が必要だと。

結局、新しいリベラルたちは、国家による抑圧が、
世界における唯一の形の抑圧ではないと言ったのだ。
貧困があり、それが、人生の選択を行う人々の能力を制限するのだと。
私有財産があり、その制約が、自分を表現する人々の能力を制限するのだと。
差別があり、それが、人々の機会を制限するのだと。
悪口があり、それが、人々を不快にさせるのだと。
もっぱら国家に焦点を当てることは、
これら極めて現実的な形の害を見落とすことだと、
新しいリベラルたちは言ったのである。

聞き覚えは?
それが、まさしく、多くの厚いリバタリアンたちが今言っていることではないのか?
国家を攻撃することは、十分ではないと、我々は聞く。
我々は、「家父長制」、階層、不平等などを攻撃しなければならないのだと。
厚いリバタリアンたちは、どんな追加の傾倒をリバタリアニズムが伴うのかについて、
彼ら自身の間で意見が合わないかもしれないが、リバタリアニズムが、単に、
物理的力の開始を根絶することに専念してはいけないということに、彼らは、皆、同意する。

もしも、自分たちのイデオロギー上の好みに従う社会を望むとか、
それに向かって取り組みたいというリバタリアンたちがいたら、
もちろん、そうするのは、ご自由にだ。
しかし、特に、彼らがリバタリアニズム内の大テントにこだわっていることを考えれば、
我々の栄光ある伝統の上に何であれ彼らが置くことになった奇異な解釈を、
彼らが他のリバタリアンたちに押しつけたり、
それら他のイデオロギーを共有しない人たちは本当のリバタリアンにはなれないと暗示したり、
それらを抱くことの出来ない者が本当にリバタリアンであり得ることは、
「まったくありそうにない」と示唆することは、間違いである。
それらが、「不寛容」について文句を言っている同じ人たちであるということが、
皮肉のうちで唯一最も甚だしいものである。

従って、厚いリバタリアニズムの危険は、単に、アメリカ人口のうちの大部分が、
何を信じ、何を言うことが容認されるのか、MSNBCが我々に知らせるものに、
10分ごとに遅れずについていっておらず、その入場条件に合格できないことではない。
その危険は、厚いリバタリアニズムが、
彼ら自身が認めているように、物理的力の開始を伴わない、他のそれの関心事を、
リバタリアニズム自体に持ち込むことである。
それによって、リバタリアニズムを、
我々が数世代にわたって擁護してきた真っ直ぐで簡潔な道徳と社会のシステムとは、
まったく異なるものへと変形させることである。

さて、第二の意味合いだが、
国家に反対することは、それが平等主義の結果をもたらすから賛成されるべきであると。
(もちろん、国家の廃止は、「地位」の観点からすれば、必然的に平等主義の水準を増す。
 つまり、一方で、自分たちを支える国家の正当性でもって、
 あらゆる種類の道徳上の非道を行ってもよい、国家の役人たち、
 他方で、盗みと攻撃に反対する伝統的な道徳上の規則に制約されている、普通の人々、
 その間の地位の不平等は、国家が消滅する時、もはや存在しなくなる。)
しかし、もし、そうでなければ、どうするのか?
自由市場では、会社たちは、より小さくなる傾向にあるのだと、
政府の政策が、事業が大きいことを促しているのだと、いう主張は、
あまりに複雑な現象について、あまりに大ざっぱな発言である。
もし、国家の不在が、会社の大きさや雇用関係や富の不平等に何も変化をもたらさなければ、
どうするのか?

その時点で、問いは、こうなる。
厚いリバタリアンたちは、非攻撃と平等主義の、どちらの原則に、より傾倒しているのか?
彼らは、選択しなければならないなら、どうするのか?

同様に、ある古典的リベラルたちの教会に対する憎しみが、
教会の財産を没収し、教会の活動に対して様々な種類の制限を加えるよう、彼らを動かした。
自由(リバティー)に対する彼らの信念か、教会に対する彼らの個人的憎しみか、
選択することになれば、彼らの個人的憎しみが勝ったのだ。
そして、原則に基づいているとされた、暴力への彼らの反対は、一時的に停止されたのだ。

どのようにして人々がリバタリアニズムに到達するのかも、重要なことではない。
非攻撃の原則へと至る様々な思想学派が存在している。
いったん、そこに至れば、我々は、正確に何が特定の場合における攻撃になるのか、
もちろん討論してよい。
しかし、もしも、あなたが所属している思想学派が、
部分的にのみ非攻撃のほうへと、あなたを連れていくのなら、
あなたが、新しい、もしくは、より良い形のリバタリアニズムを発見したということではない。
そのような場合は、あなたは、異なる種類のリバタリアンなのではなく、
部分的にリバタリアンであるという意味でしかない。

自己防衛の法律が「人種差別主義的」だという主張であろうと、
ビットコインが「人種差別主義的」だという主張であろうと、
リバタリアンたちは「白人の特権」を捨て去るべきだという主張であろうと、
(非攻撃の原則に対する我々の固執とされるものを、
 超えたのだと主張しているリバタリアンたちによって、このすべてが唱えられている)
様々な形の厚いリバタリアニズムは、我々が信じているものの中心的な教えを混乱させている。
それらの関心事は、何一つ僅かたりともリバタリアニズムに関係ない。

それら追加の主張は、すべて、中心にある原則から逸らせるものである。
つまり、もしも、あなたが、物理的力の開始に反対するのなら、
あなたは、リバタリアンである、そこで終わりなのだ。
さて、それは、そんなに大変なことか?


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2011年、ラルフ・ライコ、「リベラリズム:本物と偽物」

 Ralph Raico

実際、リベラリズムについての文献を調査すれば、概念上の混乱状態が明らかになる。
この一つの根本的原因が、「リベラル」を自称した重要な政治的集団たち、
すべてを収容しようとする頻繁な試みである。

そのような変化は、民主的選挙の政治の力学によって容易に説明される。
集産主義の思想の競争に直面して、リベラル政党たちは、
新しい種類の「政治的起業家たち」を生み出した。
「たかり」選挙民たち、すなわち、
国家を用いて自分たちの経済的立場を高める者たちを、
動員する技に長けた者たちである。



この分野で一般的な混乱の多くは、ジョン・スチュアート・ミルに遡れる。
英語を話す人々によって受け入れられているリベラリズムの概念において、
非常に膨らまされた立場を占めているのだ。

ミルは、企業家たちと労働者たちを含む、
すべての社会階級の利益の長期的調和というリベラルの考えを拒絶した。

国際問題では、ミルは、外国の戦争に不干渉というリベラルの原則を拒否した。

最悪なことは、ミルが自由(リバティー)の概念を醜く変形させたことだった。
自由(リバティー)は、国家やその他の団体たち個人たちの側の、
物理的攻撃によってのみ、脅かされる状況ではないようだと。
むしろ、「社会」が、しばしば、個人の自由(フリーダム)に対して、
もっと重大な危険をもらたすのだと。

彼は、自分が何も知らない多数の人々の、
習慣、態度、選好、道徳的規準に対して絶えず判断を下した。

受け入れられている宗教、伝統、社会規範に敵対する姿勢に、
リベラリズムを繋げる決定的な結合は、
他の誰より、ジョン・スチュアート・ミルのせいである。
それが、残念ながら、標準になってしまった。

一方に、国家の強制、他方に、社会的圧力、正統的意見、慣習、
その間の区別を付けないのである。

ミルの見解は、「社会的不承認を被ることと投獄を被ること」の間の、
かなり決定的な区別を消す傾向にあり、リベラリズムを、
無実の非強制的な伝統的価値観や取り決め、特に宗教的なものに立ち向かわせることになる。
それは、リベラリズムと国家の間で、攻撃同盟も作り出す。
もしかしたら、ミルの意図に反するとしても、伝統的な規範は、
政治的権力の大規模な使用による以外、根絶できる方法は、想像が難しいのだから。

リベラルの通俗的な意味が、時間とともに大幅に変わってきたことは、争点になっていない。
1900年あたりで、英語を話す国々その他の場所で、この用語が、
本質的に社会民主主義者である著述家たちに捕らえられたことは、良く知られている話である。

修正主義の社会主義の創始者、エドゥアルト・ベルンシュタインの、この言葉を考えてみよ。
「自由な個性の開発と保護が、すべての社会主義の方策の目標である。
 たとえ、それらが、表面的に、強制であるように見えてもである。
 社会における自由(フリーダム)の総量を増やし、
 より幅広い集団に対して、それが取り去るよりも、より多くの自由を与えることが、
 強制の問いであることは、より綿密な考察が、常に示している。」

これが、過去一世紀それ以上の間の「新しいリベラルたち」の立場と、どう違うのか?
リベラリズムを反対のイデオロギーたちから分けるものが、
まさしく、その実質的な施策、擁護する手段である。
すなわち、私有財産、市場経済、そして、国家および国家後援の団体の権力の最小化である。

リベラリズムの概念が、市場経済と私有財産の支持者を締め出すべく変形された後、
「個人主義」も、その同じ目的のために、再定義されることになったのである。

こんにちの絶え間なく拡大する福祉国家に魅了されている著述家たちが、
それをリベラルの伝統に融合させようと試みてきたことは、驚くに当たらない。

その結果は、歴史的なリベラルの柱である、私有財産、法の前での平等、
契約と言論と結社の自由の、計画的な転覆である。

こんにち、ハーバート・スペンサーが、一世紀以上前に表明した不満が、
これまでにも増して真実味を持っている。
「そんなことが、リベラルの名を主張する党の行っていることなのだ。
 拡張された自由(フリーダム)を唱える者であるとして、リベラルを自称している!」



厳しく制限された国家を設立するというリベラルの施策が、根本的な矛盾を隠していて、
物事の本質上、必然的に、包括的な権力で武装した国家に道を譲るというのは、もっともらしい。
これは、ハンス・ハーマン・ホップによって、説得力を持って論じられてきた。
「自由(リバティー)と財産を保護するという元のリベラルの意図に反して、
 どの最小政府も、最大政府になる生来の傾向を持っているのである。」と。

リベラリズムが、包括的な社会哲学として、18世紀に形成された時、
それは、欧州で一般的だったマーカンティリズム(重商主義)と官房主義のシステムの、
正反対のものとして現れたのである。

人々に対するパターナル(父親的)な気づかいが、国政術の最高目的だった。
それが、この、経済を、同じく、残りの社会生活を、管理するシステムだった。
その意図が、善意だとされることは、
それを専制的であると激しく非難するリベラルたちにとっては、関係なかった。
警察国家(Polizeistaat)は、偶然にも、「福祉国家」として最良に訳される言葉であるが、
リベラリズムは、それに反発して成長したのである。

歴史的に、君主絶対主義が、国家は、社会のエンジンであり、
その臣民の宗教的、文化的、特に、経済的生活の必要な監督者だと主張してきたところで、
リベラリズムが、最も望ましい体制は、市民社会、すなわち、
私有財産と自発的な交換に基づいた社会秩序全体が、
全般的に自らを運営するものだと、際立って対照的な見解を立てたのである。

リベラリズムの理念型を構築するなら、
「国家に対する社会」というリベラルの断言の象徴的表現に頼るだろう。
最も簡潔なものが、フィジオクラット(重農主義者)のスローガンである。
「レッセフェール(為すに任せよ)、レッセパッセ(行くに任せよ)、世界は、ひとりでに進み続ける」

リベラリズムは、本質的に、社会の自己規制、有益な自生的秩序を生み出すその能力の教義である。


http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-932.html

1978年、マリー・ロスバード、「新しい自由のために」

 Murray Rothbard

リバタリアニズムの信条は、西洋世界における17世紀、18世紀の
「クラシカル・リベラリズム」(古典的自由主義)の運動から、
特に17世紀のイギリス革命から現れた。
この急進的なリバタリアニズムの運動は、
その誕生の地、英国では部分的に成功しただけであったが、それでも産業と生産を、
国家統制の窒息的な制限と都市部の政府支援のギルド(特権的同業者組合)たちから
解き放つことによって、産業革命へと導くことが出来た。
西洋世界中で、クラシカル・リベラリズム(古典的自由主義)の運動が、
旧秩序と呼べるもの、何世紀の間その従属民たちを支配していたアンシャン・レジーム
(旧体制)に対する、力強いリバタリアニズムの「革命」だったからだ。
そのレジーム(体制)は、16世紀に始まる近世において、
封建的土地独占と都市部のギルドによる支配と制限という、より古い制限の蜘蛛の巣の上に、
絶対的な中央国家と神権による王の支配を押しつけた。
その結果が、統制、税金、中央(および地方)政府がお気に入りの生産者たちに授けた
生産および販売の独占特権という、活動を妨げる蜘蛛の巣の下でのヨーロッパの停滞であった。
新たな官僚的、戦争作りの中央国家の、特権商人たちとの同盟、
すなわち後の歴史家たちによって「重商主義」と呼ばれた同盟、
そして、支配する封建領主階級たちとの同盟が、旧秩序を構成していた。
それに対して、クラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちと急進主義者たちが、
17世紀と18世紀に立ち上がり反抗したのである。

クラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちの目標は、
個人の自由(リバティー)をその相互関係的な全側面においてもたらすことだった。
経済においては、皆と大勢の消費者たちを益する交換で創造し生産すべく、
税金が徹底的に減らされ、統制と規制が除去され、
人間のエネルギー、企業、市場が解放されることになった。
起業家たちは、ようやく、自由に競争、開発、創造できることになった。
統制の束縛は、同様に、土地、労働、資本からも解かれることになった。
個人的自由(フリーダム)と市民的自由(リバティー)が、
王やその手下たちの略奪と圧制に対して保証されることになった。
宗教は、何世紀の間、宗派たちが国家の支配を得ようと戦う時には
血まみれの戦争の原因であったが、あらゆる宗教たち、もしくは、非宗教たちが、
平和に共存できるように、国家の押しつけや干渉から解放されることになった。
平和も、新しいクラシカル・リベラル(古典的自由主義者)たちの外交政策の信条だった。
帝国と国家の権力と金(かね)の増強という昔ながらのレジーム(体制)が、
平和とすべての国家たちとの自由貿易という外交政策に取り替えられた。
そして、戦争は、常備の陸軍と海軍によって、常に拡大を求めている軍事力によって、
引き起こされると見なされたので、それらの軍事的設立物は、地方の民兵に、
自分たち自身の特定の家々と近隣の者たちを守るために戦いたいと願うのみの市民-民間人に、
取り替えられた。

このように、よく知られている「政教分離」の主題は、
「国家から経済の分離」、「国家から言論と出版の分離」、「国家から土地の分離」、
「国家から戦争と軍事の分離」として要約できる多くの相互関連する主題の一つに過ぎなかった。
実に、事実上あらゆるものからの国家の分離であった。

要するに、国家は、とても低い、ほとんど無視してよい予算で、
極めて小さくしておかなければならなかった。
古典的リベラル(自由主義者)たちは、決して、課税の理論を開発しなかったし、
増税とあらゆる新種の税金には、激しく戦った。


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我々は彼らに「リバタリアン」を持たせるつもりはない


2014年3月31日、ルー・ロックウェル、「何がリバタリアニズムで何がそうでないか」

 Lew Rockwell

ロン・ポールの最初の大統領立候補以来の、
リバタリアニズムに転向する者たちの数の爆発的成長は、
私の生涯の中で最も興奮させる進展の一つである。
しかし、私は、注意書きを出したいと思う。

リバタリアニズムは、社会の中の暴力の使用に関係している。
それだけのものだ。
他のものではないのである。
それは、フェミニズムではない。
それは、平等主義ではない。
(誰もが等しく、他人を攻撃する権限を持っていないという、機能上の意味を除いて)
それは、美学について何も言うべきことを持っていない。
それは、宗教、人種、国籍、性的指向について何も言うべきことを持っていない。
それは、「白人の特権」に反対する左翼運動とは何も関係がない。
その特権が、国家に与えられているのでない限り。

繰り返す。
リバタリアンとしてのリバタリアンにとって重要な唯一の「特権」は、
国家の銃の砲身から来るたぐいのものである。
したければ、この説明に反対すればいいが、
その場合には、自分の哲学を述べるために、
何かリバタリアニズムの言葉でないものを代わりに用いなければならないのだ。

もちろん、フェミニズムや平等主義のような論点に、
リバタリアンたちが自ら関わるのは、御自由にだ。
しかし、それらの論点に対する彼らの関心は、
彼らのリバタリアニズムには要求されていないし、その必要な特徴でもない。
したがって、彼らは、他のリバタリアンたちに、それらの好みを押しつけたり、
より十分な、より首尾一貫した、より完全なリバタリアンだと自分たち自身を描写してはならない。
我々は、我々の言葉が他の者たちによってねじ曲げられて着服されるのを十分に見てきた。
我々は、彼らに「リバタリアン」を持たせるつもりはない。

ロスバードが表現しているように、
「実際に快楽主義者で代替の生活様式の愛好者であるリバタリアンたちはいるし、
 『ブルジョア』の慣習的もしくは宗教的な道徳の堅い信奉者であるリバタリアンたちもいる。
 リバタリアンの放蕩者たちはいるし、
 自然もしくは宗教の法の規律に堅く忠実であるリバタリアンたちはいる。
 権利の非侵害という命令は別にして道徳理論を全く持たないリバタリアンたちも他にいる。
 それは、リバタリアニズムそれ自体が、一般的もしくは個人的な道徳理論を持っていないからである。
 
 リバタリアニズムは、生き方は提供しない。
 自由(リバティー)を提供するのである。
 各人が自由に自分自身の価値観と道徳原則を採用して、それに基づいて行動できるように。
 リバタリアンたちは、アクトン卿に同意する。
 『自由(リバティー)は、政治上で最高の目的である。』
 皆の個人的な価値尺度において必ずしも最高の目的ではないのだ。」

リバタリアンたちは、思想統制の仕事には適さない。
生涯ずっと教えられてきたことに劇的に反対する見解を採用するよう、
人々を説得しようと試みることは、十分に難しい。
もしも、非攻撃の原則を彼らに説得できたら、我々は大喜びに違いない。
我々の哲学の核となる教えの上に、
体制に承認された意見を恣意的に押しつけることによって、物事を複雑にする必要はない。

リバタリアニズムは、思想と実践の美しく簡潔な体系である。
それは、自己所有の原則から始まり、その上に論理的に築く。
それが求める社会においては、誰も他人に対して物理的力を開始してはならない。
奴隷制から戦争まで道徳上の非道行為に対するリバタリアンの見解について、
これが言っていることは明らかなはずだが、
自由(フリーダム)へのリバタリアニズムの専心は、
人類の明々白々な災難を遙かに超えて伸びる。

我々の立場は、国家が道徳上の悪であるのみならず、
人間の自由(リバティー)が、ものすごい道徳上の善であるというものだ。
人間は、 絞首刑執行人たちと銃ではなく、
自らの際だった特徴である理性(リーズン)に基づいて、
お互いに交流するべきである。
そして、そうする時に、その結果は、歓迎される偶然によって、
上昇する生活水準、創造性と技術的進歩の爆発、平和である。
世界の部分的に資本主義の社会たちにおいてさえ、
何十億ではなくとも何億の人々が、その日暮らしの生存という、
魂を打ちひしぐような悲惨な状況から解放されたのだ。
遙かに有意義で充実した生活と引き換えに。

言い換えると、リバタリアニズムは、その純粋で不希釈の形において、
知的に厳密であり、道徳的に首尾一貫していて、
まったく興奮させ、わくわくさせるものである。
いかなる外来のイデオロギーとも融合する必要がないし、するべきではない。
それは、混乱を引き起こすことにしかならず、
自由(リバティー)のメッセージの中心的な道徳上の主張ならびに、
その魅力全体を薄めることにしかならない。



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